シリコンバレー

ベイエリアの歴史(28)- やっぱり人災だったアイルランドのジャガイモ飢饉

アメリカではちょうど先週、ローマ教皇フランシスが来米して大騒ぎでしたが、カトリックはアメリカでは歴史的にも現在でも、マイノリティの立場です。ここまで見てきたように、プロテスタント=中間層が新天地での事業に成功して定着してきたわけですが、そこに最初にまとまったグループとしてやってきたカトリックの人たちがアイルランド人でした。

私の「宗教=階級闘争」の図式でいうと、カトリックは「領主+農民」のパターンですが、イギリスの場合はカトリックが国教会になってしまったので、イギリスに征服された植民地であったアイルランドでは、「領主は国教会+農民はカトリック」という色分けになりました。その昔のイギリス国教会は、プロテスタントのピューリタンやクエーカーを追い出し、返す刀でアイルランドのカトリックもいじめぬくというジャイアンでしたが、例によって宗教は「特定のグループの人たちを色付けするための記号」に過ぎません。

そのグループの人たちがアメリカに大量に流入したきっかけは、19世紀半ばの「ジャガイモ飢饉」でしたが、天候不良や作物の病気による飢饉は歴史上何度もあったはずなのに、なぜそのジャガイモ飢饉がそれほどの大事件であり、それほどの移民を短期間の間に発生させたのか?というのが私の本日の課題です。

アイルランドは、この時期はイギリス連合王国に併合されていましたが、異なる言語を話す貧しい辺境でもあり、過去に何度も反乱や戦争があったために「アブナイ場所」とされ、領主は「不在地主」となっていました。工業も鉱物資源もないアイルランドは、イギリス人の食料を供給する農業植民地となり、よい農地はイギリス輸出用のビーフやバターを生産するための牧草地や穀物畑として使われ、農民自身には痩せた土地しか残されませんでした。不在地主の徴税代理人は、まるで時代劇に出てくる「悪代官」そのもので、当時の税制の中で税金をよりたくさん取れるように、農民の借りる土地をどんどん細かく細分化し、搾取しまくりました。農民が土地に投資して改善を行ったとしても、その資産は領主に属することになっていたため、農民はプロセス改良投資を行う意欲がなく、不在地主も事情を知らずほったらかしで、生産性が低いままでした。農民は作物をイギリスに輸出し、それで稼いだものの大半を地代としてイギリスにいる領主に支払うという「二重搾取」の図式になっており、1829年に「カトリック差別法」が撤廃されるまで、土地の所有も投票もできませんでした。ほとんど「農奴」のようなものです。

大航海時代に欧州にはいってきたじゃがいもは、痩せた土地でも育つため、こうした事情をかかえるアイルランドの農民にとって重要な食料となりました。土地が細分化しているので、多種の作物を作るというわけにいかず、ひたすらじゃがいもを作るしかなく、しかも育てられていたのは同じ品種のじゃがいもばかり。じゃがいもは、穀物と較べて長期保存がきかないという弱点がありましたが、他に有効な代替作物もありませんでした。そこへ、じゃがいも疫病が大発生しました。

それまでも、じゃがいもの不作という事態はときどき起こっていて、農民にとっては「なんとか共生していくしかない」ものだったのですが、このときは別のいくつかの要因が重なりました。

まず、この直前までに、アイルランドの人口が急激に増加していたこと。飢饉直前の1841年には800万人を超え、過去50年に倍増の勢いでした。(マルサスの人口論そのものですね・・)次に、19世紀半ばといえば(8)で述べたような「泥棒男爵」の時代で、暴力的な投資家が跋扈し、政治的には「レッセ・フェール」の考え方が強い時代であったこと。このため、当時の資本主義総本山であるイギリス政府が「アイルランド貧民救済」という政策をとることに躊躇しました。さらに、領主による「強制退去」が加わってしまったことが第三の要因で、これらが重なって移民の大流出となりました。

飢饉の原因はじゃがいも疫病であり、全体的な天候不順ではなかったため、じゃがいも以外の作物は普通にとれており、実は飢饉の1845-52年の期間中に、イギリスへの畜産物や穀物の輸出はむしろ「増えていた」のだそうです。本来ならば疫病の発生がわかった時点で、イギリスへの食料輸出を止めて、これらの食料を地元消費にまわせば飢饉を回避できたはずなのに、イギリス政府はその手段をとらず、領主階級である政治家は「貧民たちに天罰が下った」という主旨の発言などしておりました。

そして、当時の税制では、年間4ポンド以下の地代しか払わない貧しいテナント一人につき、領主が付加税を負担しなければならなかったため、細分化した貧農をたくさんかかえる領主はたくさん税金を払うという仕組みになっていました。貧農との「共同体意識」を全く持たない不在領主は、飢饉で没落した貧農を土地から追い出し、自分の税負担を減らそうとします。このため、1847年に大掛かりな「強制退去」が発生しました。

こうした要因が重なり、直接の餓死と栄養不良による病死を合わせて100万人以上(推計によってはそれ以上)、そして移民として流出したのが100万人以上、合計して全人口の20-25%がアイルランドから消えました。日本の県でいえば、福島県や群馬県がだいたい人口200万ですから、中ぐらいの県が一つ、数年で消えてしまったようなものです。アイルランドはその後も1960年ぐらいまで長期的な人口減が続き、現在でも450万人にとどまっており、飢饉前の人口を回復していません。飢饉前は、ケルト語系の独自の言語をもっていましたが、人口減以降は英語が支配的になって現在に至っています。

こうした経緯をみると、税制や不作為を原因とした「人災」という側面が強く、またそれはかなり「植民地に対する差別意識と搾取構造」に根ざしています。穿った見方をすれば、イギリスの政治家が「アイルランドにこれ以上反乱を起こさせないために、わざとほっておく」と考えたのかも、と見ることもでき、ジャガイモ飢饉は「不作為によるジェノサイドだった」と唱える学者もあるそうです。

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去っていく移民を見送るアイルランド人家族

出典: Wikipedia

ベイエリアの歴史(27) - アメリカの建前とドイツからの難民

ピューリタン達がニューイングランドに来てさらに半世紀ほど後、もう一人の重要人物がアメリカ大陸にやってきます。 当時のイギリス国王チャールズ2世は、裕福な軍人で英国教会教徒のウィリアム・ペンに借金しており、そのカネを返すかわりに、オランダからぶんどったばかりのニュージャージの南部・西部(=辺境)を「大勉強!あげちゃう!」と与えました。親父ペンには、当時の新思想に染まった理想主義の同名の息子がおり、「ぼ、ぼ、ぼくは、父さんのような腐った大人になりたくないんダ!」とプロテスタントのクエーカー派に改宗しました。息子ペンは、イギリスでますますプロテスタントへの迫害が厳しくなって、新大陸で理想郷を作りたいと思っていたので、(この親父と王様のきたない大人どうしの取引で得た)新天地に仲間と一緒に喜び勇んで出かけていきます。(大人たちは、厄介な息子と厄介な新興宗教を追っ払ってせいせいしたんだと思います。)1681年のことです。

1385042673_william-penn-16441718ウィリアム・ペン(息子)

しかし実は、この息子ペンは優秀なリーダーでした。彼はこの土地をシルバニア(ラテン語で「森の国」)と名付けようとし、チャールズ2世は親父ペンに敬意を評して「ペンシルバニア」と名づけました。息子ペンは、「信教の自由、主権在民、三権分立」という新しい考え方の統治システムをつくり、その理想に忠実にオープン・ポリシーを掲げ、どのプロテスタントの宗派でも、あるいはカトリック教徒であっても、誰でも平等に権利が与えられるようにしました。当時、ニューイングランドではピューリタン以外は入れないという「ピューリタン原理主義」になってしまっていたので、自由の国ペンシルバニアと、それに隣接する、オランダ領時代からの「フリーダム」気質のニューヨーク・ニュージャージーに、あらゆる宗派の人々が欧州から続々とやってきました。

やってきた人々は、イギリスの各種プロテスタント、オランダのカルヴァン派、フランスのユグノー、北欧人などいろいろですが、中でもドイツからは、各種プロテスタントとカトリックも少々入り混じった人々が、怒涛のようにやってきました。ドイツ語のデマ、と言いましたが、1680年にペンシルバニアの人口の60%がイギリスで33%がドイツ、ニュージャージーとデラウェアでは6-11%がドイツ出身だったそうで、かなりたくさん(おそらく数十万人の桁?)いた、というのは嘘ではなさそうです。(フランスもオランダも、自国の領地があるのに、せいぜい数千人でしたよね。)18世紀の本国の人口が、フランス(2200万人)に次いでドイツ(1700万人)であり、オランダやイギリスと比べ一桁多く、とにかく母数が大きかったということでしょう。また、ペンの統治システムのおかげでインフラ整備も進み、フランス植民地ほど住民がバタバタ死ぬ状態ではなかったのだろう、ともいえます。

ここまで見てきたイギリス、オランダ、フランスの場合は、いずれも北米に「領地」を持っていてそこに自国民が合法的に「植民する」というパターンでしたが、ドイツは当時まだ欧州の中の後進国で、海外領地どころではなく、前回述べたように、戦国時代に日本にやってきた欧州人の中には、ドイツ人もオーストリア人もいませんでしたよね。1600年代当時のドイツは、同時期の「江戸幕府」と似たような構造で、神聖ローマ帝国=オーストリア(天皇家)はオスマントルコと宗教改革にやられ続けて衰退しつつあるけれど「キリスト教会の守護者」としての正統性で君臨だけはしており、その下に数百の封建諸侯(大名)が割拠して、その中で一番大きいホーエンツォレルン家(徳川家)のプロイセンが「盟主」(征夷大将軍)として浮上してきました、という感じです。

この頃、宗教戦争に端を発して、みんな(いくつかのドイツ諸侯含む)でオーストリアをいじめた「三十年戦争」が起こり、戦場となったオーストリア/ドイツは、泥仕合の末に国内でカトリックとプロテスタントが現状維持というどっちつかずの終わり方となり、権力は細分化のまま固定しました。同時期に、フランスはルイ14世の絶対王政に向かい、イギリスは共和制を着々とつくりあげたのに対し、ドイツはずるずると競争優位を失い、戦乱で荒廃した住民の生活は貧窮し、どこでもいいから逃げ出したいという人が続出したのです。つまり、このときのドイツ移民とは、「経済難民」のようなものといえます。その後もドイツからの移民の波は続き、フランス革命からナポレオン戦争にかけて、またまたドイツが踏み荒らされてしまった頃がピークだったようです。

難民といっても、やはりプロテスタント、つまり職人・商工業者という「中間層」の人々が多く、今でも世界に冠たる「ドイツのクラフツマンシップ」で知られる人々が大量にはいってきて、その後のアメリカ北部の工業の発展を支えていきます。

そして、ペンのつくった理想郷の統治の仕組みは、その後アメリカ合衆国に受け継がれ、その理想は(本音ではいろんな人がいろんな考えを持っていますが、「建前」として)アメリカ人のアイデンティティを支える「理念」となっています。(をい、トランプ、きいてる?)

出典: 在日米国大使館、fujiyanの添書き、Wikipedia、Civil Liberties

ベイエリアの歴史(26) - フランス、広大なるルイジアナの謎

カナダにはフランス語が残り、(5)でお話したように、かつての仏領ルイジアナは広大でしたが、今のアメリカでフランス支配の痕跡は(ニューオーリンズ以外で)ほとんど感じることがありません。私は以前ニュージャージーに住んでいたので、むしろオランダのほうが「バーゲン郡」「ホーボーケン」などといった地名で親しみを感じます。あの「ルイジアナ」地図の広大さは私にとってはずっと謎でした。 例によって日本史本位の私の頭では、「戦国時代に、欧州人が日本にやってきた」といっしょくたですが、そう言われれば、「南蛮人」はスペイン・ポルトガル(旧教国)、「紅毛人」はイギリス・オランダ(新教国)であり、フランス人ははいっていません。フランスはもともと海洋国でない上、この時期長期にわたるユグノー戦争で国内が疲弊し、大航海時代に出遅れていました。ちなみにユグノーはフランスのプロテスタントで、北米植民地初期に重要な役割を果たしたイギリスのピューリタン、オランダのカルヴァン派と似たような中間層の人たちでした。

その後、あわてて追いつけ追い越せで頑張ったフランスの植民地支配は、前期・後期のふたつに分けられ、北米は「前期」にあたります。ベトナムなどのアジア進出は「後期」で、ナポレオン戦争以後になってからのことです。オランダがジャワを拠点に繁栄した時代から見ると、300年も後のお話です。

16世紀のオランダ大ブレークの頃、それでもフランスから北米に漁船がやってくるようになり、とりあえず他の欧州人のいなかったカナダに1534年に旗を立てて領有宣言します。が、ユグノー戦争で忙しくて70年ほどほったらかし、ようやく戦争が終わってから当時の国王アンリ4世が、イギリスに対抗心を燃やして海外進出に興味を持ち始め、1603年にシャンプランがセントローレンス川(現在のカナダ・アメリカ国境)を探検。ちょうどオランダ人がハドソン川で毛皮を見つけて領有宣言したのと同じ経緯を経て、ケベックでの植民がはじまります。毛皮取引のアービトラージ経済ですから、ビーバーが住んでいて、さらに当時の唯一の物流手段である「船」の通れる「川」がポイントとなっています。といっても、寒冷で厳しい自然と強力なネイティブ・アメリカンに阻まれ、その後15年たってもせいぜい数百人ぐらいしか、植民地に住んでいなかったようです。

1664年にイギリスがオランダを追い出し、東部海岸沿いががっちりイギリスの支配下にはいった頃、カナダから五大湖を渡り、フランス人が川にそって南下しはじめます。内陸はまだヨーロパ人は誰もおらず、まだ幻の「アジアへの近道」が諦められなかったのでした。最初に西へと向かうオハイオ川からアジアへの道を探し始めた探検家カブリエ・ド・ラ・サールは、この川はミシシッピ川に流れ込み、西ではなく南へ向かうことを発見し、1682年にメキシコ湾に注ぎ込む河口、現在のニューオーリンズまで達します。ミシシッピ川は、それまでの川探検と違い、上流から下流へと入って海に達したわけです。その後フランス人たちがミシシッピ川とその大きな支流をあちこち探検し、流域を国王ルイ14世からとってルイジアナと名付け、領土宣言しました。つまり、広大なミシシッピ川流域のおかげで、フランスの領土は広大になったというわけです。

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ミシシッピ川と支流の流域

しかし領有宣言はしたものの、本国からの「投資」が続きません。イギリスが民間資本主導の一攫千金土地投機でぼんぼん投資したのと異なり、王様の持ち物であるルイジアナに投資する国家予算の余裕が、当時のフランス王家にはなく、港湾・運河・道路などのインフラがまったく整備されず、寒くない代わりに疫病が多く、生活は困難でした。イギリス人であるジョン・ローがフランス政府に進言し、イギリス風の「ミシシッピ会社」という開拓会社を作りましたが、フランス国家の負債を肩代わりする詐欺的なスキームで実質的な開拓は全くやらず、歴史上「3大バブル」の一つとして汚名を残しただけでした。

またフランス政府は、植民地ではカトリック以外禁止としたので、ユグノーたちはルイジアナへは向かわず、むしろイギリス領のプロテスタント支配地域へと行ってしまいました。そのため、18世紀の間にルイジアナへ移民したヨーロッパ人は7000人ほどと言われ、イギリス植民地の100分の一に過ぎませんでした。これだけ広大な土地を、わずかな人数とわずかな投資で維持するのは、どだい無理な話です。

フランス領のうち、イギリスのヴァージニア植民地と同様の「売れる作物を作るプランテーション」というマネタイズが成功したのは、北米本土ではなく西インド諸島、特に現在のハイチであり、作物は砂糖でした。ここで、砂糖・黒人奴隷・ラム酒という有名な「三角貿易」のビジネスモデルができます。これに関わる北米の物流拠点として1718年にニューオーリンズ(=新オルレアン)が建設され、ルイジアナの首都となります。

しかし、人口希薄で防衛も不十分なフランス植民地に、貿易権益と境界をめぐる諍いが起こり、イギリスが攻め込みます。北米ではフレンチ・インディアン戦争、それが欧州にも飛び火して7年戦争となり、負けたフランスは、1763年にミシシッピ以東をイギリスへ割譲、ミシシッピの西はスペイン領となり、仏領ルイジアナはいったん消滅してしまいます。

その後、ナポレオン戦争の時代に、カネに困ったスペインがフランスにルイジアナを返すという密約(サンイルデフォンソ条約)が1800年に成立しますが、わずか3年後に、今度はカネに困ったナポレオンがアメリカ合衆国に売却してしまって、完全に植民地は消滅します。

しかし、こうして見てみると、毛皮取引は北のほうでやっているし、奴隷はフランス北米植民地での自前の需要があったわけでもなく、人口も希薄ということで、北米からフランスに輸出する素材も、フランス商品の「市場」もどちらもなく、ミシシッピ流域物流拠点である魅力的な街ニューオーリンズですら、ビジネスモデルがありません。ナポレオンが「いらんわー!」と売り飛ばしてしまったのも、なんとなく理解できます。

結局フランスは、豊穣な農業経済である本国の「土地領有」の感覚で領土を獲得しながら、オランダ式のアービトラージ貿易経済というビジネスモデルをきちんと構築できず、イギリス式の「投資と人」を大量につぎこむ土地投機・面展開ビジネスモデルもできず、それでもオランダよりは長くがんばったのに、やっぱりちぐはぐで影が薄いまま、120年ほどで仏領ルイジアナは消滅したということになります。

繰り返しになりますが、アメリカという国は、「土地投機」によってできた、ということを改めて思います。

出典: Wikipedia、National Park Service, U.S. Dept. of Interior

ベイエリアの歴史(25)- オランダ、うたかたの夢

ドイツ語のデマの話を前にしましたが、もし英語以外のアメリカ公用語があったとしたら、オランダ語が一番可能性が高かったのでは、と私は思っています。 アメリカ大陸発見から植民地が始まるまでの「北米空白の100年」の間に、欧州で大ブレークしていた新興国がオランダでした。その頃まで、(1G経済である伝統的農業以外の)欧州の富の源泉は、突き詰めると「アジアの香辛料を安く買ってヨーロッパに持ってきて高く売る」というアービトラージの2G経済であり、そのための最適な流通の仕組みを持っている人が勝ちでした。それで、ルネサンスの頃はイタリア都市国家が栄えたわけですが、これらは大西洋航路ができて衰退、西に向かって真っ先に飛び出したスペインは南米大陸のお宝掘りというあさっての方角に行ってしまい、その間隙をぬって王道のアフリカ周り航路で香辛料貿易の権益を築いたのが、「東インド会社」コンビのイギリスとオランダだったわけです。

この頃、すなわち16世紀といえば、欧州では宗教改革と反宗教改革が入り乱れた時代です。領主+農民という「農業ベースの1G経済」の時代を脱し、毛織り物など手工業を営む「中間層」が形成され始めた中で、プロテスタントを歓迎したのはこうした「中間層」の人たちでした。宗教改革とはつまり「階級闘争」だったと考えられます。

オランダもそういった人たちがカルヴァン派のプロテスタントに改宗しました。当時、オランダはハプスブルク家(=神聖ローマ帝国=カトリックの守護者)の支配下でしたが、そういうわけで独立戦争を経て1581年に独立を宣言します。オランダはインドネシアのジャワを植民地としましたが、その役割は「船と物流の中継地」としての性格が強かったようです。そこから運び込まれた品物をさばくために、アムステルダムにはモノと資金が集積されて、初期の「金融市場」が形成されて繁栄し、アジアではジャワから日本にまでやってきました。

船があって、新興国の勢いのあるオランダ人たちは、まだ「アジアへの近道航路」をあきらめきれずに、北米を探検します。ヴァージニア植民地開始と同じ1609年、オランダ東インド会社に雇われたイギリス人ヘンリー・ハドソンが探検にやってきて、現在のハドソン川を遡ってオールバニーまで達し、その流域をオランダ領と宣言しました。アジア航路は見つかりませんでしたが、ハドソン川上流地域では、ネイティブ・アメリカとの取引でビーバーの毛皮が入手できることがわかりました。2G経済ですから、香辛料も金銀もないなら、何かほかにヨーロッパで高く売れるモノをアメリカで見つけて安く入手する必要があったのです。毛皮を積み出す河口の港町はニューアムステルダムとなり、この地域とその周辺のニュージャージー、コネチカット、デラウェアに植民地が建設されてニューネーデルラントとなり、オランダから移民がやってきました。

しかし、この時期のオランダ人の北米支配スタイルは、ジャワと同じ物流拠点としての「点」としての性格が強く、ヴァージニア植民地のように、そこに資金と大量の人を投入して開拓し、「面」として支配するものではありませんでした。統治は総督が派遣されていましたが、最後の総督であったピーター・ストイフェサントは、宗教の自由を抑圧しようとしたため住民からそっぽを向かれ、1664年に侵攻してきたイギリス軍にあっさり降伏し、ニューアムステルダムはニューヨークとなります。その後、再度オランダが取り返したりしましたが、三次にわたる英蘭戦争を経て、ニューネーデルラントは完全にイギリス領となります。

もしオランダが初期の勢いをもっと長く維持していれば、今のカナダのように、英語とオランダ語が両方とも公用語という事態がありえたかも、と想像するとなかなか面白いです。

ニューネーデルラントには最盛時6000人ほどの住民がいたと言われており、人口としては大したことはありません。毛皮取引程度では、あまり大きな人口を養うことはできませんでした。しかし、現在でもニューヨークやニュージャージーには、オランダ語起源の地名がたくさん残っています。また厳格なニューイングランドとは違う、文化的多様性に寛容なニューヨークの気質はオランダ人に由来すると言われています。

わずか50年ほどで、新大陸での利権を失ってしまったオランダは、本国でも英蘭戦争で負けたあと、あっというまに衰退してしまいます。しかし、日本ではオランダは最盛期のときにはいりこみ、その後の鎖国中欧州の国として唯一取引を許され、オランダ最盛期の世界認識がその後200年も凍結したままでした。考えてみれば、宣教師を送り込んで悪気も容赦もなく住民を奴隷化するスペインと、民間投資による「面」展開を武力でプッシュするイギリスを追い出し、「点」支配スタイルで寛容なオランダだけを残してあげた徳川幕府のセンスは、案外悪くなかったのかもしれません。

NEWNEDERLAND

1614年のニューネデルラント地図

出典:在日米国大使館、Wikipedia

ベイエリアの歴史(24)- 始まりは「白人奴隷」

まだベイエリアにはたどり着きませんが、一応アメリカに話が戻ります。でも、時代はまた昔に戻り、アメリカ大陸が発見された後のことです。相変わらず読者のことなど考えず自分の好きなことだけ書いております。 本当は、日系移民のことを調べようと思っていろいろ読んでいるうちに、19世紀のドイツに引き込まれてしまったのですが、日系移民の話の前に、まずは他の移民について調べてみます。

300px-MayflowerHarbor(メイフラワー号)

スペインに雇われたイタリア(ジェノヴァ)人であるコロンブスが西インド諸島に到達した5年後の1497年、今度はイギリスに雇われたイタリア(ヴェネツィア)人であるジョン・カボットがニューファンドランド島に到達、その後のイギリスの北米領有の根拠となりますが、この航海は単発で終わり。次の本格的な北米探検は、フランスに雇われたイタリア(フィレンツェ)人のジョヴァンニ・ダ・ヴェラッツァーノが、1524年にノースカロライナに上陸してニューヨークまで北上したもので、現在もニューヨークのブルックリンとスタテン島を結ぶヴェラザノ橋として名前が残っていますね。相変わらず、イタリア人がパシリに使われています。

この間、中南米征服に熱心だったスペインは、フロリダ以外の北米には食指をほとんど動かしていません。おかげで、ビーバーの毛皮や魚を取りにフランス人やオランダ人がパラパラ来た程度であったわけですが、なぜスペイン人が北米を放っておいたのかというと、ずばり「金銀財宝が出なかったから」であります。グランドキャニオンやカンザスあたりまで探検したのに何も出なかったせいで、メンドクセー、メキシコやペルーで銀を掘り出してればいいや、ということになったようです。

さて、その頃まだまだ新興国であったイギリスは、そんな財宝を積んだスペインの船を途中のカリブ海で襲う「海賊」という、せこい商売をしていました。1585年にウォルター・ローリーによるノースカロライナ植民計画が失敗したあと、ようやくイギリスによる本格的な植民が始まるのは1607年、ジョン・カボットから数えても100年以上あとのことでした。

この最初の植民地は、誰でも知っている「メイフラワー号」ではありません。この辺、私も全然わかっていなかったのですが、イギリス国王から「ここを開発していいよ」という勅許状を得たロンドン商人の一団が、「ヴァージニア会社」を設立して「エンジェル投資家」から資金を集め、ヴァージニアに移民を送り込んだのが最初のイギリスによる植民地で、要するに、一攫千金を狙ったベンチャーです。

メイフラワーがプリマス(現在のロードアイランド州)にやってくるのは、これよりさらに後年、1620年のことです。こちらは、ご存知のようにイギリスで迫害を受けたピューリタンが新天地を求めたものですが、北米地域の開発はヴァージニア会社が権利を持っていたので、ヴァージニア会社と交渉して、その辺境の地を開拓することを請け負って出発、でも実は全然ヴァージニアに行く気はなく、はるか北のニューイングランドに到着しました。

ピューリタンたちは文字通り背水の陣であったので、自分たちが自活するための農業をその地で始めますが、ヴァージニアのほうは、相変わらず金銀財宝を探すのが株主たちの主な目論見でした。困難な航海・生活環境やネイティブ・アメリカンたちとの戦いという高いコストを払っても、ぜんぜん金銀が見つからないので会社は行き詰まり、結局この地の権利は王家一族のものとなってしまいます。しばらく試行錯誤でピボットを続けるうちに、この地では「タバコ」を作って輸出するというビジネスモデルがようやく確立し、その後プランテーションが成立していきます。結局、目的は自給自足ではないのです。

つまりヴァージニアでは、株主やビジネスオーナーたちは、自分たちで新大陸まで行く気はなく、従業員を送り込んで「良きにはからえ」という態度でありました。従業員といっても、「年季奉公人」という実質的な「奴隷」であり、だからやる気がなく、なかなか開拓が進まなかったようです。

そういうわけで、私などはイギリスからアメリカへの初期の移民は「勤勉なピューリタン」だと思っていたのはさにあらず、特に南部では実は白人の「奴隷」が大半を占めていたということだそうです。その後、イギリス本土で議会ができたりして人権意識が高まるにつれ、白人奴隷はメンドくさくて高コストなので、もっと安い黒人奴隷をアフリカから連れてこようとなっていきます。

そして、この最初の一歩から、その後南北戦争につながる「北」と「南」の経済・社会の構造の違いが、すでに芽生えていたのでした。

出典:在日米国大使館北米イギリス植民地帝国史

(ベイエリアの)歴史(23)- 「権力の空白」の恐怖

ますますベイエリアと関係なくなってきたので、ついにカッコがついてしまいました。(-。-; 昨日の続きで、お局様たちにハブられて孤立したドイツ(ジャイアン)の唯一の味方は、かつての名門だが力のないオーストリア(スネ夫)だけでした。スネ夫がジャイアンの力を頼りにバルカンに介入して、セルビア人テロリストに皇太子を殺されてしまったサライェヴォ事件をきっかけに第一次世界大戦が始まります。

これまた、それでなんでドイツがフランスとドンパチ始めるのか、風が吹けば桶屋が儲かるですか、みたいな説明しか世界史の教科書には載っていなかった記憶があります。その複雑怪奇な背景はようやく今回の歴史講義オーディオブックで理解できたのですが、ここでは省略、また機会があれば後日に。

サラエボ

バルカニゼーション(バルカン化)という定番言い回しがあるほどのこの地域は、歴史の長い長い間、オーストリア(神聖ローマ)帝国とオスマントルコ帝国の係争地でした。改めて歴史年表を遡ると、神聖ローマ帝国の成立は962年(日本は平安時代)、ハプスブルク家が王朝を始めたところに限っても1438年(室町時代)であり、またオスマントルコの成立も1299年(鎌倉時代)という、それぞれ実に長い伝統をもっています。問題の19世紀後半、技術爆発により、軍事技術も社会制度も急激に変化したのですが、この両老大国は、その変化についていくことができず、ずるずると支配力を失っていきました。

トルコは数次に渡ってウィーンを攻略しており、一時はハンガリーまで版図に入れていましたが、17世紀終わりころから徐々にヨーロッパ側の領土を失って衰退していきます。一方、ドイツ統一の少し前に、イタリアではピエモンテ(サルディーニャ王国)を中心とした「イタリア統一運動(リソルジメント)」があり、1861年にイタリア王国ができますが、その大きな動機は「オーストリアから北イタリアをとりもどす」ということでした。セルビアは、これに倣って自らが「ピエモンテ」になり、バルカン半島をオーストリアから取り戻して統一国をつくろうと目論んでオーストリアともめていたワケです。

残念ながらセルビアの目論見は実現せず、結局トルコもオーストリアも去ったバルカン半島には、一時はソ連が進出していましたが、ソ連崩壊後またもや「権力の空白地帯」となり、経済的に苦しい小国がお互いに紛争を繰り返す状態が続いています。トルコが去ったあとに、イギリスがちょっかいを出して現在の火種となってしまったパレスチナも、その意味では似たような空白状態です。そんな中で、シリアやその周辺から、難民がバルカン経由で欧州に向かって流入する難民問題が深刻化しています。

直接のきっかけはクルド人迫害やイスラミックステート(IS)で、アメリカのちょっかいも悪かったらしいですが、ちきりんさんのブログによると、アフリカや中近東の多くの国で、人々はちょっとお金が手に入るとクルマや家電を買うのではなく欧州へ移民しようとする傾向があって、「経済がよくなれば難民が減る」という仕組みになっていない、という問題もあるそうで、不安定な権力の空白地帯ではこうした事態が発生しやすい、ということも言えます。短期的対処はさておき、長期的に権力の空白をなくしていく戦略としてよいのは、一体なんだろう、と考え込んでしまいます。

いまどき帝国主義時代のように、遠くの外国が植民地として支配することはありえないでしょうから、理想的には域内の有力勢力が面倒をみる形で、ある程度の大きさのまとまりに統一するという「プロシア/ピエモンテ方式」がよさそうな気がしますが、ちゃんとした政治のできる「域内の有力勢力」がなかなか出てきません。友人のレバノン系米国人がこの件に関して、「ドイツやアメリカに押し付けるな、サウジアラビアとかの金持ちイスラム教国はなにやってんだ」(ちなみにレバノンは小国なのに相当数の難民の面倒をみているようです)とフェースブックに書いていたのが目から鱗で、本来ならそういうことなのかもしれません。「スンニー派だシーア派だと、イスラム教どうしで内輪もめしちょったらいかんぜよ」(バルカン事情も代入可)というメタな視点のある域内リーダー国が出てきてほしいものです。

出典: The Great Courses, New York Times, 山川世界史総合図録、木村正人ブログちきりんブログ

ベイエリアの歴史(22)- 19世紀のドイツ

サインコサインは女子には教える必要ないという人があるようですが、それを言ったら縄文・弥生時代の歴史の知識なんぞ、男子も女子もおよそ実社会で使うことはありません。逆に、本来であれば「実用向け」として現代人がぜひ知っておくべき「近代史」について、日本の学校では時間切れになってろくに授業で教えず、まったくダメダメだと思います。せめて高校では、日本も世界も一緒にした19世紀後半から現代までの「近代史」という授業を1年かけてやるべきだ、とつくづく思います。というわけで、はるか昔に戻って、まためちゃくちゃな横道にそれますが、本日はちょっと19世紀のドイツ、この方のつくった国のお話です。ビスマルク (ちなみに、カリフォルニアのウチの学区では、アメリカ史も世界史も、ばーっと通史でやるのではなく「中世から近世まで」「南北戦争まで」「帝国主義から現代まで」など、テーマ的に分類して教えています。)

かく言う私も、歴女を自称するわりに、近代史については知らないことが多く、この歴史ブログシリーズを書いていて改めて「19世紀後半の日本とアメリカの同期性」について興味をもったわけですが、その「4G経済」のもう一人の同期生であるドイツについては、実はあまりよく知らないのです。それで、「Long 19th Century:  European History from 1789 to 1917」という歴史講義をオーディオブックで聴いています。講師のロバート・ワイナー教授はアメリカ人ですが、「欧州」を起点として世界を見ると、この時期「アメリカ」と「日本」が、「欧州外の新勢力」として、ほぼ必ず一緒にあちこちで言及されるのは面白いです。日本視点だと、「欧米列強」がいっしょくたで、日本は「遅れてる」としか見えないのですがねぇ。ワイナー先生は「日本の影響を軽く見るべきではない」などとおっしゃっています。

欧州の中でも辺境の地であったドイツは、数多くの諸侯国が割拠しており、ナポレオンが弱いところをつぶしたおかげで統合が進み、さらにそこからプロシアが勝ち抜いて他をロールアップしていきます。そして「入れ替え戦」ともいうべき1870年の普仏戦争に勝ってドイツ帝国となり、ついに欧州メジャーリーグにはいりました。このシリーズ(7)で述べたように、アメリカの南北戦争(1864)、日本の明治維新(1868)、ドイツの統一(1871)は時期的に近く、技術の爆発的進化の時代を背景に、「細分化していた地域を統一して、大きな国内市場を作って経済的に飛躍した」という意味で似ています。先行していたイギリスやフランスも、統一市場にはなっていたわけですが、この後のドイツの爆発的な進化に比べ、技術爆発への対応がいまいちめざましくなかった理由は、この歴史講義だけでははっきりわかりません。要するに、明治維新後の日本と同じで、「新体制」のおかげで既得権益をバリバリと踏み潰し、必死で追いつき追い越せで頑張ったのではないか、と考えておきます。

アメリカはこの前後に、「親」ともいえるイギリスを経済規模で追い抜き、世界一の経済大国となりますが、若い国であるので、図体はでかいが「厨二病」の様相を呈しています。「経験不足で舞い上がっちゃった」のは、日清・日露戦争で浮かれた日本も同じ。そしてドイツも、「お局様」がぎっしりひしめく欧州の中で、ビスマルクの権謀術策でなんとかバランスを維持していたのに、ビスマルク引退後に舞い上がってしまいました。お局様たちのプレッシャーが強かった分、ドイツは日米よりも早く爆発して暴走してしまい、第一次世界大戦へと突入するわけです。(それにしても、ビスマルクというのは本当にすごい人だったのですね・・)

なお、アメリカでは「アメリカ独立のとき、実はドイツ人のほうが多かったので、本当ならアメリカの公式言語はドイツ語になる可能性があった」という俗説があるようなのですが、こうやって考えるとあきらかにデマですね。アメリカが独立した18世紀に、個人でアメリカに移住したドイツ人はいたでしょうが、ドイツはまだ海外領土をもつ力はなく、イギリスやその前のスペインのような組織的な入植が行われたわけでもなく、そんなにたくさんドイツ人がいたとはとても思えません。

: The Great Courses、Wikipedia

 

ベイエリアの歴史(21) – マイクロウェーブ・バレーの軍事技術

ドイツのレーダーの恐怖とブルーベリー伝説 さて次はいよいよショックレー・・と思った方、ザンネンでした。昨日の記事に関連する情報をいただき、面白かったので、ちょっと時間を前に戻して書いてみます。

第二次世界大戦前後、「シリコンバレー」となる前のベイエリアで、技術開発を支えたのは軍需産業であった、ということはお話しましたが、これまで私の読んだ資料の中には、その「軍事技術」についてあまり詳しく書いたものがなく、よくわかりませんでした。そのあたりには、どうやらこんな話があったようです。

アメリカは日本の攻撃を受けて1941年に第二次世界大戦に参戦しましたが、欧州ではその2年前からドイツが周辺諸国に侵攻して、イギリスがこれと戦っていました。しかしその2年の間、イギリスは欧州大陸に上陸することができずにいました。そこで、イギリスは新たに参戦したアメリカと相談して、太平洋よりも欧州戦線をまず優先し、空爆することを決定しました。(まー、だから緒戦は日本が勝てた、というわけなんでしょうね・・・)

イギリスは夜間に絨毯爆撃、アメリカは昼間にピンポイント爆撃、という分担でやろうということになりましたが、その攻撃はドイツの強力な早期警戒レーダーの網に阻まれてしまいます。ドイツでは、占領下のフランス・ベルギー・オランダから北ドイツにかけて、レーダーと地対空砲を緻密に設置し、イギリス・北海方面から飛来する米英の戦闘機を検知して撃墜していました。ヨーロッパの北部では、曇って視界の悪い日が多く、飛行機にとっては圧倒的に不利でした。

このため、両軍合わせて4万機の飛行機が撃墜され、両軍それぞれ8万人近い兵士が死傷または捕虜となりました。

連合軍側は、これに対抗するための空対地レーダーを開発し、1943年から飛行機に搭載されるようになります。しかし、それでも飛行機による爆撃は危険なミッションで、一回の攻撃で4~20%のパイロットが失われました。そして、パイロット一人につき従軍中25回出撃していたので、パイロットが生還できる確率は非常に低かったのです。

なお全くの余談ですが、このときイギリスでは、空対地レーダーの存在を隠すために、「我が軍には夜でも目がよく見える兵士が多いから、夜間でも正確に爆撃できるのだ、なぜならイギリスではブルーベリーをたくさん食べるのであるが、このブルーベリーが目に良いからである」というデマを流しました。そのデマが、現在に至るも「ブルーベリーは目によい」という都市伝説となっている、という話を読んだことがあります。

 

アルミホイルの雨が降る

パイロットの生還率を高めるためには、ドイツ軍のレーダー・システムを解析し、これを撹乱する仕組みがどうしても必要となりました。そこで、ハーバード大に秘密の無線研究所、Harvard Research Lab (RRL)が設立されたのです。MIT Radiation Labを分離した800人の組織で、そのトップとして招かれたのが、前回登場したスタンフォード大のフレデリック・ターマン教授でした。ターマンは学部はスタンフォードでしたが、大学院はMITというつながりがありました。

RRLでは、スパイ飛行機をドイツに飛ばして無線を傍受して解析し、レーダー妨害機を開発して連合軍の飛行機に搭載しました。また、ドイツのレーダー撹乱のために「アルミホイル」(そう、料理に使うアレ)の厚みがちょうどよいとの研究結果により、レーダー範囲に飛ばした飛行機から兵士が素手でアルミホイルをばらまくという作戦も1943年から行われました。日本ではお寺の鐘などを供出していた頃、アメリカでは全米のアルミホイルの3/4がこの作戦のためにかき集められたそうです。

そういうわけで無線の研究は軍事目的のためにとても重要で、軍の研究予算がMITやハーバードには1億ドルとか3000万ドルとかの単位で拠出されていたのに、スタンフォードにはなんと5万ドルぽっきりでした。この頃、いかにスタンフォードの存在が小さかったかがよくわかります。「なにくそっ、いつの日か、スタンフォードをMITやハーバードと肩を並べる大学にしてやるぞっ!」と、ターマン教授が夜空を見上げて、拳を固めて涙ぐんでいる図が思わず頭に浮かんでしまいます。

その志を胸に、戦後スタンフォードに戻ったターマン教授は、次の戦争に向けた軍事研究に備え、前回書いたような大学改革に着手し、自分の人脈を使って無線の研究者をゲットしていきます。1950年には朝鮮戦争が起こり、それを機にスタンフォードは初めて、本格的な官学共同研究パートナーとなります。引き続く冷戦では、ソ連の「核の真珠湾」を防ぐための防衛システムが重要となり、スタンフォードはNSA、CIA、海軍、空軍の研究パートナーの中心的役割を果たすことになり、軍の予算も飛躍的に増加します。

こうした流れのため、この時期のスタンフォードの軍事研究は、主にレーダー・無線の技術、そしてそれに伴う電子工学の基礎研究でありました。その研究成果をもとに、ヴァリアン・アソシエーツやロッキードが軍事機器を製造しており、近くて便利なスタンフォード・インダストリー・パークに入居したというわけだったのです。というわけで、50年代あたりには、この辺一帯はシリコンバレーではなく、「マイクロウェーブ・バレー」であったのだそうです。

<続く>

出典: GIGAZINE

ベイエリアの歴史(20) – スタンフォード・インダストリアル・パークの創設

フレデリック・ターマンの金儲け ヒューレットとパッカードを励まして、HPを設立するきっかけを作ったのは、スタンフォード大学電気工学のフレデリック・ターマン教授でした。ターマンは、学生がせっかくスタンフォードを卒業しても就職先が東海岸にしかなく、カリフォルニアに定着できないという事態を解消するために、自分の教え子に自ら起業することを勧めていたのでした。

無線の専門家であったために、第二次世界大戦中はハーバード大での軍事用無線の研究に従事していましたが、戦争が終わってスタンフォードに戻り、電気工学学部長となりました。当時、スタンフォードはまだまだ「リージョナル大学」、つまり全国区ではなくその地域の学生だけが主に集まるタイプの大学でした。そのスタンフォードを工学部門で全米トップクラスの大学にするため、ターマンは20年計画を立案し、教授陣の給与引き上げ、学生のための奨学金、研究設備や教室の充実などを推進しました。

いずれも先立つモノが必要なことばかりですが、当然今のスタンフォードのように金持ちの卒業生がいっぱいいて寄付金がバンバン集まるという状況ではなく、スタンフォードはおカネに困っていました。そこでターマンは、スタンフォードの広大な敷地の一部を開発して、そこから賃料収入を得ることを計画します。これが、1953年にできたスタンフォード・インダストリアル・パーク(現在はスタンフォード・リサーチ・パーク)で、世界最初のテクノロジー企業向けオフィス・パークとなりました。スタンフォード・インダストリアル・パークは、企業が入居するオフィスと、スタンフォード・ショッピング・センターやアパートなどから成っていました。ターマンが個人で儲けたわけではありませんが、ここでもカリフォルニアの「土地投機/不動産開発」の伝統芸が発揮されたというわけです。

シリコンバレーの父

最初の入居企業は、ターマンの教え子が起業したレーダー・電磁波機器の会社、ヴァリアン・アソシエーツでした。ヴァリアンはその後3つの会社に分割され、そのうち2つは買収されて名前が消えていますが、現在でも医療機器のヴァリアン・メディカル・システムズが独立で生き残っています。ヴァリアンの創業者は当時としては進歩的な考えをもっており、利益分配制度、従業員持ち株制度、従業員健康保険、年金制度などの福利厚生をいち早く導入したことで知られていました。ヴァリアンの初期の頃、スティーブ・ジョブスの母、クララ・ジョブスが働いていたことがあるそうです。

インダストリアル・パークにはその後、HP、イーストマン・コダック、GE、ロッキードなどが入居しました。1950年代終わり頃には、ロッキードはこの地域で5000人の従業員を抱える、最大の雇用者となりました。スタンフォード大のあるパロアルト周辺は、果樹園から急速にテクノロジー企業の町へと変貌していきます。

ターマンは1965年に引退するまでスタンフォード大学の運営に関わり続け、1982年に82歳で亡くなりました。彼の目論見どおり、この頃からスタンフォードは、全米大学ランキングを駆け上がっていき、卒業生が創設した企業が育っていきます。そして彼はインダストリアル・パーク構築の功績により、ウィリアム・ショックレーと並ぶ「シリコンバレーの父」の一人として知られています。

<続く>

出典: Wikipedia、NPRStanford NewsStanford OTLHP

ベイエリアの歴史(19) – 日系アメリカ人の戦い

マンサナー収容所 つらい話が続きますが、日系人収容所についてもう一回。

このとき「除外区域からの退去」を義務付けられたのは、「1/16まで」、つまり曾祖父母の中に一人日本人がいる者までが対象でした。よくもそんなところまで調べたものです。

全米10ヶ所のうち、人数で最大のものはカリフォルニア州トゥール・レイク(オレゴンとの州境)で、最大19,000人が収容されていました。ちなみに、現在のトゥール・レイクの町の人口は1000人です。そして、カリフォルニア州にあったもう一つのものが、有名なマンサナー(中央平原のシエラネバダに近いあたり)です。収容人数は最大11,000人ほどで、10ヶ所の中では中ぐらいの規模でしたが、写真を含む記録が最もよく残っているために、日系人収容所に関する資料としてマンサナーが使われることが多くなっています。マンサナーは、どうやら現在は「町」としては消滅しているようです。(アメリカでは、「郵便局の有無」により町として住所に記載されるかどうかが決まります。マンサナーの郵便局は1914年にすでに閉鎖されていました。)ちなみに、一番小さかった収容所はコロラド州グラナダで、7,300人でした。

収容所といっても、例えばナチのユダヤ人収容所のようなひどい扱いがあったわけではなく、収容所の中では家族単位での普通の暮らしが行われていました。ただ普通とはいえ、建物はすべて急ごしらえのバラックで、敷地から出ることは許されず、監視の兵士の銃口が常に内側に向けられていました。日本ほどではないとはいえ、戦時のため食料は不足気味の時期で、収容者たちは敷地内の荒れ地を開墾して、野菜などを作っていました。砂漠の中でもなんとか灌漑をうまくやっていたようで、「武士の農法」の面目躍如です。1万人もいれば、その中に大工や医者も教師もいたわけで、かなり「自給自足のコミュニティ」であったと思われます。

外からの情報が遮断されていたことにより、収容者は精神的に不安定な状況に追いやられました。収容所では、「米国に忠誠を誓って日本の天皇を相手に戦う意思があるか」という踏み絵のような調査票を書かされましたが、これにどう答えたらどういうことになるのか、という判断がつかず、混乱が生じました。多くの人はYES、米国に忠誠を誓う、という答を書きましたが、当時は差別的な法律により、日系移民一世は米国国籍を取ることができなかったため、日本の国籍を捨てても米国国籍が取れる保証がなく、YESと書けなかった人達もいました。いつここから出られるのか、一生出られないのか、という不安もあり、収容所の中でYES派とNO派の間での軋轢もありました。こうした分裂が、戦後もかなり日系人コミュニティに傷を残しました。

現在残るマンサナー収容所の写真の多くは、Toyo Miyatakeという日系人写真家の手によるものです。彼は収容の際にレンズとフィルムを隠し持ってはいり、手作りでカメラを作って収容所の写真を撮りました。最初は隠れて撮っていて、収容所長に見つかったのですが、最終的には所長も写真撮影を許可しました。

終戦後、収容所は閉鎖され日系人たちは元の住まいに戻りましたが、資産は奪われており、厳しい差別が残る中でゼロからの再出発となりました。

現在、サンノゼ空港の名前となっている政治家のノーマン・ミネタは、幼少時にワイオミングにあった収容所で暮らしました。当時、日系人は政治的に影響を持っていなかったために、このような差別的な法律がまかり通ってしまったので、戦後日系人は議員を州議会や連邦議会に送り込んで活動しています。また、ロックグループ「フォート・マイナー」のマイク・シノダは、「ケンジ」という曲で彼の家族のマンサナー体験を歌っています。

Go for Broke

第二次世界大戦中の日系人の悲劇としてもう一つ有名なものが、「442連隊戦闘団 The 442nd Regimental Combat Team」です。少数の指揮官を除く大半が日系人志願兵で構成された部隊でした。(この他に、第百歩兵大隊というものもありました。)

米国政府側としては、日本との駆け引きの一つとして「米国人として戦う日系人」部隊を作ろうという動機があったようで、一方志願兵たちは、「自分が米国に忠誠を誓うことで、家族や日系人に対する差別的環境から救いたい」と考えていました。多くはハワイからの志願兵で、ハワイでは定員1500人に対し、6倍以上の志願があり、定員をさらに1000人増やしたとされています。カリフォルニアなどの収容所からも、800人ほどが志願しました。

442連隊はヨーロッパの最前線に送り込まれ、イタリア・フランスを転戦して数々の戦功を挙げます。そして1944年10月、ドイツとの国境に近いフランス東部で、テキサス出身の隊がドイツ軍に包囲されているのを救出する命令が出ました。戦況は厳しく、ほとんど実行不可能と思われた作戦でしたが、442部隊はドイツ軍がボージュの森で待ち構えているところを血路を開いて強行突破し、ついにテキサス隊救出に成功しました。テキサス隊の211人を助けるために、442部隊は216人が戦死し、600人以上が手足を失うなどの重傷を負いました。

442部隊は、欧州戦線での全戦闘期間中、のべ死傷者率は31%であったとされます。日系アメリカ人が「武士的」であるという、最も大きな象徴です。

この部隊は、テキサス隊以外でも、ローマ攻略やダッハウのユダヤ人収容所の解放など、種々の戦功を挙げており、アメリカ合衆国史上最も多くの勲章を受けたとして知られていますが、「日系人差別」から、戦功の一部は公表されなかったり、勲章もあえて低い位のものを与えられたりしていました。後の日系人自身による名誉回復の努力により、勲功が事後アップグレードされた例が多くあります。

この部隊のモットーは「Go for broke」というもので、ハワイで賭け事をするときに有り金全部をかけて勝負を張るときの「当たって砕けろ」的な口語表現でした。テキサス隊の事件は何度か映画化されており、1951年のものがこのタイトルでした。私は2006年のインディ映画「Only the Brave(邦題:ザ・ブレイブ・ウォー)」の監督・主演レーン・ニシカワが資金調達のためにやっていた試写会に行ったことがあります。彼は自身の足でベイエリアや南カリフォルニアをまわり、主に日系人を対象に試写会をして資金を集めていました。もともとニシカワ氏が舞台出身で、なおかつ低予算ですので、スペクタクルもCGもなく、舞台的な映画でしたが、それがかえって市街戦や暗い森の中での緊張をリアルに表現していて、とても印象に残っています。そんな低予算でありながら、パット・モリタやジェイソン・スコット・リーなど大物日系・アジア系俳優が出てくれて、製作スタッフも日系を中心とするアジア系が手弁当で結集した、ということを、ニシカワ監督が挨拶で語っていました。

日系人の「戦い」は、いろいろな分野で今も続いているのですね。

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、IMDb、Only The Braveウェブサイト