ベイエリアの歴史(26) - フランス、広大なるルイジアナの謎

カナダにはフランス語が残り、(5)でお話したように、かつての仏領ルイジアナは広大でしたが、今のアメリカでフランス支配の痕跡は(ニューオーリンズ以外で)ほとんど感じることがありません。私は以前ニュージャージーに住んでいたので、むしろオランダのほうが「バーゲン郡」「ホーボーケン」などといった地名で親しみを感じます。あの「ルイジアナ」地図の広大さは私にとってはずっと謎でした。 例によって日本史本位の私の頭では、「戦国時代に、欧州人が日本にやってきた」といっしょくたですが、そう言われれば、「南蛮人」はスペイン・ポルトガル(旧教国)、「紅毛人」はイギリス・オランダ(新教国)であり、フランス人ははいっていません。フランスはもともと海洋国でない上、この時期長期にわたるユグノー戦争で国内が疲弊し、大航海時代に出遅れていました。ちなみにユグノーはフランスのプロテスタントで、北米植民地初期に重要な役割を果たしたイギリスのピューリタン、オランダのカルヴァン派と似たような中間層の人たちでした。

その後、あわてて追いつけ追い越せで頑張ったフランスの植民地支配は、前期・後期のふたつに分けられ、北米は「前期」にあたります。ベトナムなどのアジア進出は「後期」で、ナポレオン戦争以後になってからのことです。オランダがジャワを拠点に繁栄した時代から見ると、300年も後のお話です。

16世紀のオランダ大ブレークの頃、それでもフランスから北米に漁船がやってくるようになり、とりあえず他の欧州人のいなかったカナダに1534年に旗を立てて領有宣言します。が、ユグノー戦争で忙しくて70年ほどほったらかし、ようやく戦争が終わってから当時の国王アンリ4世が、イギリスに対抗心を燃やして海外進出に興味を持ち始め、1603年にシャンプランがセントローレンス川(現在のカナダ・アメリカ国境)を探検。ちょうどオランダ人がハドソン川で毛皮を見つけて領有宣言したのと同じ経緯を経て、ケベックでの植民がはじまります。毛皮取引のアービトラージ経済ですから、ビーバーが住んでいて、さらに当時の唯一の物流手段である「船」の通れる「川」がポイントとなっています。といっても、寒冷で厳しい自然と強力なネイティブ・アメリカンに阻まれ、その後15年たってもせいぜい数百人ぐらいしか、植民地に住んでいなかったようです。

1664年にイギリスがオランダを追い出し、東部海岸沿いががっちりイギリスの支配下にはいった頃、カナダから五大湖を渡り、フランス人が川にそって南下しはじめます。内陸はまだヨーロパ人は誰もおらず、まだ幻の「アジアへの近道」が諦められなかったのでした。最初に西へと向かうオハイオ川からアジアへの道を探し始めた探検家カブリエ・ド・ラ・サールは、この川はミシシッピ川に流れ込み、西ではなく南へ向かうことを発見し、1682年にメキシコ湾に注ぎ込む河口、現在のニューオーリンズまで達します。ミシシッピ川は、それまでの川探検と違い、上流から下流へと入って海に達したわけです。その後フランス人たちがミシシッピ川とその大きな支流をあちこち探検し、流域を国王ルイ14世からとってルイジアナと名付け、領土宣言しました。つまり、広大なミシシッピ川流域のおかげで、フランスの領土は広大になったというわけです。

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ミシシッピ川と支流の流域

しかし領有宣言はしたものの、本国からの「投資」が続きません。イギリスが民間資本主導の一攫千金土地投機でぼんぼん投資したのと異なり、王様の持ち物であるルイジアナに投資する国家予算の余裕が、当時のフランス王家にはなく、港湾・運河・道路などのインフラがまったく整備されず、寒くない代わりに疫病が多く、生活は困難でした。イギリス人であるジョン・ローがフランス政府に進言し、イギリス風の「ミシシッピ会社」という開拓会社を作りましたが、フランス国家の負債を肩代わりする詐欺的なスキームで実質的な開拓は全くやらず、歴史上「3大バブル」の一つとして汚名を残しただけでした。

またフランス政府は、植民地ではカトリック以外禁止としたので、ユグノーたちはルイジアナへは向かわず、むしろイギリス領のプロテスタント支配地域へと行ってしまいました。そのため、18世紀の間にルイジアナへ移民したヨーロッパ人は7000人ほどと言われ、イギリス植民地の100分の一に過ぎませんでした。これだけ広大な土地を、わずかな人数とわずかな投資で維持するのは、どだい無理な話です。

フランス領のうち、イギリスのヴァージニア植民地と同様の「売れる作物を作るプランテーション」というマネタイズが成功したのは、北米本土ではなく西インド諸島、特に現在のハイチであり、作物は砂糖でした。ここで、砂糖・黒人奴隷・ラム酒という有名な「三角貿易」のビジネスモデルができます。これに関わる北米の物流拠点として1718年にニューオーリンズ(=新オルレアン)が建設され、ルイジアナの首都となります。

しかし、人口希薄で防衛も不十分なフランス植民地に、貿易権益と境界をめぐる諍いが起こり、イギリスが攻め込みます。北米ではフレンチ・インディアン戦争、それが欧州にも飛び火して7年戦争となり、負けたフランスは、1763年にミシシッピ以東をイギリスへ割譲、ミシシッピの西はスペイン領となり、仏領ルイジアナはいったん消滅してしまいます。

その後、ナポレオン戦争の時代に、カネに困ったスペインがフランスにルイジアナを返すという密約(サンイルデフォンソ条約)が1800年に成立しますが、わずか3年後に、今度はカネに困ったナポレオンがアメリカ合衆国に売却してしまって、完全に植民地は消滅します。

しかし、こうして見てみると、毛皮取引は北のほうでやっているし、奴隷はフランス北米植民地での自前の需要があったわけでもなく、人口も希薄ということで、北米からフランスに輸出する素材も、フランス商品の「市場」もどちらもなく、ミシシッピ流域物流拠点である魅力的な街ニューオーリンズですら、ビジネスモデルがありません。ナポレオンが「いらんわー!」と売り飛ばしてしまったのも、なんとなく理解できます。

結局フランスは、豊穣な農業経済である本国の「土地領有」の感覚で領土を獲得しながら、オランダ式のアービトラージ貿易経済というビジネスモデルをきちんと構築できず、イギリス式の「投資と人」を大量につぎこむ土地投機・面展開ビジネスモデルもできず、それでもオランダよりは長くがんばったのに、やっぱりちぐはぐで影が薄いまま、120年ほどで仏領ルイジアナは消滅したということになります。

繰り返しになりますが、アメリカという国は、「土地投機」によってできた、ということを改めて思います。

出典: Wikipedia、National Park Service, U.S. Dept. of Interior