ベイエリアの歴史(13) – それぞれの「坂の上の雲」

19世紀末という時代 「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。・・・(中略)・・・上って行く坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。」

ドラマ「坂の上の雲」は、渡辺謙の印象的なナレーションで幕を開けます。日本人としては「明治維新のあと、欧米に追いつこうと日本は頑張ったなぁ・・あの頃の日本人は偉かったなぁ・・」とじーんとくるわけですが、こうして違う角度から歴史を見ていると、どうもこの時期、坂の上の雲をめざしてオプティミズム満載で坂を登っていたのは、日本だけじゃなかったのでは、と思えてきます。

日清戦争は1894年、日露戦争は1904年ですから、ドラマの舞台は、ちょうどエジソンやベルが次々と発明をし、南カリフォルニアで石油が次々と発見される時期にあたります。日本よりはかなり先にいっていたとはいえ、アメリカも南北戦争で数多の国民を失い、南北対立の傷を負った後でしたし、欧州列強から見ればアメリカはまだまだ、ナポレオンが「いらんわー!」と思っちゃったぐらいの未開で野蛮な国でありました。そこへ、電気や石油という新しいテクノロジーの波がやってきて、オプティミズム満載ではっちゃけて、厨二病を発症したのでした。

ドイツでは、1871年に統一帝国が成立したあと、1879年にジーメンスが電車を発明、1882年にコッホが結核菌を発見、1883年と89年にダイムラーがガソリン機関と自動車を発明、1895年にレントゲンがX線を発見、というぐあいに、これも怒涛の勢いで技術が発展していきます。フランスでも1881年パストゥールが狂犬病菌を発見、1889年エッフェル塔建設、1898年キュリー夫妻がラジウムを発見、この頃にパリでは地下鉄ができています。イタリアではマルコーニが1893年に無線電信を発明しています。

新技術に対する姿勢

要するに、この時期は世界的に技術が爆発的に進歩する、歴史上の特異期にあたっていたと思います。黄金期であったはずのイギリスは、過去に成功した仕組みが足かせになり、例えばアメリカで出現した新しい造船技術をイギリスの熟練工が嫌って取り入れるのが遅れた、といった具合に、多くの産業で新技術への対応が遅れ、そのためにプロセス改善が行われなくなり、ずるずると沈んでいきます。(この時期のイギリス産業衰退の事例は、今の日本の参考になりそうな点が多くありそうです。造船技術を「IT」に置き換えてみてください。)

当時の日本では、新しい技術を取り入れて不利益を被る既得権益をもつ人達があっても、「そうしないと欧米列強にやられてしまう」という危機感が国民的合意だったので、既得権益を踏み潰して進むのが当たり前の時代でした。「坂の上の雲」のドラマで、私が一番印象に残った場面はなんといっても、悲惨な二百三高地攻防戦のあと、工兵が二人がかりでケーブルを巻いた大きなリールを持ち、電話線を延ばしながら真っ先に頂上に向かって走り登っていくところです。((;_;)カンドウ←元NTT社員なもので)日本軍はもう、電話を使っていました。また、日本海海戦で秋山真之が発した「天気晴朗なれど波高し」のメッセージは、無線電信で伝えられました。

日本は、おそらくまだ高価だった新技術を、戦争に負けないために必死に取り入れていたのです。そして、この爆発期の波にうまく乗れたということが、この後の日本の運命に大きく寄与していると思います。「この時期に、日本は明治維新をやって成功したが、中国はタイミングを逃した」というのは、そういう意味なのです。

そして、特にアメリカとドイツという「4G経済同期生」たちは、それぞれに坂の上の雲を目指してがんがん坂を上っていたのでした。

一番高い坂に最初に登りついたのはアメリカでした。1894年に工業生産力で世界一になり、1898年の米西戦争ではスペインの「2G経済」のライフがついにゼロとなる最後の「棺桶のふたに釘」を打ち、世界トップの国となります。

<続く>

出典: C.P.キンドルバーガー「経済大国興亡史」、山川世界史総合図録、山川日本史総合図録、司馬遼太郎「坂の上の雲」

ベイエリアの歴史(12) – ロサンゼルス産業の夜明け

油田発見 その頃南カリフォルニアでは、20世紀の文明を担うもう一つの大きな動力源が、またもや土の中から掘り出されました。

地面の下にある油田から、地表に石油が滲みでた「タール」の存在は、カリフォルニアではネイティブ・アメリカンの時代から知られていました。1850年代にペンシルバニアで油田が発見されて以降、アメリカ各地で石油の採掘が試みられ、カリフォルニアでも、当時一番人口の多かったサンフランシスコにほど近い、中央平原北部でいくつか少量の油田が発見されていました。

1892年、落ちぶれた金鉱探し屋エドワード・ドヘニーが、当時まだ田舎町だったロサンゼルスのダウンタウンを歩いていたところ、通りかかった荷車の車輪にタールがついていることに気が付きました。彼は、荷車の主にどこでタールがついたのかを聞きだし、そこを掘ってみたところ、大量の原油が出た、というのが「伝説」となっています。(どこまで本当か不明)彼の見つけた油田は現在のドジャー・スタジアム近くでしたが、その後近辺で数多くの採掘が行われるようになり、ロングビーチのシグナル・ヒルや中央平原南部のベイカーズフィールドで、もっと大きな油田が見つかりました。

油とは、ずっと長いこと「照明」が主要な使いみちでした。アメリカ人が東部からはるばるカリフォルニアのランチョまで牛脂を買いにきたのも、日本近海まで鯨を取りに行って開国までさせたのも、照明のための油が欲しかったからでした。その照明が、エジソンの「電灯」へと世代交代し始めた頃、何の関連も脈絡もなく、ほぼ同時期に石油が発見されたというのも面白い「同期性」です。

そして、この石油が「照明」ではなく「自動車」の原動力へと変身していきますが、これはまた後のお話です。その後100年以上たつ現在まで、石油は南カリフォルニアからの最大の輸出品目の一つです。

パワハラ経営者エジソンとハリウッド

ところでエジソンという人は、エキセントリックな性格であったとされ、そのために自分でつくったGE社から追い出され、もとは「エジソン・ゼネラル・エレクトリック」だったのに、「エジソン」という名前まで外されてしまう一方、映画に深く関わっていました。スティーブ・ジョブスは、わざとエジソンの真似をしていたのか、と思うほどです。

エジソンは撮影機「キネトグラフ」を1887年、箱を覗き込んで活動写真を見る「キネトスコープ」を1893年に発明しました。現在のようなスクリーンに投影する仕組みは、フランスのリュミエール兄弟の発明です。1892年、エジソンのつくったGEの本社は、ニューヨーク州北部で州都オールバニーに近いスケネクタディという町に移転していますが、そこからさらに西のナイアガラ滝に向かう途中にロチェスターという町があり、そこにイーストマン・コダック社があります。この当時、北ニューヨークは産業クラスターを形成していたようで、そのご近所のコダックから長尺のフィルムを入手できたことが、エジソンの優位につながったとされています。

エジソンは、映画事業でもおなじみのパワハラ戦略を発動。自分の発明した特許を管理する会社をつくり、映画の撮影と上映のためには、特許管理会社にライセンス料を払うことを強制しました。ビジネスモデルとしては今のクアルコムみたいなもので、それ自体はよいのですが、この時代ですから、ライセンス料支払いを拒否したインディペンデント映画館の上映機を差し押さえたり、フィルムを盗んだり、インディペンデント制作者の建物や機器を破壊したり、ときには人を襲うこともやったようです。

特許会社のライセンス強要が始まる期限は1909年に設定されていたので、その前年にはインディ制作者達が集団で東部を逃げ出し、エジソンの暴力の手がさすがに届かないと思われる、はるか西部のカリフォルニアに落ち延び、ロサンゼルス郊外に新しい映画産業クラスターを作りました。これがハリウッドです。当時の映画撮影には強い光が必要で、撮影用照明がまだない時代に、強い太陽光があり雨もあまり降らないハリウッドは、環境的にもうってつけでした。

法学者ローレンス・レッシグは著書の中で、「現代のハリウッドは、自分がやられてイヤだったことを、今度はネット配信において自分でやっている」と主張しています。それにつけても、何事もやり過ぎはいけません。エジソンは結局、「北風」戦略をやりすぎて、映画産業を「太陽」のハリウッドにとられてしまったのでした。

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、 山川世界史総合図録、Lawrence Lessig "Free Culture"、History of Oil

 

ベイエリアの歴史(11) – イギリスとアメリカ

イギリスの午後 ゴールドラッシュから1870年代まで、カリフォルニアは怒涛の四半世紀を過ごしましたが、その後しばらくの間、歴史教科書にはあまり目立ったイベントが記述されていません。農業が成長し、交通や水道などのインフラが整備され、移民の流入は続き、順調な進歩が続いていました。

一方、大陸の向こうの米国東部と、そのさらに大西洋の向こうのヨーロッパでは、歴史の舞台が大きな軋み音をたてて回っていました。イギリスはヴィクトリア女王の長い治世にあたり、最盛期を迎えていましたが、1850年頃からその覇権がやや緩みだし、真昼を過ぎた「午後」の時代にはいっていました。キンドルバーガーはその「緩み」の背景をいくつか挙げており、(1)産業革命以来の成功体験が固定化され、経済・社会が保守化してしまい、産業革命期の発明をもたらしたアントレプレナーが出現できなくなってしまったこと、(2)蒸気船と鉄道によって物流効率が劇的に向上して、アメリカその他各国の安い穀物が流入(=19世紀版のグローバリゼーション)して、欧州大陸各国で保護主義が強まってイギリスの製品輸出が鈍ったこと、などだったとしています。(1)はなにやら、最近の日本にもあてはまりそうです。

アルマダ海戦に敗れてから後も、スペインが時代遅れな2G経済をせっせと拡大し続けたのと同じように、イギリスはこの後、保護主義に転じた欧州を捨て、矛先を大英帝国内のインド・アジアに転じてせっせと投資し、植民地を「キャプティブ・マーケット」とする3G経済にますます突っ込んでいきます。

欧州大陸では、1871年に国内を統一してドイツ帝国が成立し、アメリカ・日本に続き、「4G経済の同期生」がもうひとつ歴史に登場します。

でもアメリカは「厨二病」

スペインとイギリスは直接対決したので、その覇権の移行はドラマチックでしたが、イギリスからアメリカへの移行は、まさに子供が親を体格でも経済力でもだんだんと追い越す過程に似ていました。アメリカという子供は、移民の流入によってオーガニックな成長よりもずっと速いスピードで人口が増え、その人口を「市場」として4G経済を発展させていました。そして、アメリカのアントレプレナー達は、その急成長する国内市場を背景に、次々と新しい技術を発明していき、陽が傾きだしたイギリスに徐々にとってかわります。

似たような技術を同じ頃に別な人が考えつくというのはよくあることで、革新的な技術が一気に同時に世に出る、という時期がときどきあります。アメリカの東部は、そんな「技術爆発の時代」を迎えていました。

産業革命を文字通り推進した動力は「蒸気機関」であり、イギリスはその動力の原料となる石炭が国内でとれるという優位をもっていました。それに代わる「動力」として、まず「電気」に関わる技術がこの頃急激に発達します。

ご存知トーマス・エジソンは、1877年に蓄音機、1879年に竹のフィラメントを使った電球を発明しました。そういうわけで、同時多発的に電気分野でいろいろな発明があったので、例えば「白熱電球」そのものは実はエジソンより1年前に別の人が発明していたり、「電話」はアレクサンダー・グラハム・ベルが1876年に作ったとはいえ、初期の電話の仕組みにはエジソンが発明した技術が使われていたり、エジソンは「映画」を発明したと言われるけれど他にも「発明者」と言えそうな人がいてはっきりしないなど、本当のところ「誰が一番最初に発明したのか」は微妙でした。技術を高く買ってもらえるチャンスも多かったので、特許出願競争や訴訟沙汰も多発しました。

そんな中エジソンが歴史に名を残したのは、「技術を特許などではなく会社の形で物理化し、他より早く事業を成功させてデファクト・スタンダードを握る」というやり方である程度の成功を収めたからです。伝統的な「特許の仕組み」が機能しなくなった最近のシリコンバレーとも似ていますが、この頃はなんせ「泥棒男爵」の時代ですから、競争相手を潰すためならむちゃくちゃなことも平気で行われており、エジソンはあちこちでけんかを売ってまわっておりました。

特に有名なのが、エジソン対テスラの「電流戦争」です。1878年にエジソンはニュージャージー州メンロパーク(シリコンバレーではありません)で実験室を開設し、これが現在のGE(ゼネラル・エレクトリック)の前身となりました。この頃にエジソンが用いたのは直流電力でしたが、電圧を変えられず長距離送電ができなかったので、エジソンはニューヨーク近郊などの都市の近くに、小さな電力会社をたくさんつくりました。このエジソン+GE社陣営に対し、かつてエジソンの部下だったニコラ・テスラと、彼をバックアップするウェスティングハウス社は「交流電力」の技術を開発して対立。エジソンは交流だと感電死の危険が高いというネガティブ・キャンペーンを張り、部下を使ってわざと動物を感電死させたりするなど、えげつない「ヤラセ」手法を駆使してテスラをいじめました。結局は、ナイアガラの滝の発電所とそこからの長距離送電のプロジェクトをテスラ陣営が勝ち取って1893年からプロジェクトが始まり、現在に至るも交流が基本となっています。ここではエジソンは負けてしまいましたが、現在もエジソンの名を冠した電力会社は各地に残っており、GEは現在でも大手企業です。一方のテスラは長く忘れられていましたが、最近は彼の名をつけた美しい電気自動車が、シリコンバレーでどんどん増えています。(えっと、ゴジラシリーズにもあったような・・←あれはモスラ(^o^;))

ちなみに、同じように「事業による技術の固定化」のために、グラハム・ベルが同じくニュージャージーに作った電話会社AT&Tは、初期の頃、ライバル会社の設備を電話局から引きずり出し、往来の中央に積み上げて燃やしていたそうです。

図体ばかりでかくなっても、まだ大人になりきれておらず、なにかと野蛮だったこの頃のアメリカは、「厨二(中二)病」の時代だったということでしょうか。

<続く>

出典: C.P.キンドルバーガー「経済大国興亡史」、Tim Woo "The Master Switch: The Rise and Fall of Information Empires", Wikipedia

ベイエリアの歴史(10) – 武士とアメリカの関係

武士の農法 日系アメリカ人は数が少ないため、アメリカでも日本でも全体の歴史の中ではほとんど語られることがありません。少ないとはいえ、ハワイとカリフォルニアに固まっているので、カリフォルニアでは日系人はそれなりの存在感があります。私も何も知らずにカリフォルニアに来ましたが、そんな日系アメリカ人の歴史を知る機会に接して、先達たちが苦難の中で築き上げてきた業績に、深い尊敬と誇りを覚えるようになりました。

どうやら古くから、日系農家の多くは「サクセスフルだった」と広く認識されているようだ、ということもわかってきました。考えてみれば、アメリカだけでなく、ブラジル移民でも、戦前の台湾やサイパンの植民地経営でも、同じような話を聞きます。

1870年代といえば、鉄道建設が終わって失業した中国人労働者がどっとサンフランシスコに流入し、低賃金の職につくようになって、アジア人に対するひどい人種差別が表面化した頃です。同じような顔をした日本人移住者たちにもその逆風が吹き付けていたのに、ただでさえ数が少なく政治的な力もないのに、一体彼らはなぜ成功できたのでしょうか?

ここから先は全くの私の推測ですが、それは「武士の存在」だったのではないか、と考えています。若松コロニーは失敗しましたが、リーダーの桜井松之介は、その後に勤めたビアカンプ農場の経営に手腕を発揮したという情報があります。また、小学校のカリフォルニア歴史教科書には、中央平原でヤマト・コロニーを作り、日系人向けの新聞社を始めた我孫子久太郎という人の成功例が書かれています。出自は調べてもあまり詳しく出てきませんでしたが、この人はキリスト教の人で、明治初期の日本のキリスト教者の多くは新島襄のような下級武士出身者が多かったので、彼もそんな家の出ではないかと想像できます。

武士といえば刀を振り回して戦う人のようなイメージがありますが、江戸時代の武士の「本業(日々の糧を得るための仕事)」は、実は農地経営でした。殿様の領地や自分が拝領している領地の農作業や蔵を管理する、というのが日々の仕事であり、そのための種々の教育もしっかり受けていました。中国やアイルランドからは肉体労働者ばかりがやってきたのに対し、日本には、戊辰戦争で負けたり、廃藩置県で失業したりした武士がたくさんいたので、移民の中にかなりの武士階級が混じっていたはずです。アメリカの気候や土地の特性さえわかってくれば、農地経営の経験と培ってきた教養を活かして、アメリカでも農業経営者として成功できたのではないでしょうか。「武士の商法」はよくなかったけど、「武士の農法」はよかったのかと考えると、なかなか楽しいものがあります。

日本人でも、労働者としてアメリカに渡り、貧困のうちに一生を終えた典型的な労働移民もいました。一方、イギリスの農業植民地などでも「指導者・経営者」層がセットでやってきたはずです。それにしても、同じ人達が「農地経営者」と「戦士」を兼業している武士というのはユニークでもあり、その後の日系人の振る舞いを見ると、どうも彼らは「武士的」であるような気がしてしまいます。

なお現代において、日本からアメリカという新市場にやってきて、全く今までやったことのない事業をやろうとして盛大にコケる例を見るにつけ、ここはやはり先達たちに習い、新市場だからこそ「慣れたこと、エキスパティーズのあること」をやったほうがいいんじゃないかねー、と余計な心配をする今日このごろです。

サンフランシスコには本当にケーブルカーがあった

ここまでは「武士がアメリカ人になる」話でしたが、「アメリカ人が武士になる」というお話を映画にしたのが「ラスト・サムライ」でした。架空のお話ながら、「南北戦争と明治維新の同期性」というのを最初に気づかせてくれたのはこの映画でした。

冒頭、トム・クルーズ演じる元米国軍人は、南北戦争のPTSDでアル中になり、当時治安最悪で「野蛮人の海岸」とあだ名されたサンフランシスコに流れ着いて、そこで「日本に行って軍事教官にならないか」と誘われます。高級レストランでの就職面接が終わって外に出ると、そこは高い丘の上で、眼下には海が広がり、背後ではケーブルカーが今と全く同じ「カランカラン」という鐘を鳴らして急な坂をおりていきます。ありゃーきっと、マーク・ホプキンス・ホテルだな、とか思いつつ、「このとき、もうケーブルカーがあったのか!」というのが驚きだったので、その場面をやたら鮮明に覚えています。

調べてみると、サンフランシスコでケーブルカーができたのは若松コロニーが倒産したのと同じ1871年、映画のモデルとなった西南戦争が始まったのは1877年なので、時代的にはぴったり合っています。サンフランシスコの急坂で、馬と荷車が転げ落ちる事故を目撃して心を痛めたスコットランド人技師アンドリュー・ハリディが、より人道的で清潔な交通手段として作ったのがケーブルカーです。坂の頂上の巻取り機から坂下まで、地面のすぐ下にケーブルを通し、車両にはそのケーブルをグリップする機構があります。運転手がレバーを引くとそのケーブルにひっかかり、常時動いているケーブルで引き上げまたは引き下ろしがされるというわけです。

ケーブルカーは最盛期には8路線まで拡大しましたが、その後地震によって多くが破壊され、現在は3路線だけが残っています。今や市民の足というよりは観光名所で、車両を人力で回すターンテーブルの周囲はいつも観光客でいっぱいです。

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、 観光案内書「サンフランシスコ」(日本語版)BONECHI刊、山川日本史総合図録

ベイエリアの歴史(9) – 日本との遭遇

縦の鉄道と農業ブーム レランド・スタンフォードたちの鉄道は、「横」だけでなく「縦」にも敷設されました。東のシエラネバダ山脈と西の海岸に沿った低い山脈の間に、サン・ホアキン・バレーとよばれる漠々たる平原が縦に広がっていますが、その真中をつっきる形で南北にも線路が敷かれ、ここも現在でもアムトラック鉄道が営業しています。

これらの鉄道を使って、カリフォルニアの農産物を遠隔地に運ぶことができるようになって市場が広がったおかげで、1860年代以降、中央平原で農業が大発展します。この頃、氷を乗せた冷蔵輸送車両も登場しました。

最大の産品は、ランチョ時代からの伝統のある牛関係、つまり牛乳・乳製品やビーフでした。乾燥して日照の多い気候を利用して、ぶどうやオレンジなどのフルーツ、アーモンドやくるみなどのナッツ類、穀物も栽培されるようになりました。

カリフォルニアといえば、テクノロジーと映画かと思えばさにあらず、現在でもカリフォルニア州は農業の売上額で全米第一位です。現在の売上トップ5品目は、乳製品、ぶどう、アーモンド、植木苗、牛となっています。南北を貫く鉄道沿いには州道99号線という道路があり、穀物エレベーター、配送センター、大型農機具ディーラーなどが立ち並ぶ、農業のメインストリートとなっています。縦横の鉄道が交差するサクラメントの郊外には、農業技術研究のメッカとして知られるカリフォルニア大学デイヴィス校(UC Davis)があります。西側の山脈近くを99号線とほぼ並行して走る高速5号線をとおって、ベイエリアからロサンゼルスに向かうと、見渡す限りの果樹園が3時間ほど続き、途中には黒い牛の群れが視界の限り地を埋め尽くしている牛の集積場もあります。

会津武士が拓いた農場

そこで農業労働者が必要となりました。ゴールドラッシュと鉄道敷設のための人の流入が一段落した後、今度は農業移民がカリフォルニアへ向かう人の流れの中心となります。1900年頃からは、メキシコ革命の混乱で押し出されたメキシコからの移民が大量にやってきますが、その前の時期に日本から初めての移民が北カリフォルニアにやってきました。

それまでも、漂流して救助された漁民や、咸臨丸などでカリフォルニアにやってきた日本人はいましたが、移民としては1869年が最初です。彼らも、農業ブームの一角を形成した、農業移民でした。

戊辰の戦いで落城した会津若松から、一群の人達が会津藩の親戚筋であった新潟に逃れました。彼らはそこで、会津藩出入りの武器商人だったジョン・ヘンリー・シュネルと出会い、彼の主導でカリフォルニアにやってきます。武士、農民、大工などを含む40人ほどの移民団は、船でサンフランシスコから川沿いにサクラメントに至り、さらに北東の山にはいって、最初に金が発見されたあたりに近いゴールドヒルというところに落ち着きます。シュネルはそこで土地を購入し、一行は当時アメリカでも人気の日本産品であった、絹と茶を生産しようと試みます。この農場は、「若松コロニー」と名付けられました。

しかし、カリフォルニアの乾燥した気候では、桑も茶も育ちませんでした。誇り高き会津の名をアメリカで再興しようと頑張ったコロニーの人達も、生活の苦しさから、手に職を持って他でも仕事に就ける人から順に、櫛の歯が欠けるように徐々に離れていきました。「投資家」であったシュネルも金策のため日本に向かったまま行方不明となり、土地を購入した借金を返せなくなって、1871年にコロニーは倒産し、崩壊してしまいます。

一行のリーダー格であった旧会津藩の武士、桜井松之介は、最後に一人踏みとどまり、倒産したコロニーを買い取ってくれたビアカンプ家に恩を返すべく、執事として生涯仕えました。(シュネルは出自がはっきりしませんが、オランダ系と言われているようです。ビアカンプという名もオランダ系で、その周辺はオランダ系移民の多い地域だったのかもしれません。)いかにも会津武士らしい一生です。若松コロニーの跡地は現在は史跡として保護されており、会津藩(=徳川家)の葵紋がシンボルとなっています。

当時日本からアメリカへの移民は、ハワイが中心であり、カリフォルニアへの移民はその後しばらくは、ほそぼそと続いていきました。

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、 California Department of Food and AgricultureWakamatsu Tea and Silk Colony Farm若松コロニーとシュネル

ベイエリアの歴史(8) – 鉄道がやってきた

血と涙の大陸横断鉄道 そんな大事な鉄道が、ついにカリフォルニアにもやってきます。これも世界史では「大陸横断鉄道が完成しました」の一行で終わってしまうのですが、アメリカ大陸を横断するためには、ロッキー山脈とシエラネバダ山脈を越えなければなりません。大変な難事業でした。

南北戦争開始と同じ頃、その企画は始まりました。企画チームは連邦政府に働きかけ、1862年に「太平洋鉄道法」を成立させ、民間投資資金と連邦政府の予算を使った鉄道の建設が始まりました。東からは、ネブラスカ州オマハを起点にユニオン・パシフィック鉄道が西に向かいます。

西はサクラメントを起点に、セントラル・パシフィック鉄道を東に向かって敷設していきます。サクラメントはサンフランシスコからやや北東方向に位置する現在のカリフォルニアの州都で、当時の金鉱山に近く、幌馬車ルート沿いにあって、北カリフォルニアの陸の流通拠点でした。

ダイナマイトがまだないこの時代、山脈を越える工事に使われたのは、またもや「血の犠牲」でした。東ルートはアイルランド、西は中国からの移民がおもに動員されました。アイルランドでは「じゃがいも飢饉」、中国では「太平天国の乱」で食いつめた人々が、詐欺同然の勧誘でつれてこられたのです。中国からは12000人の労働者がやってきたそうです。ちなみに、日本では生麦事件や新撰組の池田屋事件などをやっている頃で、まだ海外渡航ができず、このえじきにならずに済みました。

ベイエリアからレイク・タホにスキーに行く途中、高速80号線がシエラネバダの峠にさしかかるあたりで、谷を隔てた向かい側の山肌に列車の線路が見え、今もアムトラック鉄道が走っています。雪のついた急峻な山肌に木製の足場でむき出しの枕木とレールが張り付いている状態で、見るだけで怖くなります。これを、当時は人力で架けていったのです。ニトログリセリンは使われたようですが、これも扱いがとても危険です。工事で多くの人命が失われました。

カリフォルニアの小学校歴史教科書には、当時の工事の様子の挿絵が載っています。崖の上からロープでつるされた中国人が手に道具を持って岩壁を掘り、ロープの反対側の端はもう一人の中国人が引っ張って支えているだけです。こんな仕事を一日12時間させられ、一応賃金は払われますが食費は自己負担のため、事実上はただ働きです。辞めようにも、山から自力で降りて国に帰る手段もお金もなく、逃亡不可能な「超ブラック企業」でした。

「太平洋鉄道法」では、1マイル敷設するごとにその両側の土地を10平方マイルもらえることになっていたので、東と西の鉄道会社は建設スピードを競いました。今でいう「ゲーミフィケーション」というやつです。1869年に双方はユタ州プロモントリーというところで出会い、大陸横断鉄道は完成しました。

泥棒男爵の大学

この鉄道を企画したグループの中心人物は、サクラメントで卸売商をしていたレランド・スタンフォードです。もとは東部の弁護士で、ゴールドラッシュに乗ってカリフォルニアにやってきました。

スタンフォードは、政府と癒着して有利な資金や土地払い下げを受けたり、労働者を搾取したり、略奪的価格設定で競争相手を潰したりなどのブラックな手法で巨万の富を得た、「泥棒男爵(robber baron)」とも呼ばれる19世紀後半の大富豪群の一人です。資本主義のきちんとしたルールが整備される前、資本家が好き放題やっていた無法時代の現象で、東部のカーネギーやロックフェラーなどもこれに当たります。日本にもいろいろいますね、こういう人たち。

スタンフォードはまずセントラル・パシフィック鉄道に投資して自ら社長となります。ユタでの東西鉄道をつなぐ式典で「最後の金の釘」を打ち込んだのは彼です。その後も、南カリフォルニアのサザン・パシフィック鉄道を買収したり、当時馬車による輸送を手がけていたウェルズ・ファーゴ(現在は大手銀行)にも関わったりして大儲けし、カリフォルニア知事や連邦上院議員にもなり権力をふるいました。

しかし家族には恵まれず、遅くに生まれたたった一人の息子は若くして亡くなってしまいます。それを「神様の罰だ」と反省したのか、1885年に自らが保有する広大な農場を寄付し、息子の名をつけた大学を設立します。これがスタンフォード大学(正式名称はLeland Stanford Junior University)です。このため、現在でもスタンフォードのニックネームは「The Farm」といい、建物のあるキャンパスの外側では黒い牛が草を食べています。地続きの敷地としては全米の大学で最大の面積を誇っており、泥棒男爵のかつての栄華が偲ばれます。

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、山川日本史総合図録

ベイエリアの歴史(7) – 鉄道の重要性

産業革命の余波 昨今のテクノロジーの進化はすごいペースであるとよく言われますが、19世紀ほどではないと思います。なんせ、1800年頃にはナポレオンが馬でヨーロッパ大陸を駆け回っていたのに、その世紀の終わり頃にはパリに地下鉄が走っているのです。

そんな大変革をもたらしたのは、18世紀にイギリスを中心に起こった産業革命です。産業革命の口火を切ったのは「綿織物」でした。経済学者キンドルバーガーの言う、「衣食住の一つという必需品でありながら、一人で複数持っていても困らない、需要の飽和点が非常に高い品物であり、付加価値がいくらでもつけられる」という「織物/衣類」の特徴が、供給量が爆発的に増える産業革命を支えたという観点は目から鱗でした。確かに、食品では一人が食べられる量の上限がありますし、携帯電話なら一人一台以上に増やすのに通信キャリアは四苦八苦しており、最近は苦肉の策(?)で「IoT(モノのインターネット)」と盛んに喧伝しています。(だからウェアラブルなのか←違)

大西洋を隔てたアメリカでは、そんな産業革命の余波が南北戦争を引き起こします。伝統的農業ベース経済を「第一世代(1G)」、ひたすら金銀を掘り出して持っていってしまうスペインのアービトラージ型経済を「第二世代(2G)」とすると、植民地を原料供給地と製品販売先の両方に使うイギリス型は「第三世代(3G)」と言えます。(この構造は、今でもアフリカと旧宗主国などの間で残っています。)アメリカはすでに独立していましたが、まだこのエコシステムに組み込まれていました。アメリカの中でも、南部では綿織物の原材料である綿花を作り、その競争力の源泉は「奴隷」という安価な労働力であり、イギリスは大事なお客さんだったので、自由貿易を志向します。しかし北部は綿花がなく、もっぱら製品を売りつけられるばかりだったので、自分たちの工業力をつけるまでイギリスからの輸入を阻止すべく保護貿易を志向し、奴隷はいなくても問題ありませんでした。

そして、なぜ「あの時点」(1861年)で内戦が発生したのかというと、「ルイジアナ購入」と「米墨戦争」で突然国土が膨張し、その新領土をそれぞれが味方につけようとして、均衡が崩れたことが引き金となったようです。アメリカの上院は、人口に関わらず一つの州に2人という議員定数なので、ろくに人が住んでいなかろうが「州の頭数」は重要です。これ以上自由州が増えて、上院で奴隷制廃止法案が通ってしまっては大変と、南部は必死になったというわけです。ちなみに、カリフォルニアは自由州となりましたが、テキサスは奴隷州でした。

なぜ北軍は勝ったのか

南北戦争では、「戦争目的」がはっきりしていて士気が高かった南部が最初のうちは善戦しますが、長期化するにつれ、工業力というファンダメンタルズの強い北部が強みを発揮して押し切りました。なのですが、この「工業力」とは具体的に何かというと、わかったようなわからないような、であります。武器弾薬製造がまず思い浮かびますが、実は「鉄道」が勝敗を決した、という話もあります。

当時の北部の鉄道路線距離は、南部の倍あったそうです。この当時、鉄道は3つのモノを運ぶ役割を担っていました。(1)人、(2)物資、そして(3)情報です。(3)は現代では完全に別モノになっているので忘れがちですが、意外に重要です。

北軍兵は、前線まで鉄道に乗っていき、武器や食料も鉄道で運ばれましたが、南軍兵は、すべて自分たちでかついで前線まで歩いて移動しなければなりませんでした。スピードも兵の疲労も全く違います。

そして、情報も「手紙」という物理的なモノでしたので、これも鉄道で輸送すれば、飛脚や馬や馬車に比べ、圧倒的に早く大量に運ぶことができます。(電報はすでに発明されていましたが、電信線の敷設がまだ進んでおらず、高価でした。電話や無線の登場はまだ先のことです。)「情報戦」においても、北軍は南軍を圧倒したというわけです。

そう言われてみれば、日露戦争で必死に満州鉄道の取り合いをしたのも合点がいきます。20世紀初までのかなり長い期間、鉄道は「補給」と「情報通信」の両方を担う重要な戦略要素でした。はるか後年、1980年代通信自由化の時代に世界的にいろいろな鉄道会社が通信に参入したのは、一種の「先祖返り」だったのですね。

4G経済の同期生

1865年、南北戦争は終結します。アメリカは、自分たちの手でたくさんの血の犠牲を払って国内を統一し、生産力と大きな国内市場を併せ持った「第四世代(4G)」経済の国として世界の一部リーグに登場します。

数年後、戦争終結で余った武器が日本に流れ込み、戊辰戦争で使われて、1868年明治維新が成ります。日本も、他国からの侵略でなく自力で血の犠牲を払い、幕藩体制の封建制から統一国家・統一市場となり、アメリカに少し遅れて一部リーグになんとかもぐりこみます。アメリカで世界史を習ったわが息子によると、「この時点でこれをやったかどうかの違いが、その後の日本と中国の経済発展スピードの差になった、と教わった」のだそうです。

アメリカと日本は、4G経済の新興国としては、同期生の関係にあると言えそうです。

出典: C.P.キンドルバーガー「経済大国興亡史」、Wikipedia、山川世界史総合図録 

ベイエリアの歴史(6) – 米国帰属とゴールドラッシュ

カリフォルニアの「なんちゃって独立戦争」 オレゴン・トレールが整備され、いよいよ多くのアメリカ人が幌馬車隊を組んで西部にやってくるようになると、途中までオレゴン・トレールで来て、分岐してカリフォルニアにやってくる人達も出現します。罠でビーバーを捕まえて毛皮をとる「トラッパー」から始まり、徐々にユタ・ネバダからシエラネバダ山脈を超えて北カリフォルニアにはいる道(現在の高速80号線)ができ、1841年に最初の幌馬車がカリフォルニアにやってきて、アメリカ人入植者が増加していきます。

その頃、アメリカでは「Manifest Destiny」という流行語ができ、そんな膨張主義的考えを持つジョン・フリーモントという米国陸軍大尉が1845年にカリフォルニアにやってきました。彼は地元のアメリカ入植者と一緒にソノマで決起し、メキシコに対して「カリフォルニア共和国」の独立を宣言します。現在、カリフォルニアの州の旗は、熊と「California Republic」という文字の、ややマンガチックなデザインですが、これはこのときの独立軍のものがもとになっています。

とはいえ、フリーモントが東部から率いてきた兵士は60人、地元で加わった「独立軍」は30人。その後もカリフォルニアのあちこちでメキシコ側との衝突が起こりますが、それでも150人が100人を攻めた、ぐらいの「二丁目」対「三丁目」運動会レベルのきわめて「なんちゃって」な独立戦争ではありました。

もっと本格的には、テキサスの領土争いに端を発し、1846年に「米墨戦争」が勃発します。1848年にアメリカが勝ち、グアダルーペ・イダルゴ条約で正式にアメリカがカリフォルニアを獲得し、「共和国」の人達もアメリカにジョインします。この一連の戦いで、アメリカはカリフォルニアの他、ネバダ・ユタ・アリゾナ・コロラド・ニューメキシコ・テキサスを獲得し、陸続きでついに太平洋に達しました。

現代に続く「ゴールドラッシュ精神」

それにしても、「ナポレオンのヤケクソ」に続き、アメリカというのはまことに運の良い国です。同じ1848年、現在のサクラメントの北東、シエラネバダの山に向かう中腹あたりで、製材所の工事中に土の中から金が発見され、ゴールドラッシュが始まります。

まずは地元と近隣地域から、6000人程度がその年のうちにやってきました。さらに遠方の東海岸や南米、中国、ヨーロッパなどにも情報が届き、陸路と海路から延々と長い苦難の旅を乗り越えて、翌年の末までには4万人の金鉱夫、すなわち「フォーティナイナーズ」が、一攫千金を目指してやってきました。これらの人や物資の流通拠点サンフランシスコは、1848年に600人だった人口が、1849年に25,000人、1852年には4万人に爆発します。サンフランシスコは、「ブームタウン」が伝統なのです。

最初のうちは比較的簡単に金が見つかったので、48年の6000人は1000万ドル相当の金を見つけましたが、その後は競争も激化し、また金を見つけるためのコストや手間も上がり、極端な人口増加のせいでインフレも激しく、やってきたときよりお金を増やせた人は20人に一人程度だったとされています。この構造は現在の「ビットコイン」も全く同じですね。起業を目指す現代のフォーティナイナーズの間にも、この「我先に」精神が深く染み付いています。

また、「金を掘るより、その人達にツールを供給するほうが儲かる」という「リーバイ・ストラウス(ジーンズを発明してフォーティナイナーズ達に売りまくった商人であり、その後ジーンズの有名ブランドとなった)」原則も、ここの人達の心に教訓として深く刻まれました。「ドットコム・バブル」のときのシスコ・システムズなどがその典型ですね。

もう一つ、興味深い点があります。アメリカ帰属とゴールドラッシュによる人口増加がほんの2年ほどの間で起こり、怒涛の勢いで1850年にカリフォルニアは米国31番めの州となりますが、そのときに「カリフォルニアは自由州となることを選択した」ということです。

当時、東海岸では南北戦争前夜の自由州対奴隷州の対立が激化しており、連邦に対して州設立申請をするときにはどちらかを選ばなければなりませんでした。このとき膨れ上がったカリフォルニアの住民とは、すなわちほとんどがフォーティナイナーズであり、どこかの帝国からの命令で派遣された軍隊でも、奴隷団を連れてやってきた大金持ちでもなく、自らの意思で個人としてやってきたアントレプレナーたちでありました。彼らは、奴隷の保有を許せば、一部の金持ちだけが有利になってしまう、として自由州を選んだのでした。

金儲け主義でありながら、個人の自由や機会平等を大事にする、まさに現代のシリコンバレーを支える精神的支柱です。

それにしても、とにかく金や銀を掘り出すことにやたらこだわったスペインが、逃した魚の大きさにどれほど地団駄踏んでくやしがったのか、現代に伝わっていないのが残念です。

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、山川世界史総合図録

ベイエリアの歴史(5) – オレゴンへの道

ナポレオンのヤケクソ 話はまたまた、1800年頃まで戻ります。その頃ヨーロッパでは、ナポレオンが暴れまわっておりました。メキシコもカリフォルニアもまだスペインの領土でしたが、ナポレオンのおかげでヨーロッパのパワーバランスは急速に変化しつつありました。

そんなパワーバランスの乱気流の中で、アメリカが「ルイジアナ」を購入します。ルイジアナといっても、現在のルイジアナ州だけではなく、アメリカ大陸の真ん中半分ほどの広大なテリトリーです。日本の高校世界史では、ナポレオンが戦費調達のために売却したと習ったようなおぼろげな記憶がありますが、今あらためてウィキペディアを読んでみると、そんなマジメな話ではなかったようです。

だいたい、フランスがアメリカ大陸にそれほど大量の領地を持っていたというのが不可解だったのですが、実はスペインの米国中部テリトリーをナポレオンが脅して取り上げる密約(サン・イルデフォンソ条約)を1800年に結び、でもスペインはちゃんとその譲渡を実行しないまま、中途半端に3年ほどが過ぎていた、という状態でした。カリブ海の「奴隷・砂糖・ラム酒」の三角貿易と北米を結ぶ物流拠点として、ミシシッピ川河口にあるニューオーリンズはすでにきわめて重要で、ちゃんとしたフランスの領土でしたが、その北側に広がる部分は、ほとんど未開の地でした。

ミシシッピ川を境に、東側がアメリカ合衆国、西側は謎のルイジアナでした。スペインがミシシッピ川の通行に関してごちゃごちゃとアメリカにいちゃもんをつけていた一方、カリブ海のフランス領サン・ドマングでは奴隷が反乱を起こしてハイチとして独立し、フランスは新大陸での重要な「金のなる木」を失ってしまいます。そんな最中の1803年、ごちゃごちゃをアメリカンにおカネで解決すべく、当時のアメリカ大統領ジェファーソンは使節をパリに派遣し、「ニューオーリンズ」を購入しようとします。しかし、「金のなる木」を失ったナポレオンは、「カリブの砂糖がなければニューオーリンズなんか持ってても仕方ない、ましてやその北にある謎の無人の荒野なんぞ、いらんわー!」とヤケをおこし、外務大臣タレーランの反対も聞かず、ニューオーリンズだけでなく「ルイジアナ全部」をアメリカに売ると言い放ってしまいました。

使節は、ニューオーリンズに1000万ドルまでなら払っていいとジェファーソンに言われてやってきたところ、1500万ドル(2013年の価値で2億ドルちょっと)でルイジアナ全部というカウンターオファーを受け、「え・・あ・・ちょ・・」と面食らったのですが、すぐにナポレオンの気が変わるかもしれないと思い、その場で契約に電撃サインしました。こうしてアメリカ合衆国は、1エーカー3セントという超破格のお値段で、領土を倍に拡大することに成功しました。

いや、本当に、人間、ヤケを起こしてはいけないですね・・

ルイス・クラーク探検隊

「ルイジアナ」は、現在のミネソタ、アイオワ、ミズーリ、アーカンソー、ルイジアナ、ノースダコタ、サウスダコタ、ネブラスカ、カンサス、オクラホマ、モンタナ、ワイオミング、コロラド、ニューメキシコとテキサスの一部の各州にまたがります。現在でも無人の荒野が多いですが、とにかく、広大です。

もともと、なぜか探検隊をやりたくてうずうずしていたジェファーソン大統領は、待ってましたとばかりに、1803年、メリウェザー・ルイスとウィリアム・クラークという軍人をトップに探検隊を編成し、この新しく獲得した地域の調査に派遣します。「ルイス・クラーク探検隊」です。

当時、南のほうにはまだまだスペイン人がたくさんいたので、一行はなるべくスペイン人と接触しないように、テリトリーの北側を通って西に向かいます。セントルイスからミズーリ川を上流に向けてたどっていき、カンザス・シティ、オマハを経て、サウスダコタ・ノースダコタ・モンタナを通ってロッキー山脈の分水嶺に達し、そこから今度はアイダホから現在ワシントン州とオレゴン州の境となっているコロンビア川を下ってポートランドに達し、さらに西進して太平洋までたどりつきました。彼らの通ってきたテリトリーは、途中まで一応ルイジアナでしたが、実質的にはネイティブ・アメリカンの居住地域であり、またアイダホとオレゴンはまだ、正式にはアメリカもスペインもフランスも領土宣言していない土地でした。

彼らは、行く先々で採集した植物や動物の標本とともに詳しい報告をジェファーソンに送り、1806年にセントルイスに帰還して、詳細なこの地域の地図を作成しました。この情報をもとに、アメリカ東部から西部への人の移動が本格的に始まります。そして「オレゴン・トレール」とよばれる西部への道路が整備されていきますが、なぜ「カリフォルニア」ではなく「オレゴン」なのかというと、こんな歴史があったからなのですね。当時まだスペイン領だったカリフォルニアは、最初から避けられていたというわけです。

ルイスとクラークは、さしずめ「アメリカ版伊能忠敬」というわけですが、伊能忠敬が日本中を測量して地図をつくってまわったのは1800~1816年。ここでもまた、日本とアメリカは不思議と同期していますね。

<続く>

出典: Wikipedia、山川世界史総合図録 、山川日本史総合図録 

ベイエリアの歴史(4) – U.S.A.との遭遇

ミッションの終焉 時代錯誤かつトラブル続きのミッションによるカリフォルニアの支配は、そう長くは続きませんでした。1810年、メキシコがスペインに対して独立戦争を開始し、その最中の1819年、スペインはミッション事業を支えきれなくなり、新規のミッション建設を中止します。

結局ミッションは、経済的に自立できず補助金漬け、反乱続きで人的被害甚大、防衛コストがかかりすぎて赤字垂れ流し状態でありました。南から北へ伸びていったミッションのチェーン展開は、現在ワイン産地として知られるソノマを北限として止まりました。現在でも、ソノマ近くのサンタ・ロサ(ミッション建設が計画されていたが途中で断念)より北は、スペイン語系の地名がぱったりなくなります。

1821年にようやくメキシコは独立を獲得し、カリフォルニアはメキシコの一部となりました。長い戦争を経て疲弊したメキシコには、既存のミッションをサポートする気力も財力も、とてもありませんでした。事実上奴隷化されていた原住民を「解放」するための法令が徐々に出されていき、1833年にカリフォルニア知事ホセ・フィゲロアは「ミッションの終了」を宣言します。ごく一部を除いてミッションは閉鎖されていき、フランシスコ会の宣教師たちは金目のものを持って去り、建物は地元民の建設資材として荒らされました。

ビーフ三昧のランチョ時代

ミッションの保有していた土地は分配され、なんだかんだで有力なメキシコ系ファミリーが「土地下賜(land grant)」の形でその多くを獲得し、広大な「ランチョ(牧場)」を形成します。そこではおもに牛や羊の放牧が行われ、ミッションがなくなって失業したネイティブ・アメリカンなどがカウボーイや家内労働者となって働きました。牧場には大きな現金収入があるわけではなく、この当時のメキシコ政府から見れば、税金も取れません。本国首都からは遠いし、広くて管理しきれず、ただでさえ戦争で疲弊した後のメキシコは、カリフォルニアをほとんどほったらかしにしていました。なんせ当時のカリフォルニアの首都モンテレイまで、メキシコシティから公式文書が届くのに、下手をすれば2年もかかっていました。なお、当時のランチョの土地の区分は、現在でも郡や市の境界として残っています。

そんなほったらかしのカリフォルニアに、別の勢力がひたひたと忍び寄ってきます。ようやく、アメリカ合衆国なのですが、幌馬車はまだ登場しません。サンフランシスコ湾の北側、現在のナパの方向に向かって内陸に入り込んでいるサン・パブロ湾に、1840年、アメリカ合衆国の船がやってきて、カリフォルニアとアメリカ合衆国との貿易が始まりました。

スペイン領だった頃のカリフォルニアは、独自に「外国」との取引をすることを禁じられていましたが、締め付けの緩くなったメキシコ独立以降は許されるようになったのです。貿易といっても、当時のカリフォルニアの産物はランチョで生産されるものしかなく、主要産品は皮革と牛脂でした。皮革は鞍、靴など各種の革製品、牛脂は石鹸やロウソクなどの製造に使われる価値あるコモディティでしたが、冷蔵・冷凍保存ができない時代ですので、残った「ビーフ」は売りようがありません。乾燥肉に加工する以外はひたすら自分たちで食べるしかなく、当時のランチョの人達は毎食ビーフ三昧だったとのことです。

もちろん、パナマ運河などまだ存在しないので、アメリカ合衆国の船は、ボストンから遠く南米大陸の南を回って来ていました。ボストンからは、衣類や靴、銃や斧、お茶やコーヒー、ナイフやフォーク、装飾品など、さまざまな品物がカリフォルニアに運ばれました。技術をもった職人などの「人」も、アメリカ合衆国からやってきてカリフォルニアに定住するようになります。

日本では老中水野忠邦の「天保の改革」が始まる頃で、こちらでもアメリカをはじめ、イギリス、フランス、ロシアなどの船が日本近海に出現し始めます。ペリーの黒船がやってくるまで、あとほんの10年ちょっと。ペリーが日本にやってきたのは、捕鯨船の補給港という動機が大きいと習った記憶がありますが、その頃のアメリカの捕鯨も「鯨油」が目的でした。よほど「油」が必要だったのですね。

この当時、カリフォルニアはそういうわけでほったらかしだったので、なし崩し的に貿易が始まりましたが、もしまだスペイン領だったら、日本のように「アメリカ、来るな!」といって「攘夷」戦争をやっていたのかも、と考えるとちょっと面白いです。

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、山川世界史総合図録 、山川日本史総合図録