まだベイエリアにはたどり着きませんが、一応アメリカに話が戻ります。でも、時代はまた昔に戻り、アメリカ大陸が発見された後のことです。相変わらず読者のことなど考えず自分の好きなことだけ書いております。 本当は、日系移民のことを調べようと思っていろいろ読んでいるうちに、19世紀のドイツに引き込まれてしまったのですが、日系移民の話の前に、まずは他の移民について調べてみます。
スペインに雇われたイタリア(ジェノヴァ)人であるコロンブスが西インド諸島に到達した5年後の1497年、今度はイギリスに雇われたイタリア(ヴェネツィア)人であるジョン・カボットがニューファンドランド島に到達、その後のイギリスの北米領有の根拠となりますが、この航海は単発で終わり。次の本格的な北米探検は、フランスに雇われたイタリア(フィレンツェ)人のジョヴァンニ・ダ・ヴェラッツァーノが、1524年にノースカロライナに上陸してニューヨークまで北上したもので、現在もニューヨークのブルックリンとスタテン島を結ぶヴェラザノ橋として名前が残っていますね。相変わらず、イタリア人がパシリに使われています。
この間、中南米征服に熱心だったスペインは、フロリダ以外の北米には食指をほとんど動かしていません。おかげで、ビーバーの毛皮や魚を取りにフランス人やオランダ人がパラパラ来た程度であったわけですが、なぜスペイン人が北米を放っておいたのかというと、ずばり「金銀財宝が出なかったから」であります。グランドキャニオンやカンザスあたりまで探検したのに何も出なかったせいで、メンドクセー、メキシコやペルーで銀を掘り出してればいいや、ということになったようです。
さて、その頃まだまだ新興国であったイギリスは、そんな財宝を積んだスペインの船を途中のカリブ海で襲う「海賊」という、せこい商売をしていました。1585年にウォルター・ローリーによるノースカロライナ植民計画が失敗したあと、ようやくイギリスによる本格的な植民が始まるのは1607年、ジョン・カボットから数えても100年以上あとのことでした。
この最初の植民地は、誰でも知っている「メイフラワー号」ではありません。この辺、私も全然わかっていなかったのですが、イギリス国王から「ここを開発していいよ」という勅許状を得たロンドン商人の一団が、「ヴァージニア会社」を設立して「エンジェル投資家」から資金を集め、ヴァージニアに移民を送り込んだのが最初のイギリスによる植民地で、要するに、一攫千金を狙ったベンチャーです。
メイフラワーがプリマス(現在のロードアイランド州)にやってくるのは、これよりさらに後年、1620年のことです。こちらは、ご存知のようにイギリスで迫害を受けたピューリタンが新天地を求めたものですが、北米地域の開発はヴァージニア会社が権利を持っていたので、ヴァージニア会社と交渉して、その辺境の地を開拓することを請け負って出発、でも実は全然ヴァージニアに行く気はなく、はるか北のニューイングランドに到着しました。
ピューリタンたちは文字通り背水の陣であったので、自分たちが自活するための農業をその地で始めますが、ヴァージニアのほうは、相変わらず金銀財宝を探すのが株主たちの主な目論見でした。困難な航海・生活環境やネイティブ・アメリカンたちとの戦いという高いコストを払っても、ぜんぜん金銀が見つからないので会社は行き詰まり、結局この地の権利は王家一族のものとなってしまいます。しばらく試行錯誤でピボットを続けるうちに、この地では「タバコ」を作って輸出するというビジネスモデルがようやく確立し、その後プランテーションが成立していきます。結局、目的は自給自足ではないのです。
つまりヴァージニアでは、株主やビジネスオーナーたちは、自分たちで新大陸まで行く気はなく、従業員を送り込んで「良きにはからえ」という態度でありました。従業員といっても、「年季奉公人」という実質的な「奴隷」であり、だからやる気がなく、なかなか開拓が進まなかったようです。
そういうわけで、私などはイギリスからアメリカへの初期の移民は「勤勉なピューリタン」だと思っていたのはさにあらず、特に南部では実は白人の「奴隷」が大半を占めていたということだそうです。その後、イギリス本土で議会ができたりして人権意識が高まるにつれ、白人奴隷はメンドくさくて高コストなので、もっと安い黒人奴隷をアフリカから連れてこようとなっていきます。
そして、この最初の一歩から、その後南北戦争につながる「北」と「南」の経済・社会の構造の違いが、すでに芽生えていたのでした。