日系人

【日系人の歴史】カテゴリー追加しました

ソーシャルメディアで、日系人の歴史について知りたいという方の情報がありましたので、ここで過去に書いた「ベイエリアの歴史」のうち、日系人に関わるものは「日系人」というカテゴリーを追加しました。

このブログはサーチ機能がないので、面倒で申し訳ありませんが、このエントリーの上にある「日系人」というカテゴリーをクリックすると、今回カテゴリーに入れた記事が出ます。

他の移民グループとの比較をしているので、これらの他のエントリーをご覧になりたい場合は「ベイエリアの歴史」のカテゴリーをクリックしてください。

ベイエリアの歴史(36) - 「ジューイッシュ戦略」も封じられた日系人

「人種差別」には、ふたつの側面があります。一つは①外見や慣習の異なる人達に対して、どう扱っていいのかわからない、共通の関心事がなくつきあいづらい、彼らの生活慣習は自分たちにとって迷惑である、といった感情的な面。もう一つは②安価な労働力を安定的に確保するため、敢えて特定のグループの人たちを低い地位にしばりつけておこう、という社会構造的な面です。 ①の「お前らキライだ」というだけなら、そもそも国に入ってこないようにしたり、国に帰れと追い出したりするのですが、②の安価な労働力が欲しい人たちがそれなりにいれば、移民を受け入れることになります。安価に抑えるためには、そのセクターが常に供給過剰でなければならないので、最下層に移民をたくさん受け入れることになります。アメリカで移民の流入が爆発的に増えるのは19世紀後半から20世紀初頭にかけての「泥棒男爵の時代」、つまり未洗練・荒唐無稽の資本家が力にまかせて跋扈した時代であり、泥棒男爵達が安価な労働力を必要としたからでしたね。そして泥棒男爵たちは、一種類のグループだけだとアイリッシュのような政治的な勢力になってしまうので、あえて細かく分ける、という戦略をある程度意識的にとったのかもしれません。「①排斥」があるのに、なぜ完全にシャットダウンしないかというと、「②受け入れ+差別」のメリットがあるからです。

実はありがたいはずの安価な労働力に対し、時々大きな排斥運動が起こるのは、下層にいる既存住民が、競合勢力がはいってきて自分たちの給与水準が下がることを嫌うことが大きな要因で、そこに①の感情要因が加わります。つまり、下層民ほど「排斥」側に寄ります。一方で、彼らをつかって甘い汁を吸う人たちは、新しいグループを次々と入れ、勝手に自分たちで争うように、つまり下層民を分断するようにし、自分の手を汚さずにニンマリしています。こうした泥棒男爵は「受け入れ+差別」に寄ります。このとき、カリフォルニアでニンマリしていた代表例が、鉄道王であり政治家としても権勢を振るった、例のレランド・スタンフォードです。この分断構造に気づいてしまった人たちが「万国の労働者よ団結せよ」という方法を編み出したのも、ちょうどこの時代です。

そして、日系人コミュニティでは①の排斥「感情」をできるだけ抑えようと、アメリカ社会に溶け込むための大変な努力を続けてきました。それでも差別が続いたのは、白人といかにも見かけが違うという①の面が拭えなかったことに加え、②の構造要因が引き続きあり、それに太平洋戦争の要因が加わった、という3つの要因があると思います。精神論だけでは、移民の問題は解決しないのです。

(30)で述べたように、日系より前に、すでに中国系移民がたくさん北カリフォルニアにはいっており、「中国人排斥法」ができていました。この時点では中国人に対して②より①のほうが強くなってしまったのですが、泥棒男爵さんたちがまだまだ移民を必要としていたので、日本人が入ってくることになりました。

サンノゼでも中国人排斥が激しく、中国系の人たちには家主がアパートを貸さなかったのですが、おそらくは宗教的な信条から、中国人を受け入れてくれたジョン・ヘインレンという地主があり、彼の所有地がサンノゼのチャイナタウンとなりました。なお、ヘインレンさんはメソジスト教徒であり、「メソジストの人たちは一般に日系移民に親切だったため、多くの日系人がメソジストに改宗した」というお話を、現在でも日本町の中心であるウェスレー合同メソジスト教会のキース・イノウエ牧師が語ってくださいました。

幸い、ここでは「分断」が起こらず、チャイナタウンの人たちは新しくはいってきた日系移民を受け入れてくれました。習慣が似ていて、日本に近い食べ物や生活用品が入手できるということで、日本人がチャイナタウンの近辺に住むようになり、初期の頃に日系農家が必要なものを購入するのにクレジットを供与してくれたのも、日系農家の産物を買ってくれたのも、チャイナタウンの商店でした。

日本町で講演をしてくださったジミさんが生まれたのは1922年頃で、ジミさんは日本町の産婆さんのところで生まれたそうです。この頃、日系人は病院を使うことができなかったからです。日系人が医師になることもできませんでした。ジミさんは本当は大工になりたかったのですが、「なれない」と言われました。そのための教育を受けることはできないことはなかったけれど、卒業後に大工の組合にはいることができず、そうすると仕事が来ないので、実質的には「なれない」からやめておけ、と学校の先生に言われたのです。

米国南部の黒人差別のような、制度的なあからさまな差別ではなかったけれど、こうした形で日系人は、専門職としての技能を身につけてのし上がる、という道も封じられていました。以前述べた、移民ののし上がり戦略の典型として、敢えて特色あるコミュニティを維持して数の力で政治に参加していく「アイリッシュ戦略」を挙げましたが、人数が少ない場合、教育により技能を身につけ、専門職として個人の地位を向上させるという、ユダヤ系型の「ジューイッシュ戦略」があります。数が少ない日系人は「アイリッシュ戦略」が採れませんでしたが、技能職から締め出されていたので、「ジューイッシュ戦略」の道も封じられていました。

こうしてサンノゼの日系移民は、「農業」に縛り付けられていました。しかし、1913年にCalifornia Alien Land Lawができ、1920年にはそれが強化されて、日系人は土地を所有することも、長期リースすることもできなくなりました。1920年の法改正は、日系人排斥の激化に伴い、日系農家をターゲットにしていました。それでも農業しかできなかったので、日系農家は、白人農家に「名義貸し」をしてもらっていました。土地改良や農器具への投資も日系人が行い、本当に単に名前を貸すだけなのに、売上のかなりの部分を白人農家が取っており、貸した白人農家はおいしい商売でした。

日系ミュージアムで当時の農機具展示を見ながら、差別で甘い汁を吸っている②的な人というのが必ずどこかにいるものだなー、と改めて思った次第です。

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当時日系人農家が産物の出荷に使っていた箱。日本人の名前は全く記載されていない。(サンノゼ日系アメリカ人ミュージアム展示)

出典: San Jose Japantown - A Journey、The Japanese American Museum of San Jose, Wikipedia

ベイエリアの歴史(35) - SF仏教寺院のハロウィーンと移民の出身県

10月31日、サンフランシスコ仏教会では、福岡県人会の追悼法要が行われ、福岡出身の夫が招かれて行ってきました。 県人会メンバーのうち、今年亡くなられた方を偲ぶ会、ということなのですが、お盆ではなくハロウィーンの日にやる、ということは、カトリックの「死者の日」に合わせているのかなぁ?とぼーっと考えています。ハロウィーンとは「死者の日」で、その日にカトリック教会では、その年になくなった信者さんの「追悼ミサ」をしますので、「そのまんま」であります。

先週のサンノゼ日系ミュージアムでのジミさんのお話では、サンタ・クララ・バレーにやってきた農業移民の出身地として多かったのが、広島・和歌山・島根・熊本・岡山の5県であった、ということを伺いました。それぞれの県出身者は、自然と同じ地域に集まる傾向があり、サンノゼは広島、ロスガトスは和歌山、といったような色分けがありました。上記の福岡県人会のサイトでその歴史を読むと、1900年代に福岡県からサンフランシスコとオークランドに渡った人たちが、現在の福岡県人会の源流となっている、とのことです。

ハワイへの移住者は広島と山口が多かった、との記述もあります。山口県は、ハワイ移民事業を推進した井上馨の出身地というつながりがありますが、ここでも広島が出てくる背景は、今のところよくわかりません。広島県の中でどの地域から海外移民が多かったか、ということを分析した資料などをいくつか読むと、人口に対して耕地面積が少なかった、藍の産地で外国からの安価な製品がはいってきて廃れて失業が多く出た、などを背景として挙げていますが、似たような別の事情が日本の他の地域で数多くあったはずで、これだけでは「なぜ広島ばかりが多いのか」という点について説得力がありません。特定の歴史的背景(かつての天領や譜代大名の地域で、明治政府に疎外されたとか?)の共通点でもあるかな、という仮説も考えましたが、これといったものが見つかりません。今のところ、「全国あちこちにできた移民会社のうち、特に成功した会社があったのがこれらの地域だった」のでは、という仮説を置いておくことにします。

さて、上記のサンフランシスコ仏教会は西本願寺系の浄土真宗のお寺だそうですが、中のつくりは、金色の祭壇の前に木の長椅子式の礼拝台が左右二列に並ぶ、「お寺と教会の和洋折衷」という感じです。

SFtemple

サンフランシスコ仏教会内部の様子

サンフランシスコ日本町の近くには、このほか、法華宗サンフランシスコ仏教会と、曹洞禅宗の桑港寺が集まっています。一方、サンノゼ日本町では、合同メソジスト教会の隣に浄土真宗のSan Jose Buddhist Church Betsuinが仲良く並んで町の中心を形成しており、ちょっと離れたところには、日蓮宗のNichiren Buddhist Templeがあります。他にも、日系人が多く入植したカリフォルニアの町には、仏教寺院が現在でもいくつも残っています。

これらのアメリカにおける仏教寺院は、1900年代前半の日系移民が、厳しい生活の中での心の支えとして求めてできたものですが、初期の日本語しかできない一世の時代と、その後アメリカ生まれの2世以降の時代ではその意義や存在も変わってしまいます。

現在の最大勢力である「米国仏教団」は、上記で述べた本願寺系浄土真宗で、全米に信徒が16,000人ほどいます。一世の時代には、日本から僧侶がやってきて日本語で活動していましたが、その後は英語しかわからない人が増えてしまい、日本のお坊さんで英語のできる人が少ないために、日本との人のつながりがだんだんなくなり、現在では日本から僧侶が来ることはないそうです。今日、サンフランシスコで法要を行ったのも、日系アメリカ人のお坊さんでした。米国の仏教は、第二次世界大戦中の日系人収容によりいったん消滅し、その後復活して現在に至りますが、その歴史の中で、仏教団の「西本願寺系」では、当地では入手困難な畳ではなく木の長椅子を入れたり、日曜日に法話会をしたり、上記のようにハロウィーンに追悼法要をやるなど、地元アメリカの風習に合わせる努力をしています。

しかし、こうした迎合的なやり方を否定する原理主義的な人たちも常にいます。浄土真宗の中では、東本願寺系が「原理主義」なのだそうです。現在のアメリカの信徒数では「西」派が圧倒的に多く、カリフォルニアは「西」派、「東」派はシカゴなどカリフォルニア以外という図になっているのだそうです。

ちなみに、そもそもハロウィーンというのも、カトリックがスコットランド・アイルランドの地元ケルト文化のお祭りを取り入れた迎合的なイベントです。といってもカトリック教会でも、ハロウィーン翌日の「諸聖人の祝日」は正式に祝日になっていますが、ハロウィーンは公式なものではありません。

カトリックは世界各地に広がっていく中で、積極的に現地の文化・習慣を取り入れてきました。日本のカトリック教会でも、七五三には子どもたちのためのミサをやり、千歳飴をくれました。私の地元のその教会は、大きな瓦屋根の木造建築、灯籠と障子風の内装、掛け軸の聖家族絵、日本画家による十字架の道行、など、サンフランシスコ仏教会とは逆方向に「お寺と教会の和洋折衷」をした和風建築でした。日本ではお寺でもクリスマスを祝ったりしますし、宗教的に寛容で、良い国であります。

一方、プロテスタントは宗派にもよりますが、全体的にはピュアに教義を守る傾向があります。ハロウィーンも、「異教のお祭りである」ということで、プロテスタントでは排除する傾向があり(でもそれ言ったら、クリスマスだってそうなんですけど・・)、フランスやイタリアなどのカトリック国も含め、欧州ではケルトの地であるアイルランド・スコットランド以外ではほぼ無視されているようです。

ハロウィーンが現在のような、コスプレバカ騒ぎの日になったのは、アメリカにはいってきてからです。(29)で述べたアイルランドからの大量移民が、19世紀にアメリカに持ち込み、その後徐々にアメリカで(おそらく、お菓子メーカーの謀略で?)広がり、宗教色が抜けたイベントとなりました。

原理主義とローカリゼーションの対立は、いつの時代のどの宗教にもあることですが、こんなちっちゃなアメリカの仏教にもそんな分裂があるというのは少々驚きです。

出典:サンフランシスコ仏教会、サンノゼ日系ミュージアム講演、Wikipedia、米国仏教団サイト

ベイエリアの歴史(34)- 新技術を使ったブルー・オーシャン戦略

同じカリフォルニアで、同じように差別を受けた日系移民と中国系移民が、どう違ったのか、どう同じだったのか、というのは私の大きな興味の対象です。そのいくつかの回答が、昨日のサンノゼ日系人ミュージアムでのお話や展示で、わかってきました。以前に、日系移民が農業アントレプレナーとして成功したのは、武士が指導者として混じっていたからではないか、という仮説を挙げましたが、どうやらこの仮説は間違っていたようです。カリフォルニアへの日系移民が本格化したのは、1890年から1900年頃なので、すでに明治も中期にはいり、武士階級はなくなっていました。こちらで「どういう人達がやってきたか」という点を調べたり話を聞いたりしても、いずれも「農家出身者」であるとしか出てきません。幕末でもすでに、下級武士と富農との境目ははっきりしなくなっていたので、混じってはいたでしょうが、特に「武士が率いてきた」ということではなさそうです。

その時代までの農業とは、「船による長期輸送・長期保存に耐えられる農産物、またはそのように加工した、広い市場で売れるコモディティを、大量生産できるように最適化する」というのが典型的なビジネスモデルでした。穀物がどの土地でも重要なのはこのためであり、商品作物としては、アジアの胡椒、西インド諸島やハワイの砂糖、イギリスの毛織物、米国南部やインドの綿花、日本の絹糸やお茶など、いずれもこのパターンに当てはまります。19世紀中頃にカリフォルニアでフルーツ農業が盛んになったときも、輸送は「船」から「鉄道」に代わりましたが、ドライフルーツにして販売していたので、まだこの伝統的パターンでした。

サンタクララ・バレー地域に入植した日系移民も、最初はフルーツ農家に雇われていましたが、自分たちが食べるものを作るために、半端な土地を与えられていました。ちょうど、イギリス人に虐げられたアイルランド人と同じ状況ですね。アイルランドではそこでジャガイモを作りましたが、日系移民はいろいろな野菜を作りました。半端な土地なので、形もばらばらな傾斜地であったワケですが、そこを日系人は、「棚田/段々畑」をつくる技術を活用して、うまく灌漑(英語ではcontour irrigation)を行ったそうです。不揃いな土地を耕したり、収穫物を出荷しやすく整形したりするための道具も、自分たちで工夫して作り、そのノウハウを日系人コミュニティの中で共有して、それを強みとしていました。ミュージアムでは、そんな道具がいろいろと展示されていて、説明を聞きながら私が「なるほど、オープンソース方式ですね」と言ったら、ソフトウェア会社の方が「今と逆ですね(笑」とすぐにツッコんでくださったのが秀逸でした。

こうして作った野菜を、自家消費だけでなく、外にも販売するようになり、徐々にもっと大きな土地を入手して拡大していきました。その原動力となったのが、当時の新技術「鉄道」でした。その頃には氷を積んだ冷蔵車があったようですし、農村サンノゼから、大都会サンフランシスコへ、短時間で野菜を輸送することができるようになっていたので、保存のきかない生の野菜が、初めて広い消費市場に出せるようになったのです。

サンノゼ日本町は、当初は「すでにあったチャイナタウンの近くに日本人もはいってきた」ことから始まったのですが、たまたま鉄道の駅に近く、その後別の日系入植地でも、鉄道駅近くに集中して住むようになりました。このロジスティクス革命が、ちょうどその時期にはいってきた日系人のもつエキスパティーズと合致したわけです。当時はそういうわけで、白人のプランテーションではフルーツを作っていたので、日系人が野菜を作っても競合せず、いわば「ブルー・オーシャン」戦略であったわけです。(もちろん、当時の人たちがそのように考えてやっていたわけではなく、振り返ってみるとそういうことだったんだ、というだけの話です。もともとブルー・オーシャンとはそういうモノ、だそうですが。)

日系農家の手によって、最新の「鉄道」という技術を使った、「近郊農業」という新しいビジネスモデルが出現したのです。

そうは言っても、差別による問題もその周辺にはいろいろあり、そのあたりは次回以降に書いていきます。

日系農家には、農業技術を工夫し、道具を作り、共有するという「農業経営」の技術とノウハウがあったことになります。このことは、農村出身者であっても、ある程度の教育を受けることができた、という当時の日本の状況を反映しており、まだ教育を受けられなかった中国の農民との一つの違いであったのではないかと思います。武士が直接来たわけではないですが、失業した下級武士の多くが学校の先生になったので、私の仮説も少しは合ってる、といえるかもしれません。(負け惜しみ、すいません・・)

もう一つの違いは、「お嫁さんが来た」ということです。日系農家でも、最初は中国系同様に、若い男性ばかりが来ており、白人の女性との結婚はできませんでしたが、日本からお嫁さんを連れてくる斡旋業ができ、「写真花嫁」が日本からやってくるようになりました。そのきっかけは、1907年にできた「日米紳士協定」です。当時、日本は日清・日露戦争に勝ち、先進国リーグの一角を占めるようになって、アメリカから警戒の目で見られるようになっていました。その警戒を解くべく、日本は「アメリカに新規の移民は送らない」という約束をします。ただ、このとき「女性だけは送ってもいい」という例外が設けられたので、それまで年季奉公人を送り込んでいた移民業者たちは、写真花嫁にピボットしました。写真だけのお見合いをし、実際に会ってみたら全然違っていた、という悲劇も多数ありましたが、それでも「結婚式当日に初めて会う」ということが珍しくなかった時代ですから、そのまま淡々とアメリカでの生活に落ち着いていった女性のほうが多かったようです。こうして日系移民は、アメリカで家族をもち、定着することができたワケですが、これも当時の中国と日本の本国の政治状況の違いを反映しています。

当時日系人がやっていた近郊農業での厳しい労働は、現在メキシコ系の移民が担うようになっています。ドナルド・トランプがメキシコ移民を排斥する発言をし、それを多くの人が喝采するという構図が、どうしても私には不愉快でなりません。現在の日系人コミュニティにおいて、「すでに日系人差別はないので、コミュニティとして政治的な争点はなくなったのでは?」と質問したところ、「いや、全然そんなことはない。その証拠に、今だってトランプが支持されているではないか」と若手リーダーの一人が答えてくださったのが、印象に残っています。

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(メキシコではJesus=ヘスースという名前が多い。de nadaは「どういたしまして」のスペイン語。)

出典: San Jose Japanese American Museum展示・説明、Mr. Jimi Yamaichi講演より

ベイエリアの歴史(33)- サンノゼ日本町のジミさん

ハワイに次ぐ、日系アメリカ人の政治的活躍の本拠地といえば、わがベイエリアにあるサンノゼです。サンフランシスコじゃないの?と思われるかもしれませんが、違うんです、サンノゼなのです。

成田から毎日定期便が行き来するサンノゼ空港は、正式名を「ノーマン・Y・ミネタ・サンノゼ国際空港」といいます。ミネタ氏は、ハワイを除く米国本土初の日系市長(サンノゼ市)、その後初の日系連邦議員、クリントン政権の商務長官でアジア系初の閣僚、ブッシュ政権時には運輸長官となりました。2001年同時多発テロの際には、全米の飛行機をすべて飛行停止するという大仕事を成し遂げました。同年の秋、その功績を讃えてサンノゼ空港がミネタ空港と名付けられたのです。

そのサンノゼには、現在米国に3つしか残っていない「日本町」の一つがあります。サンフランシスコより知名度はだいぶ劣りますが、すっかり「観光地」となったサンフランシスコと比べ、サンノゼは現在でも日系アメリカ人のコミュニティ・センターとしての役割を大きく担っています。その中に、「日系アメリカ人ミュージアム」があり、今日は有志のグループで、このミュージアムのツアーと、サンノゼ日系人のコミュニティ・リーダーの方々とのランチ会が実施され、参加してきました。

ミュージアム・ツアーの最初には、収容所の経験者でもある日系2世のジミ・ヤマイチさんから、自ら体験した歴史をお話していただきました。この後、何回かにわたって(私の気が済むまで^^;)、ジミさんのお話とその他資料を合わせて、ベイエリアの日系人の歴史について書いていく予定です。

2015-10-24 Jimi

Mr. Jimi Yamaichi

日本からハワイへの移民開始から5年後、1890年に、カリフォルニアへの集団移民が開始されました。ハワイのような官約移民ではなく、当初から民間による自由移民で、民間の移民会社が仲介をしていました。

その前後の事情をもう少し詳しく見てみましょう。アメリカでは1869年に大陸横断鉄道が完成、その後も西部での鉄道建設はしばらく続きます。しかし、1882年に「中国人排斥法」が成立して、鉄道建設を主に担ってきた中国移民が入ってこなくなりました。一方、日本では1877年西南戦争の少し後の時代に当たり、農村の余剰人口が都市の製造業へと吸収されていくフェーズにはいる前の端境期でした。幕藩体制下の封建的な農村支配から近代的な農業経営に移る過渡期で、1884年頃は不況となり、貧しい地域では農家の次男以降の「口減らし」という「プッシュ要因」がありました。当時の日本の主要産品であった絹糸の輸出が急激に増えるのは、1894年からの日清戦争が終わった後になります。

中国移民は定着することができず、アメリカの中国系コミュニティは縮小を余儀なくされていたので、その代わりに、元祖ブラック企業ユニオン・パシフィック鉄道が、1891年に日系人の採用を始めます。

しかし、それよりも大きな「プル」要因だったのは、鉄道による輸送力増大により、カリフォルニアの農産物の市場が拡大して、「農業バブル」が起こったことです。サンタクララ・バレーと呼ばれるこの地域では、特にフルーツ農場が急速に発展します。

そこで、フルーツ農業労働者として、日本人を例によって「年季奉公契約」で連れてきたというわけです。さらに1898年にハワイがアメリカに併合されて、ハワイからパスポートなしで本土に入ってこられるようになりました。当時の本土の農業労働者の給料はハワイの10倍だったそうで、このためにハワイから大挙して日系人がやってきました。日本では、日清戦争と日露戦争が相次いで起こった時期にもあたり、徴兵を逃れるためにアメリカに渡ってきた人も多かったとのことです。

こうして1890年代に、徐々にカリフォルニアの日系移民コミュニティが成立していきます。

出典: Wikipedia, San Jose Japan Town - A Journey, Lecture by Mr. Jimi Yamaichi, 日本史総合図録(山川出版社)

ベイエリアの歴史(32)- ハワイ日本移民のアイリッシュ戦略

同じ日系移民でも、ハワイとカリフォルニアではいろいろと事情が異なります。前回見たように、ハワイでは日系移民の開始が、ハワイ王党派の政治的事情にかなり影響されており、その後の事情もあって、もともと少なかったハワイの人口に比べて日系人の人口比率が大きい、という点が種々の違いの根源になっています。

明治政府とハワイ王国との取り決めで実施された移民プログラムは「官約移民」と呼ばれました。ところが、これをハワイ側として取り仕切っていたのはアメリカ人のロバート・W・アーウィンという人物でした。何らかの理由で空席になった在日ハワイ王国領事になぜかアメリカ人なのに就任してしまい、井上馨など政府大物と仲良くし、三井物産会社を使って集めた移民をハワイに送り込み、その手数料を日本とハワイ両方から受け取って大儲けしておりました。要するに、超ありがちな利権商売・人身売買商売です。

中国系のケースと同じように、日本国内では「ハワイに行ったら大儲けできる」という甘言で人を集めましたが、実際にはお決まりの「年季奉公契約=事実上の奴隷」でした。当時のハワイの法律(=アメリカ人プランテーション主に有利)では、年季契約を途中で解約することができず、過酷な労働をわずかな給料で強いられました。

1894年には、アーウィンは手を引き(ハワイ王国滅亡時でもあり、アーウィンと政府または三井との契約交渉決裂との話もあり)、民間が行う「私約移民」に移行して、移民から本国への送金サービスも含めた移民サービスの民間会社がいくつも設立されて繁栄しました。

その後ハワイはアメリカに併合されてアメリカの法律が及ぶようになり、1908年には一部を除き、新たな日本からの移民はストップします。このあたりの経緯はのちほどカリフォルニアの話と一緒に書く予定です。

官民あわせ、1908年までで合計22万人が日本からハワイに移民しました。例えばアイルランドの700万人と比べれば、ぜんぜん少ない人数ではあります。しかし、もともとハワイは全体の人口が少なく、また中国からの移民は定着率が悪いなどの理由で制限された一方、日本人は定着して家族を増やしていき、移民グループの中で最大となって、最盛期の1920年には全人口のなんと43%、現在でも17%が日系人となっています。

1902年時点で、サトウキビ農場労働者の70%が日系人でした。マイノリティといえど、これだけ地域的に数が集中すれば、当時力を持ちつつあった思想、「社会主義/労働争議/階級闘争」戦略を採用することができます。農場での給料を上げるため、日系移民たちは頻繁にストライキを起こし、1920年には他国からの移民も巻き込んだ大規模なストライキに発展。給与は上がりましたが、日系人の多くが農場を去ることになり、また日系人への反感を高める結果ともなりました。

それでも、民主主義国ではやはり数が勝負。1959年にハワイが州に昇格した際、最初のハワイ選出下院議員としてダニエル・イノウエが当選して、アメリカ初のアジア系(もちろん日系としても初)国会議員となりました。その後も、1965年にパッツィー・ミンクが初の非白人女性議員、1974年ジョージ・アリヨシが初の日系州知事となるなど、ハワイは民主党日系議員の政治的活躍の本拠地となります。文化的にも、アイリッシュ=カトリックほど統一性はなかったものの、仏教をハワイに持ち込んで日本の行事や食べ物も伝えており、「日本人」のアイデンティティを軸として数を集め、労働運動を行い、政治的にも発言力を高めるという「アイリッシュ戦略」を採用してのし上がってきた、ということができます。

それにしても、19世紀後半のハワイ王国の運命を振り返ると、おそらく世界の人類の歴史上最大の激動期であったこの頃、日本で幕末に攘夷運動が盛んであったというのが無理からぬこと、と思えてきます。幕末を舞台にした時代劇を見ていると、現代から振り返って、単に「古い鎖国という枠組みを墨守しようとする頭の固い人たち」のように思えていましたが、もしもハワイのようにアメリカ人がどんどん入植して、軍隊を派遣して住民を奴隷化し、どんどん土地を取り上げてお得意の土地投機をやっていたら・・と考えると、攘夷派の立場も理解できます。そして、攘夷派との内部対立の中で開国派が理論武装し、開国後に問答無用で「富国強兵」をバリバリやったことで、日本は今のように生き残ってきたのだなー、と思います。

もちろん、現代のハワイは、アメリカの一つの州としての恩恵もたくさん受けており、何が良かったか悪かったかは一概には言えませんが。

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日系移民のサトウキビ労働者像(移民100周年時にマウイ島に建てられたもの)

出典: Wikipedia

ベイエリアの歴史(31) - 悲劇のハワイ王家と明治天皇

(9)で書いたように、1869年にカリフォルニアにやって来て「ワカマツ・ファーム」を拓いた旧会津藩士グループがいましたが、その前年ハワイにも、同様にオランダ系アメリカ人商人が率いた約150人の日本移民(「元年者」と呼ばれた)が到着しました。どちらのグループも、明治政府に認められていない立場でした。そしてその頃のハワイは独立国で、まだアメリカの一部ではありませんでした。

年季奉公契約だった元年者は一部が数年で帰国、数十人がそのままハワイに定住しましたが、その後明治政府はしばらくの間、日本からハワイへの移民を停止していました。当時の明治政府は、不平等条約改正が至上命令であり、そのために日本国の「国家ブランド」づくりに躍起でした。一方で、前回(30)に書いたような中国系アメリカ移民の惨状は情報としてはいっており、「日本国民をそんな目に合わせたくない」というか、「ハワイで日本人がこんなみっともない状態になったら、国家としての威信に関わる」というか、そんなことだったのではないかと思います。

当時は、1795年にハワイ王国を建国したカメハメハ一世(大王)の直系が途絶え、傍系のカラカウア王の治世でした。ハワイの王様は短命の人が多く、100年の歴史の間に王様が8代います。当時のハワイにはアメリカから伝統芸「土地投機」の人たちがどんどんやってきていました。土地所有という概念のなかったハワイ人を押しのけ、彼らのタロイモ畑をサトウキビのプランテーションに変えて、砂糖をアメリカに売って儲けておりました。アメリカからの入植者たちは、ハワイ人を蔑み、宗教や文化の面でもアメリカ流をがんがん推進しており、歴代の王様でも、そうしたアメリカ人を受け入れようとする人と排除しようとする人が両方あって、政策は揺れ動いていました。また日本の幕末と同じように、欧米人同士が競争で勢力拡張を図っていたので、アメリカ人入植者はなんとかハワイをアメリカに併合しようと画策します。

そんな中、比較的治世の長かったカラカウア王は、なんとかハワイの独立を守ろうと考え、アメリカのグラント大統領と会って貿易交渉を行ったり、少し前に禁止されていたフラを復活させたりしていました。とはいっても、当時のハワイの国力でアメリカと戦って勝てるはずもないため、外交的な打開策を見出すべく、アジアからインドを経てヨーロッパ各国を周り、アメリカ経由で戻るという世界一周の旅に出ます。太平洋地域の国を糾合してアメリカに対抗する、という構想をもっていた彼は、とりわけ日本に期待をもっていたようです。日本はハワイと同じように島国で、王政であり、欧米列強からのプレッシャーを受けながらも改革を実行し、独立を維持していました。

1881年に日本にやってきたカラカウア王は、日本から見ると、史上初の外国の元首の来訪でした。ドナルド・キーン著「明治天皇」では、天皇がそのとき、外交や政治の文脈を超えて、王の訪日を喜び、心から歓待していた様子が伺えます。ヨーロッパの王家どうしのコミュニティには相手にされず、国内では立場上誰に対してもなかなか打ち解けることができなかった明治天皇にとって、カラカウア王はまさに、心強い同じ立場の仲間と思えたのでしょう。

王は、上記のような「連合構想」とともに、王の姪であるカイウラニ王女(当時5歳)と、日本の皇族、東伏見宮依仁親王(当時13歳)との縁談を明治天皇に持ちかけましたが、明治政府はどちらも断ってしまいます。ただ、その際に、日本からの移民をハワイで受け入れるという点については合意され、1885年からハワイへのオフィシャルな移民が始まります。

しかし、カラカウア王とハワイ王国はその後、悲しい運命をたどります。アメリカ人入植者からのプレッシャーで、不本意な内容の憲法を受け入れさせられ、その憲法では参政権が一定以上の資産・収入のあるアメリカ人に有利であり、ハワイ人やアジア系移民は事実上排除されてしまいます。王党派とアメリカ人の板挟みの中で、かつては「メリー・モナーク(陽気な王様)」とあだ名された王はアルコール依存症となり、1891年に療養先のサンフランシスコで崩御。後を継いだのは、彼の妹リリウオカラニ女王でしたが、1893年にアメリカ人主導のクーデターが起き、女王はカラカウア王が建てたイオラニ宮殿に幽閉され、王国は滅亡します。このとき、日本は邦人保護の名目で東郷平八郎率いる海軍をハワイに派遣して、王家に味方する姿勢を見せています。

アメリカ人たちはハワイ共和国を宣言しますが、その後王党派の反乱などを経て、1898年にはアメリカに併合され準州となりました。1898年といえば、米西戦争でアメリカが落日のスペインの棺の蓋に釘を打った年で、アジアでスペインの植民地だったフィリピンをアメリカが獲得したため、太平洋の補給基地としてのハワイの重要性が高まっていたという背景もあります。

日本の皇族初の国際結婚が幻となったカイウラニ王女は、リリウオカラニ女王の王位後継者と指名されていました。ハワイ王家の女性を母に、スコットランド人を父にもつ王女は、知性が高く美貌で、国民の人気も高かったと言われます。王国滅亡のとき、アメリカ海軍の封鎖によりハワイからは誰も出られなかったため、まだ17歳だった王女が留学先のイギリスからたった一人でアメリカに渡り、クーデターの不当を当時のクリーブランド大統領に訴え、調査実行の約束を取り付けます。「島の野蛮人」だと思っていたハワイの王女が、実はとても優れた美しい女性だったことに当時のアメリカのメディアは驚いたようで、写真がたくさん残っています。

しかし、その甲斐なくハワイはアメリカに併合され、1897年にハワイに戻ったあと、1899年にカイウラニ王女は23歳の若さで病気で亡くなりました。最後の女王リリウオカラニはその後1917年まで、ハワイ人の尊敬を受けて生き延びました。リリウオカラニ女王は「アロハ・オエ」の作者として知られており、また、カイウラニ王女は2009年「プリンセス・カイウラニ」という映画になっています。

日本とハワイの間の合意で実施されていた官製移民は、ハワイ王国が滅亡した1893年で終わり、その後は民間人仲介として移民が続きましたが、これもアメリカ併合後の1900年に中止となりました。

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カイウラニ王女

出典: Wikipedia、ドナルド・キーン「明治天皇」The Princess Kaiulani Project

ベイエリアの歴史(19) – 日系アメリカ人の戦い

マンサナー収容所 つらい話が続きますが、日系人収容所についてもう一回。

このとき「除外区域からの退去」を義務付けられたのは、「1/16まで」、つまり曾祖父母の中に一人日本人がいる者までが対象でした。よくもそんなところまで調べたものです。

全米10ヶ所のうち、人数で最大のものはカリフォルニア州トゥール・レイク(オレゴンとの州境)で、最大19,000人が収容されていました。ちなみに、現在のトゥール・レイクの町の人口は1000人です。そして、カリフォルニア州にあったもう一つのものが、有名なマンサナー(中央平原のシエラネバダに近いあたり)です。収容人数は最大11,000人ほどで、10ヶ所の中では中ぐらいの規模でしたが、写真を含む記録が最もよく残っているために、日系人収容所に関する資料としてマンサナーが使われることが多くなっています。マンサナーは、どうやら現在は「町」としては消滅しているようです。(アメリカでは、「郵便局の有無」により町として住所に記載されるかどうかが決まります。マンサナーの郵便局は1914年にすでに閉鎖されていました。)ちなみに、一番小さかった収容所はコロラド州グラナダで、7,300人でした。

収容所といっても、例えばナチのユダヤ人収容所のようなひどい扱いがあったわけではなく、収容所の中では家族単位での普通の暮らしが行われていました。ただ普通とはいえ、建物はすべて急ごしらえのバラックで、敷地から出ることは許されず、監視の兵士の銃口が常に内側に向けられていました。日本ほどではないとはいえ、戦時のため食料は不足気味の時期で、収容者たちは敷地内の荒れ地を開墾して、野菜などを作っていました。砂漠の中でもなんとか灌漑をうまくやっていたようで、「武士の農法」の面目躍如です。1万人もいれば、その中に大工や医者も教師もいたわけで、かなり「自給自足のコミュニティ」であったと思われます。

外からの情報が遮断されていたことにより、収容者は精神的に不安定な状況に追いやられました。収容所では、「米国に忠誠を誓って日本の天皇を相手に戦う意思があるか」という踏み絵のような調査票を書かされましたが、これにどう答えたらどういうことになるのか、という判断がつかず、混乱が生じました。多くの人はYES、米国に忠誠を誓う、という答を書きましたが、当時は差別的な法律により、日系移民一世は米国国籍を取ることができなかったため、日本の国籍を捨てても米国国籍が取れる保証がなく、YESと書けなかった人達もいました。いつここから出られるのか、一生出られないのか、という不安もあり、収容所の中でYES派とNO派の間での軋轢もありました。こうした分裂が、戦後もかなり日系人コミュニティに傷を残しました。

現在残るマンサナー収容所の写真の多くは、Toyo Miyatakeという日系人写真家の手によるものです。彼は収容の際にレンズとフィルムを隠し持ってはいり、手作りでカメラを作って収容所の写真を撮りました。最初は隠れて撮っていて、収容所長に見つかったのですが、最終的には所長も写真撮影を許可しました。

終戦後、収容所は閉鎖され日系人たちは元の住まいに戻りましたが、資産は奪われており、厳しい差別が残る中でゼロからの再出発となりました。

現在、サンノゼ空港の名前となっている政治家のノーマン・ミネタは、幼少時にワイオミングにあった収容所で暮らしました。当時、日系人は政治的に影響を持っていなかったために、このような差別的な法律がまかり通ってしまったので、戦後日系人は議員を州議会や連邦議会に送り込んで活動しています。また、ロックグループ「フォート・マイナー」のマイク・シノダは、「ケンジ」という曲で彼の家族のマンサナー体験を歌っています。

Go for Broke

第二次世界大戦中の日系人の悲劇としてもう一つ有名なものが、「442連隊戦闘団 The 442nd Regimental Combat Team」です。少数の指揮官を除く大半が日系人志願兵で構成された部隊でした。(この他に、第百歩兵大隊というものもありました。)

米国政府側としては、日本との駆け引きの一つとして「米国人として戦う日系人」部隊を作ろうという動機があったようで、一方志願兵たちは、「自分が米国に忠誠を誓うことで、家族や日系人に対する差別的環境から救いたい」と考えていました。多くはハワイからの志願兵で、ハワイでは定員1500人に対し、6倍以上の志願があり、定員をさらに1000人増やしたとされています。カリフォルニアなどの収容所からも、800人ほどが志願しました。

442連隊はヨーロッパの最前線に送り込まれ、イタリア・フランスを転戦して数々の戦功を挙げます。そして1944年10月、ドイツとの国境に近いフランス東部で、テキサス出身の隊がドイツ軍に包囲されているのを救出する命令が出ました。戦況は厳しく、ほとんど実行不可能と思われた作戦でしたが、442部隊はドイツ軍がボージュの森で待ち構えているところを血路を開いて強行突破し、ついにテキサス隊救出に成功しました。テキサス隊の211人を助けるために、442部隊は216人が戦死し、600人以上が手足を失うなどの重傷を負いました。

442部隊は、欧州戦線での全戦闘期間中、のべ死傷者率は31%であったとされます。日系アメリカ人が「武士的」であるという、最も大きな象徴です。

この部隊は、テキサス隊以外でも、ローマ攻略やダッハウのユダヤ人収容所の解放など、種々の戦功を挙げており、アメリカ合衆国史上最も多くの勲章を受けたとして知られていますが、「日系人差別」から、戦功の一部は公表されなかったり、勲章もあえて低い位のものを与えられたりしていました。後の日系人自身による名誉回復の努力により、勲功が事後アップグレードされた例が多くあります。

この部隊のモットーは「Go for broke」というもので、ハワイで賭け事をするときに有り金全部をかけて勝負を張るときの「当たって砕けろ」的な口語表現でした。テキサス隊の事件は何度か映画化されており、1951年のものがこのタイトルでした。私は2006年のインディ映画「Only the Brave(邦題:ザ・ブレイブ・ウォー)」の監督・主演レーン・ニシカワが資金調達のためにやっていた試写会に行ったことがあります。彼は自身の足でベイエリアや南カリフォルニアをまわり、主に日系人を対象に試写会をして資金を集めていました。もともとニシカワ氏が舞台出身で、なおかつ低予算ですので、スペクタクルもCGもなく、舞台的な映画でしたが、それがかえって市街戦や暗い森の中での緊張をリアルに表現していて、とても印象に残っています。そんな低予算でありながら、パット・モリタやジェイソン・スコット・リーなど大物日系・アジア系俳優が出てくれて、製作スタッフも日系を中心とするアジア系が手弁当で結集した、ということを、ニシカワ監督が挨拶で語っていました。

日系人の「戦い」は、いろいろな分野で今も続いているのですね。

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、IMDb、Only The Braveウェブサイト

ベイエリアの歴史(18) – カリフォルニアにとっての日本との戦争

日系人強制収容 日本との戦争が始まると、カリフォルニアでは日系米国人の強制収容という事態が起こりました。1941年12月に真珠湾攻撃があり、翌年3月には最初の収容所がオープンしたので、なんとも手際がよいのに驚きますが、それには伏線があります。

日本人のアメリカへの移住は、20世紀にはいってから人種差別の激化とともに徐々にいろいろな制限が増え、1924年には一部の例外を除き、日本人のアメリカへの移住は禁止されます。この年の移住制限は、日本人だけでなく、東欧や中国なども対象であり、「大恐慌」前で表面上は景気がまだ良い時期だったはずですが、水面下では「職の奪い合い」が始まっていたのかもしれません。

1930年代にはいると、日本の中国・東南アジアへの進出が始まり、欧州でも戦争の気配が強まって、1936年にルーズヴェルト大統領は、いざというとにきドイツ系・イタリア系・日系という「敵性国民」を収容所に入れられるよう、リストアップを開始しました。そして本当に開戦となり、1942年2月に「大統領令9066号」に署名して、すみやかに収容が始まりました。

開戦直後はそういうわけで、カリフォルニアの日系人だけでなく、東部のドイツ・イタリア系も収容されたのですが、こちらは危険がないと見なされ短期間で解放されます。また、ハワイには15万人ぐらいの日系人がいましたが、これはハワイの全人口の1/3にあたり、そんなに収容したら経済が止まってしまう上に、それだけの規模の収容所を作って運営することが財政的にも不可能だったため、1,200~1,800人程度の収容で済んでしまいました。しかし、カリフォルニアの日系人は中途半端に少数派であったため、収容の憂き目に会います。当時、アメリカ本土には127,000人の日系人がおり、そのうち112,000人が西海岸(大半がカリフォルニア)に住んでいました。収容された人数は11~12万人だったとされているので、つまり本土の日系人はほとんど根こそぎ収容所に入れられてしまったということになります。

収容といっても、正確には「海岸線から160kmぐらいまでの『除外区域』からの退去を命じる」というのが法律の文言でした。多くの日系人は海岸沿いに住んでおり、一部は自発的に除外区域から引っ越したのですが、同時に資産凍結も行われたために、引っ越す費用もなく動けずにいたら、行き先を用意して連れてってやると強制された、という恰好です。このため、正式名称は「戦時移住局センター」(Wartime Relocation Authority Centers)であり、カリフォルニア内陸部、アリゾナ、コロラド、ユタ、ワイオミング、アーカンソーに10ヶ所設置され、いずれも人里離れた砂漠や荒野にありました。日系人は、身の回りの荷物だけを持って連行され、家も、農園や商店などの事業資産も、すべて失ってしまいました。

平和ボケ・カリフォルニア人のパニック

ドイツ系やイタリア系はお咎め無しで、日系人だけが大規模に収容されたのは、「アジア人種を差別していたから」だと思っていましたが、こうしてカリフォルニアの歴史を見てくると、どうもそれだけではないような気がします。「アメリカ連邦政府」の意図に加え、「カリフォルニアの特殊事情」も加わっているのです。

まず、アメリカが自らの動機で戦っていた相手は、日本だけでした。ドイツとイタリアは、欧州の同盟国が交戦していたために参戦しましたが、アメリカは当初欧州への介入にはあまり積極的ではありませんでした。

それから、カリフォルニアでは、強力な競争相手である日系農家を潰したい白人農家とか、どさくさにまぎれて日系人の土地を安く買い叩いて儲けたい土地投機屋とか、日系人を叩くと得をする人達が多くいました。「土地投機」の伝統がここでも発揮されます。

そしてもう一つは、日本からの視点では想像もしていなかった、「カリフォルニア人は、本気で日本軍がカリフォルニアまで攻めてくると思って恐怖におののいていた」という点です。

日本の敗戦話ばかり聞いて育った私からすると、ボロボロの日本軍がはるか遠くの金満アメリカ本土を攻撃するなど、「風船爆弾」並のありえない話に思えるのですが、開戦当初は日本軍は破竹の勢いでアジアと太平洋で勝ち続け、実際にアメリカの太平洋岸には日本の潜水艦が出没して、石油設備や商用船を攻撃していました。それを言ったら、東海岸でもドイツのUボートが出没していましたが、第一次世界大戦でも戦って多少は手の内を知っているドイツと比べ、よくわからない日本は突如やってきて、これまで一度も外国に自分の領土を侵略されたことのない自分たちをホントに爆撃しやがったのです。それに加え、太平洋戦争は「石油資源をめぐる戦い」であったことを考え併せると、アメリカ国内での石油生産の主力であったカリフォルニアに「日本がアブラを取りに来る」と考える向きもあったかもしれません。

アメリカ全体からみると、カリフォルニアは国土に組み入れられてからまだ100年もたっておらず、本格的な防衛体制もない手薄な場所でした。独立戦争も南北戦争も無関係で、外国との本格的な戦争ももちろんまったく経験がない、能天気な土地でした。

そんな平和ボケのカリフォルニア人がパニックに陥り、ずっと続いてきた差別の火に油を注いだ、と考えると納得がいきます。北のカナダ国境から南のメキシコ国境まで、海岸沿いを縦にスライスするような「除外区域」の境界線を見ると、住民は本気で「海からの攻撃」におののいていたということかなぁ、という想像が浮かびます。

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、 山川世界史総合図録、山川日本史総合図録

ベイエリアの歴史(9) – 日本との遭遇

縦の鉄道と農業ブーム レランド・スタンフォードたちの鉄道は、「横」だけでなく「縦」にも敷設されました。東のシエラネバダ山脈と西の海岸に沿った低い山脈の間に、サン・ホアキン・バレーとよばれる漠々たる平原が縦に広がっていますが、その真中をつっきる形で南北にも線路が敷かれ、ここも現在でもアムトラック鉄道が営業しています。

これらの鉄道を使って、カリフォルニアの農産物を遠隔地に運ぶことができるようになって市場が広がったおかげで、1860年代以降、中央平原で農業が大発展します。この頃、氷を乗せた冷蔵輸送車両も登場しました。

最大の産品は、ランチョ時代からの伝統のある牛関係、つまり牛乳・乳製品やビーフでした。乾燥して日照の多い気候を利用して、ぶどうやオレンジなどのフルーツ、アーモンドやくるみなどのナッツ類、穀物も栽培されるようになりました。

カリフォルニアといえば、テクノロジーと映画かと思えばさにあらず、現在でもカリフォルニア州は農業の売上額で全米第一位です。現在の売上トップ5品目は、乳製品、ぶどう、アーモンド、植木苗、牛となっています。南北を貫く鉄道沿いには州道99号線という道路があり、穀物エレベーター、配送センター、大型農機具ディーラーなどが立ち並ぶ、農業のメインストリートとなっています。縦横の鉄道が交差するサクラメントの郊外には、農業技術研究のメッカとして知られるカリフォルニア大学デイヴィス校(UC Davis)があります。西側の山脈近くを99号線とほぼ並行して走る高速5号線をとおって、ベイエリアからロサンゼルスに向かうと、見渡す限りの果樹園が3時間ほど続き、途中には黒い牛の群れが視界の限り地を埋め尽くしている牛の集積場もあります。

会津武士が拓いた農場

そこで農業労働者が必要となりました。ゴールドラッシュと鉄道敷設のための人の流入が一段落した後、今度は農業移民がカリフォルニアへ向かう人の流れの中心となります。1900年頃からは、メキシコ革命の混乱で押し出されたメキシコからの移民が大量にやってきますが、その前の時期に日本から初めての移民が北カリフォルニアにやってきました。

それまでも、漂流して救助された漁民や、咸臨丸などでカリフォルニアにやってきた日本人はいましたが、移民としては1869年が最初です。彼らも、農業ブームの一角を形成した、農業移民でした。

戊辰の戦いで落城した会津若松から、一群の人達が会津藩の親戚筋であった新潟に逃れました。彼らはそこで、会津藩出入りの武器商人だったジョン・ヘンリー・シュネルと出会い、彼の主導でカリフォルニアにやってきます。武士、農民、大工などを含む40人ほどの移民団は、船でサンフランシスコから川沿いにサクラメントに至り、さらに北東の山にはいって、最初に金が発見されたあたりに近いゴールドヒルというところに落ち着きます。シュネルはそこで土地を購入し、一行は当時アメリカでも人気の日本産品であった、絹と茶を生産しようと試みます。この農場は、「若松コロニー」と名付けられました。

しかし、カリフォルニアの乾燥した気候では、桑も茶も育ちませんでした。誇り高き会津の名をアメリカで再興しようと頑張ったコロニーの人達も、生活の苦しさから、手に職を持って他でも仕事に就ける人から順に、櫛の歯が欠けるように徐々に離れていきました。「投資家」であったシュネルも金策のため日本に向かったまま行方不明となり、土地を購入した借金を返せなくなって、1871年にコロニーは倒産し、崩壊してしまいます。

一行のリーダー格であった旧会津藩の武士、桜井松之介は、最後に一人踏みとどまり、倒産したコロニーを買い取ってくれたビアカンプ家に恩を返すべく、執事として生涯仕えました。(シュネルは出自がはっきりしませんが、オランダ系と言われているようです。ビアカンプという名もオランダ系で、その周辺はオランダ系移民の多い地域だったのかもしれません。)いかにも会津武士らしい一生です。若松コロニーの跡地は現在は史跡として保護されており、会津藩(=徳川家)の葵紋がシンボルとなっています。

当時日本からアメリカへの移民は、ハワイが中心であり、カリフォルニアへの移民はその後しばらくは、ほそぼそと続いていきました。

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、 California Department of Food and AgricultureWakamatsu Tea and Silk Colony Farm若松コロニーとシュネル