同じ日系移民でも、ハワイとカリフォルニアではいろいろと事情が異なります。前回見たように、ハワイでは日系移民の開始が、ハワイ王党派の政治的事情にかなり影響されており、その後の事情もあって、もともと少なかったハワイの人口に比べて日系人の人口比率が大きい、という点が種々の違いの根源になっています。
明治政府とハワイ王国との取り決めで実施された移民プログラムは「官約移民」と呼ばれました。ところが、これをハワイ側として取り仕切っていたのはアメリカ人のロバート・W・アーウィンという人物でした。何らかの理由で空席になった在日ハワイ王国領事になぜかアメリカ人なのに就任してしまい、井上馨など政府大物と仲良くし、三井物産会社を使って集めた移民をハワイに送り込み、その手数料を日本とハワイ両方から受け取って大儲けしておりました。要するに、超ありがちな利権商売・人身売買商売です。
中国系のケースと同じように、日本国内では「ハワイに行ったら大儲けできる」という甘言で人を集めましたが、実際にはお決まりの「年季奉公契約=事実上の奴隷」でした。当時のハワイの法律(=アメリカ人プランテーション主に有利)では、年季契約を途中で解約することができず、過酷な労働をわずかな給料で強いられました。
1894年には、アーウィンは手を引き(ハワイ王国滅亡時でもあり、アーウィンと政府または三井との契約交渉決裂との話もあり)、民間が行う「私約移民」に移行して、移民から本国への送金サービスも含めた移民サービスの民間会社がいくつも設立されて繁栄しました。
その後ハワイはアメリカに併合されてアメリカの法律が及ぶようになり、1908年には一部を除き、新たな日本からの移民はストップします。このあたりの経緯はのちほどカリフォルニアの話と一緒に書く予定です。
官民あわせ、1908年までで合計22万人が日本からハワイに移民しました。例えばアイルランドの700万人と比べれば、ぜんぜん少ない人数ではあります。しかし、もともとハワイは全体の人口が少なく、また中国からの移民は定着率が悪いなどの理由で制限された一方、日本人は定着して家族を増やしていき、移民グループの中で最大となって、最盛期の1920年には全人口のなんと43%、現在でも17%が日系人となっています。
1902年時点で、サトウキビ農場労働者の70%が日系人でした。マイノリティといえど、これだけ地域的に数が集中すれば、当時力を持ちつつあった思想、「社会主義/労働争議/階級闘争」戦略を採用することができます。農場での給料を上げるため、日系移民たちは頻繁にストライキを起こし、1920年には他国からの移民も巻き込んだ大規模なストライキに発展。給与は上がりましたが、日系人の多くが農場を去ることになり、また日系人への反感を高める結果ともなりました。
それでも、民主主義国ではやはり数が勝負。1959年にハワイが州に昇格した際、最初のハワイ選出下院議員としてダニエル・イノウエが当選して、アメリカ初のアジア系(もちろん日系としても初)国会議員となりました。その後も、1965年にパッツィー・ミンクが初の非白人女性議員、1974年ジョージ・アリヨシが初の日系州知事となるなど、ハワイは民主党日系議員の政治的活躍の本拠地となります。文化的にも、アイリッシュ=カトリックほど統一性はなかったものの、仏教をハワイに持ち込んで日本の行事や食べ物も伝えており、「日本人」のアイデンティティを軸として数を集め、労働運動を行い、政治的にも発言力を高めるという「アイリッシュ戦略」を採用してのし上がってきた、ということができます。
それにしても、19世紀後半のハワイ王国の運命を振り返ると、おそらく世界の人類の歴史上最大の激動期であったこの頃、日本で幕末に攘夷運動が盛んであったというのが無理からぬこと、と思えてきます。幕末を舞台にした時代劇を見ていると、現代から振り返って、単に「古い鎖国という枠組みを墨守しようとする頭の固い人たち」のように思えていましたが、もしもハワイのようにアメリカ人がどんどん入植して、軍隊を派遣して住民を奴隷化し、どんどん土地を取り上げてお得意の土地投機をやっていたら・・と考えると、攘夷派の立場も理解できます。そして、攘夷派との内部対立の中で開国派が理論武装し、開国後に問答無用で「富国強兵」をバリバリやったことで、日本は今のように生き残ってきたのだなー、と思います。
もちろん、現代のハワイは、アメリカの一つの州としての恩恵もたくさん受けており、何が良かったか悪かったかは一概には言えませんが。
日系移民のサトウキビ労働者像(移民100周年時にマウイ島に建てられたもの)
出典: Wikipedia