ドイツ語のデマの話を前にしましたが、もし英語以外のアメリカ公用語があったとしたら、オランダ語が一番可能性が高かったのでは、と私は思っています。 アメリカ大陸発見から植民地が始まるまでの「北米空白の100年」の間に、欧州で大ブレークしていた新興国がオランダでした。その頃まで、(1G経済である伝統的農業以外の)欧州の富の源泉は、突き詰めると「アジアの香辛料を安く買ってヨーロッパに持ってきて高く売る」というアービトラージの2G経済であり、そのための最適な流通の仕組みを持っている人が勝ちでした。それで、ルネサンスの頃はイタリア都市国家が栄えたわけですが、これらは大西洋航路ができて衰退、西に向かって真っ先に飛び出したスペインは南米大陸のお宝掘りというあさっての方角に行ってしまい、その間隙をぬって王道のアフリカ周り航路で香辛料貿易の権益を築いたのが、「東インド会社」コンビのイギリスとオランダだったわけです。
この頃、すなわち16世紀といえば、欧州では宗教改革と反宗教改革が入り乱れた時代です。領主+農民という「農業ベースの1G経済」の時代を脱し、毛織り物など手工業を営む「中間層」が形成され始めた中で、プロテスタントを歓迎したのはこうした「中間層」の人たちでした。宗教改革とはつまり「階級闘争」だったと考えられます。
オランダもそういった人たちがカルヴァン派のプロテスタントに改宗しました。当時、オランダはハプスブルク家(=神聖ローマ帝国=カトリックの守護者)の支配下でしたが、そういうわけで独立戦争を経て1581年に独立を宣言します。オランダはインドネシアのジャワを植民地としましたが、その役割は「船と物流の中継地」としての性格が強かったようです。そこから運び込まれた品物をさばくために、アムステルダムにはモノと資金が集積されて、初期の「金融市場」が形成されて繁栄し、アジアではジャワから日本にまでやってきました。
船があって、新興国の勢いのあるオランダ人たちは、まだ「アジアへの近道航路」をあきらめきれずに、北米を探検します。ヴァージニア植民地開始と同じ1609年、オランダ東インド会社に雇われたイギリス人ヘンリー・ハドソンが探検にやってきて、現在のハドソン川を遡ってオールバニーまで達し、その流域をオランダ領と宣言しました。アジア航路は見つかりませんでしたが、ハドソン川上流地域では、ネイティブ・アメリカとの取引でビーバーの毛皮が入手できることがわかりました。2G経済ですから、香辛料も金銀もないなら、何かほかにヨーロッパで高く売れるモノをアメリカで見つけて安く入手する必要があったのです。毛皮を積み出す河口の港町はニューアムステルダムとなり、この地域とその周辺のニュージャージー、コネチカット、デラウェアに植民地が建設されてニューネーデルラントとなり、オランダから移民がやってきました。
しかし、この時期のオランダ人の北米支配スタイルは、ジャワと同じ物流拠点としての「点」としての性格が強く、ヴァージニア植民地のように、そこに資金と大量の人を投入して開拓し、「面」として支配するものではありませんでした。統治は総督が派遣されていましたが、最後の総督であったピーター・ストイフェサントは、宗教の自由を抑圧しようとしたため住民からそっぽを向かれ、1664年に侵攻してきたイギリス軍にあっさり降伏し、ニューアムステルダムはニューヨークとなります。その後、再度オランダが取り返したりしましたが、三次にわたる英蘭戦争を経て、ニューネーデルラントは完全にイギリス領となります。
もしオランダが初期の勢いをもっと長く維持していれば、今のカナダのように、英語とオランダ語が両方とも公用語という事態がありえたかも、と想像するとなかなか面白いです。
ニューネーデルラントには最盛時6000人ほどの住民がいたと言われており、人口としては大したことはありません。毛皮取引程度では、あまり大きな人口を養うことはできませんでした。しかし、現在でもニューヨークやニュージャージーには、オランダ語起源の地名がたくさん残っています。また厳格なニューイングランドとは違う、文化的多様性に寛容なニューヨークの気質はオランダ人に由来すると言われています。
わずか50年ほどで、新大陸での利権を失ってしまったオランダは、本国でも英蘭戦争で負けたあと、あっというまに衰退してしまいます。しかし、日本ではオランダは最盛期のときにはいりこみ、その後の鎖国中欧州の国として唯一取引を許され、オランダ最盛期の世界認識がその後200年も凍結したままでした。考えてみれば、宣教師を送り込んで悪気も容赦もなく住民を奴隷化するスペインと、民間投資による「面」展開を武力でプッシュするイギリスを追い出し、「点」支配スタイルで寛容なオランダだけを残してあげた徳川幕府のセンスは、案外悪くなかったのかもしれません。
1614年のニューネデルラント地図
出典:在日米国大使館、Wikipedia