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ベイエリアの歴史(25)- オランダ、うたかたの夢

ドイツ語のデマの話を前にしましたが、もし英語以外のアメリカ公用語があったとしたら、オランダ語が一番可能性が高かったのでは、と私は思っています。 アメリカ大陸発見から植民地が始まるまでの「北米空白の100年」の間に、欧州で大ブレークしていた新興国がオランダでした。その頃まで、(1G経済である伝統的農業以外の)欧州の富の源泉は、突き詰めると「アジアの香辛料を安く買ってヨーロッパに持ってきて高く売る」というアービトラージの2G経済であり、そのための最適な流通の仕組みを持っている人が勝ちでした。それで、ルネサンスの頃はイタリア都市国家が栄えたわけですが、これらは大西洋航路ができて衰退、西に向かって真っ先に飛び出したスペインは南米大陸のお宝掘りというあさっての方角に行ってしまい、その間隙をぬって王道のアフリカ周り航路で香辛料貿易の権益を築いたのが、「東インド会社」コンビのイギリスとオランダだったわけです。

この頃、すなわち16世紀といえば、欧州では宗教改革と反宗教改革が入り乱れた時代です。領主+農民という「農業ベースの1G経済」の時代を脱し、毛織り物など手工業を営む「中間層」が形成され始めた中で、プロテスタントを歓迎したのはこうした「中間層」の人たちでした。宗教改革とはつまり「階級闘争」だったと考えられます。

オランダもそういった人たちがカルヴァン派のプロテスタントに改宗しました。当時、オランダはハプスブルク家(=神聖ローマ帝国=カトリックの守護者)の支配下でしたが、そういうわけで独立戦争を経て1581年に独立を宣言します。オランダはインドネシアのジャワを植民地としましたが、その役割は「船と物流の中継地」としての性格が強かったようです。そこから運び込まれた品物をさばくために、アムステルダムにはモノと資金が集積されて、初期の「金融市場」が形成されて繁栄し、アジアではジャワから日本にまでやってきました。

船があって、新興国の勢いのあるオランダ人たちは、まだ「アジアへの近道航路」をあきらめきれずに、北米を探検します。ヴァージニア植民地開始と同じ1609年、オランダ東インド会社に雇われたイギリス人ヘンリー・ハドソンが探検にやってきて、現在のハドソン川を遡ってオールバニーまで達し、その流域をオランダ領と宣言しました。アジア航路は見つかりませんでしたが、ハドソン川上流地域では、ネイティブ・アメリカとの取引でビーバーの毛皮が入手できることがわかりました。2G経済ですから、香辛料も金銀もないなら、何かほかにヨーロッパで高く売れるモノをアメリカで見つけて安く入手する必要があったのです。毛皮を積み出す河口の港町はニューアムステルダムとなり、この地域とその周辺のニュージャージー、コネチカット、デラウェアに植民地が建設されてニューネーデルラントとなり、オランダから移民がやってきました。

しかし、この時期のオランダ人の北米支配スタイルは、ジャワと同じ物流拠点としての「点」としての性格が強く、ヴァージニア植民地のように、そこに資金と大量の人を投入して開拓し、「面」として支配するものではありませんでした。統治は総督が派遣されていましたが、最後の総督であったピーター・ストイフェサントは、宗教の自由を抑圧しようとしたため住民からそっぽを向かれ、1664年に侵攻してきたイギリス軍にあっさり降伏し、ニューアムステルダムはニューヨークとなります。その後、再度オランダが取り返したりしましたが、三次にわたる英蘭戦争を経て、ニューネーデルラントは完全にイギリス領となります。

もしオランダが初期の勢いをもっと長く維持していれば、今のカナダのように、英語とオランダ語が両方とも公用語という事態がありえたかも、と想像するとなかなか面白いです。

ニューネーデルラントには最盛時6000人ほどの住民がいたと言われており、人口としては大したことはありません。毛皮取引程度では、あまり大きな人口を養うことはできませんでした。しかし、現在でもニューヨークやニュージャージーには、オランダ語起源の地名がたくさん残っています。また厳格なニューイングランドとは違う、文化的多様性に寛容なニューヨークの気質はオランダ人に由来すると言われています。

わずか50年ほどで、新大陸での利権を失ってしまったオランダは、本国でも英蘭戦争で負けたあと、あっというまに衰退してしまいます。しかし、日本ではオランダは最盛期のときにはいりこみ、その後の鎖国中欧州の国として唯一取引を許され、オランダ最盛期の世界認識がその後200年も凍結したままでした。考えてみれば、宣教師を送り込んで悪気も容赦もなく住民を奴隷化するスペインと、民間投資による「面」展開を武力でプッシュするイギリスを追い出し、「点」支配スタイルで寛容なオランダだけを残してあげた徳川幕府のセンスは、案外悪くなかったのかもしれません。

NEWNEDERLAND

1614年のニューネデルラント地図

出典:在日米国大使館、Wikipedia

【書評】「ヴァティカンの正体」とアップルの与太話

【書評】「ヴァティカンの正体」とアップルの与太話

知ってる人はとっくに知ってる話だが、著者であるイワブチと私は、本書の中にしばしば登場する「フランス系カトリックのミッションスクール」で小学校から高校まで同級生であった、という超腐れ縁である。その割にはアメリカに来てから本書にあるようないろいろな「違和感」があって、すっかり教会に行かなくなってしまったのも同様。なので、この「ヴァティカンは歴史上最もsuccessfulなメディアである」というストーリーは、いろいろなところで「あー、あるある」と思えて笑ってしまう。特に、「ジョブスとiPhoneとiOSは父と子と精霊の三位一体」とか「ティム・クックは聖ペトロ、アップルは今使徒行録の時代」あたりは大爆笑である。わが地元では、同じアップルストアでも、パロアルトにあるものは「ご本尊」だったか「総本山」だかと言われていて、みな定期的にお布施をしにいっているし。

そういったお楽しみレベルでは、もしかしたらキリスト教のバックグラウンドのない方にはそれほど爆笑できないかもしれないが、それでも彼女が言いたいことはわかるだろう。キリスト教が世界のメジャーな宗教である現代から歴史としての過去を見返せば、なんとなく当たり前に見えているが、考えてみれば紀元4世紀とか5世紀といえば日本ではまだ弥生時代。そんな時代に、公会議で教義を徹底的に標準化し、世界に対して布教するつもりで早い時期から多言語対応し、トップの教皇庁と世界の隅々に張り巡らした地元の教会のネットワークを作り上げるというのはすごいことだ。(もっと最近でも、モルモン教は「多言語化」を強力に推進しているのはご存知のとおり。)このあたりは、ローマ文化の随所に見られる「仕組みづくりの天才」という環境のおかげかもしれない。(この点においては、まさにアメリカは現代のローマ文明だと常々思っている。)ラテン語という標準語の使用、「❍章❍節」というマーキングが徹底的に標準化された聖書のフォーマット、教会の構造も典礼の順序も完璧に世界標準。たとえ知らない言語の国に行っても、今どこをやっていて、聖書のどの部分を読んでいて、どのタイミングで立ち上がるとか膝まづくとかがわかる。改めて考えてみるとカトリックのグローバル戦略というのは、さすが2000年かけて生き残ってきただけのことはあって、感動モノである。

そして、現代において「文化的存在」として世界に冠たる存在となり、イタリアの経済にも大いに貢献しているその戦略。どこまでが結果オーライなのかはわからないが、確かに正しい時点で正しい方向に思い切って投資した結果が現在のヴァティカンの姿、ということなのだろう。

本筋とはあまり関係ないが、あまり娯楽のなかった時代に教会という存在が「テーマパーク」であったというのは本当にそうだと思う。ミサにあずかりながら、やたら立ったり座ったりがめんどーだな、と思いながら、きっと中世の農民など、年中腹が減っているので最低限の動き以上はせずじっとしていたはずで、そんな農民が週に一回やる「ラジオ体操」みたいなもんだったんじゃないか、という考えがよぎったこともある。

ちなみにアップルといえば、(ますます本筋とは関係ないどうでもいい話だが)アップル本社やスタンフォード大学のあるシリコンバレーの中心地は「サンタクララ郡」に属する。その「聖クララ」というのは中世の修道女で、カトリックでは「電話とテレビの守護聖人」だというのもますます因縁くさい。日本で八百万の神様が「何にご利益のある神様」といろいろ分担しているが、カトリックでは聖人が「何何の守護の聖人」ということで同じ役割を果たしている。で、聖クララという方は、病気でミサに行けず自室で寝ながら神に祈ったら、自室の壁にミサの様子がリアルタイムで映しだされた、という奇跡を行ったのだそうだ。ぜひ、「UStreamとiPadの守護聖人」も付け足してあげてほしいところだ。

「クールジャパン」というのはもう廃れているのかと思ったら、ますます最近やってるらしく、それへのアンチテーゼも本書の言いたいことのようだが、「投資」の概念が庶民レベルで浸透しているとは言いがたい日本では、なかなか民主主義の中で政治家が「投資」の決断ができないのだろうなぁ、と思ってしまう。本書に収録されている数々のウンチク話の中で、私が一番印象に残ったのは、この「オリバー・クロムウェルの愚行」の話である。

細かいところでは話がすっ飛んでいて「ん?」と思うところもあるが、そこはご愛嬌ということで、歴史好きでもそうでなくても面白話満載。ぜひお手にとってみてください。

6/18 サンフランシスコでの講演会開催

おかげさまで、Japan Intercultural Consulting主催「ビジネス道場」5月分が好評ですぐに締め切りになりそうなため、6月18日にサンフランシスコにて「ビッグデータの覇者たち」に関する講演会を行います。内容は5/14分と同じです。 詳細とお申込みは下記でどうぞ。

http://businessdojojune2013-estw.eventbrite.com/

國領二郎著「ソーシャルな資本主義」と私の本の関係

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4月25日、ニコ生「ゲキBizチャンネル」にて、慶應大学の國領二郎先生と新刊記念対談を行う予定。その予習を兼ねて、國領さんの近著「ソーシャルな資本主義」を読んだので、対談の準備を兼ねてメモしてみる。 1) 似てる・・

この本が出たのは先月3月15日、読んで「え、これヤバい」と思ってしまった。いや、最近の若い人のいう「ヤバい」ではなく、私達の年代の意味での「ヤバい」。私の本が「この本のパクリ」疑惑を招きかねないほど、いろんな点で似ている。

特に、結論部分で國領さんが「信頼」、私が「志」と呼んでいるモノ。あるいはプライバシーに関する考え方。あるいはひとつの産業構造の終わりという考え方。しかし、もちろんパクリではない。國領さんも同じようなことを考えている、というより、ネット業界の心ある人は皆、同じように考えているのだと思う。一つの大きな現象を、國領さんは「つながり」という面から、私は「データ」という面から眺めて話をしているだけだ。

2) 産業構造の終わりとアウフヘーベン

私は大学生などへの講演の中で、1950年代頃成立した「大量生産・大量消費」の経済エコシステムが緩み、新しいものに代わりつつある、という話をよくする。そのエコシステムは非常にうまくできていて、今も実は大きな部分はそのシステムに依存しているのだけれど、簡単に言えば「規格品の大量生産(=低コスト生産)→トラックによる大量輸送(=市場の広域化)→大型スーパー(=郊外型立地)→大型郊外住宅+車依存ライフスタイル+テレビによる全国一律マス広告→ますます大量生産が可能に(最初に戻る)」という循環構造をとる。日本でもある程度はこれと同じだが、アメリカは極端にこのパターンが発達している。しかし、70年代石油危機のときに、このコスト構造を支える石油の価格が上がって支えきれなくなり、以来この構造は少しずつ緩んで崩壊しつつある。エコ志向、都市回帰、大規模安売り店舗の苦戦、アメリカ自動車産業の落日、テレビ離れなどの現象は、いずれもこの大きな「崩壊」という流れの一部である。

私は、ビッグデータ現象を重視した理由として「供給爆発による技術革新」を本の中で挙げており、産業構造においても「産業素材の供給と需要」の関係に着目して上記のように説明しているが、一方國領さんはこれと表裏一体の関係にある「切れた関係とつながる関係」に着目し、同じように「大量生産・大量消費」エコシステムが終わり、別のものに代わりつつあるという話をしている。

「所有と販売」を基礎にした経済構造から、「シェアと利用」の経済構造へと移行する、そしてそのためには従来の規格品という仕組みの代わりに「信用」をベースとした仕組みへと移行する。國領さんはそう説く。同じ現象の「つながり」部分に着目すれば、確かにそうだ。そして、國領さんは、「つながりが雪だるま式に増える」ことも指摘している。ここでも、何かが爆発的に増えている。

別の見方をすれば、「切れた関係」を前提とした大量生産・大量消費という現象は、アメリカを中心とした戦後の一時期の「特殊な現象」だったと考えることもできる。その世界から、昔のような、「顔」のつながった信用中心の世界へ、ただしそれより一つ高い段階へと螺旋型に戻る、ヘーゲルの弁証法でいう「アウフヘーベン(止揚)」だと考えると、これはなかなか楽しい。

3)プラットフォームと日本企業の再生

こうした新しい経済の段階において、日本企業も昔風の「モノづくり」だけに頼っているわけにはいかない。新しい世界はまだはっきりした形をなしていない混沌であるので、まだその中でプレイヤーとして勝ち残っていくチャンスがあるのだけれど、じゃぁどうやって、という方法論は一概にはいえず、それぞれの企業によって違うやり方があるだろうと思う。國領さんも、「プラットフォーム・プレイヤーになること」という原則は言っているが、「日本企業はどうすべきか」という、マスコミ的な粗っぽい話はしていない。この種の質問も、講演会などでよく受けるのだが、本当に答えられない。決まったパターンがない世界だから。だからこそ、希望もあるのだけど。

以上、少々まとまりがないが、こんなことを考えている。私の「ビッグデータの覇者たち」をお読みいただいた方は、ぜひこちらも読んでみていただきたい。

 

「ビッグデータの覇者たち」紙版と電子書籍版出揃いました

新著「ビッグデータの覇者たち」は、紙版と電子書籍版がほぼ同時発売となり、本日両方とも揃いました。 上が紙版、下が電子書籍/キンドル版です。感想をぜひこちらの書籍ページのお書きください。http://www.enotechconsulting.com/publications/big-data/

新著「ビッグデータの覇者たち」予約受付中です

4月18日発売予定の講談社現代新書「ビッグデータの覇者たち」、アマゾンで予約受付中です。

電子書籍もほぼ同時に発売予定ですが、紙バージョンご希望の方はどんどん予約してください!

また、4月25日には、新刊記念のニコ生対談イベントが予定されています。詳細は追ってお知らせします。

「ビッグデータ文明論第四回 グーグルとソーシャル」記事公開

ビッグデータ文明論 第四回 「塀の中に逃げ込む高級素材」 (現代ビジネス) が掲載されました。今回は、第三回に続き「グーグル編」ですが、グーグルとモバイルの関わり、ソーシャルという弱み、「紫の階調」とプライバシーといった、多彩な話題です。

「先進国の経済成長はもう終わったのか?」記事公開

日経ビジネスオンラインの新記事が公開されましたのでお知らせします。年初なので、ニュースというより、この先何十年の話をちょっと考えてみました。写真のノースウェスタン大学経済学教授、ロバート・ゴードン氏の論文についての感想です。