ベイエリアの歴史(3) – ミッションと都市のはじまり

失われた167年 16世紀半ばに「発見」されたカリフォルニアですが、その後何度かスペインとイギリスの船が探検したにもかかわらず、結局なんと167年にわたって放置されます。当時のヨーロッパ人にとってのカリフォルニアの価値は、あくまでも「アジアへのルート」であり、「アジアとの船の行き来に使える寄港地があればいいなー、と思って探検したけれど、どこも波が荒くて使えねーなー」という結論に達したからです。1545年に南米で銀山が発見され、スペインは相変わらず銀を左から右に運ぶ「アービトラージ経済」に精を出し、カリフォルニアのことなど忘れていました。

167年も経てば、世の中は大きく変わります。その年、1768年といえば、日本では江戸時代もすでに中期、8代将軍徳川吉宗の治世も終わり、田沼意次が側用人になった翌年です。ヨーロッパでは、1588年アルマダの海戦で無敵艦隊がイギリスに敗れてから、スペインは長い衰退期にはいっています。その後ヨーロッパのリーダーは、ようやくヨーロッパに登場した「世界的に流通する価値ある商品」である「毛織物」を、自分たちの手で作る「メイカー的」人達、すなわち、オランダ、イギリスへと移っていきます。北アメリカ東部では、イギリス、オランダ、フランスなどが競って植民地を建設しました。当初は動物をとって毛皮にする、といった「アービトラージ」商売むけの「収奪地」としての役割でしたが、アメリカ東部に農業が定着して人口が増えるにつれ、今度はヨーロッパで作った毛織物や紅茶などの産品を売るための「キャプティブ・マーケット」としての役割が増大していきます。植民地がそこそこ豊かになれば、税金もたくさん取れるようになります。つまり、植民地経営のスタイルは、次の時代に移ってしまったのです。

そんな中、落ち目スペインの出先、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)では、太平洋をわたってカリフォルニアにロシア人が散発的にやってくるようになったため、ようやく「カリフォルニアを確保しておかないと、だれかに取られちゃうかも」という危機感をおぼえ始めます。そこでまた、ホセ・デ・ガルベスというアントレプレナーが登場し、副王を説得し許可を得て、カリフォルニアの「植民地化」に乗り出します。彼がとった手法は、スペインから来ていたフランシスコ修道会の宣教師、フニペロ・セラ(Junipero Serra、高速280号にあるあの像の人)と一緒に出かけ、カトリックの布教とセットで住民を取り込んでいく、というもの。これって日本にザビエルが来たころと同じ、絶望的に古臭いやり方だと思うのですが、まぁそこはやはり落ち目の国ですね・・・

ミッションの建設

とはいえ、ご本人たちは「使命(ミッション)」に燃える男たちです。ガルベスは「スペイン王国の領土を拡大して祖国に再び栄光を」、セラは「ネイティブ・アメリカンに神様を教えてあげて一緒に天国へ(「魂の収穫」)」という、それぞれの使命を心から信じておりました。そして翌1769年、宣教師・水夫・兵士・料理人・大工など、300人近いメンバーを海陸二手に分け、ガスパル・デ・ポルトラというスペイン海軍指揮官をトップとする一行はメキシコを出発しました。いつものように苦難の旅の末サンディエゴに到着し、そこに最初のミッションを建設します。

ミッションといえば、カリフォルニア州で子供が小学4年生を経験したことのある方なら、「げげっ」と思われるはず。日本で小学1年生がみんな朝顔を育てるように、ベイエリア近辺では、小学4年生はみんな、社会科の宿題で「ミッション・プロジェクト」をやらされます。ボール紙などでミッションの模型を作り、近くのミッションを訪問してパンフレットにスタンプを押してもらい、レポートとともに提出する、というもので、親も模型作りを手伝ったりミッションに連れていったりと、なかなか大変な宿題です。

それだけ、ミッションというのはカリフォルニアの歴史において重大な事象であったわけです。

スペイン・チームは、カリフォルニアの海岸線沿いに合計21のミッションを建設していきました。水源確保のため、原住民の居住地近くを選びました。これらは「エル・カミノ・レアル(王の道)」でつながれ、一つのミッションから次まではほぼ1日かけて歩く距離です。周辺には、ミッションを防衛するための要塞(プレシディオ)や、ミッションに食料を供給するための村(プエブロ)もいくつか置かれました。同じ形式のミッションを規則的にチェーン展開し、システマチックに事業を進めていきました。

ミッションは、普通の教会とは違います。「教会」の部分もありますが、それに加えて宣教師たちが生活する「居住部分」と、穀物畑、家畜の飼育場、機織り場、陶器工房などもそなえた、自給自足のできる「キャンパス」のようなものです。宣教師だけでなく、近くの原住民も連れて来て一緒に住み、神様のお話だけでなく、農耕やヨーロッパの技術、生活様式、文字などを教えることになっていました。ただ、実際にはカリフォルニアのミッションは、いずれも完全には自給自足ができず、スペインからの資金援助が必要な状態がずっと続きました。

それ以前のカリフォルニアにいた原住民は、諸説ありますが30万人ぐらいであったと推測されています。おもに狩猟採集経済であり、組織だった農耕がなかったため、多くの部族にわかれたままで、都市を形成していませんでした。そこにやってきたミッションでは、大きいものでは数千人が居住しており、定住して農耕を行う生活スタイルと、それに伴う「都市」がここに誕生したのです。スペイン語で聖人の名がつけられたこれらのミッションやプエブロが、現在のカリフォルニアの主要都市の多くの源流となり、現在の高速101号線は「王の道」をほぼなぞっています。

サンフランシスコの誕生

サンフランシスコ(聖フランシスコ)にミッションが置かれたのは1776年のことで、少々変な言い方ですが、東部ではアメリカ合衆国が独立した年です。(この時、カリフォルニアはまだ「アメリカ合衆国」の一部ではありません。)ミッションでは、物資をかなりメキシコからの補給に頼っており、海路は引き続き重要でした。そのためか、港に適したサンフランシスコ湾付近には数多くのミッションが集中しています。ベイエリア周辺には、北からソノマ、サン・ラファエル、サン・フランシスコ、サンタ・クララ、サン・ノゼ、サンタ・クルーズといったミッションがあります。ちなみに、ロス・アンジェルス(天使たち)はプエブロ、サンタ・バーバラやサン・ルイス・オビスポなどはミッションがもとになっています。

宣教師の方針によっては、原住民と平和共存できることもありましたが、どちらかといえば彼らの「上から目線」のやり方が原住民にとっては悲劇となることのほうが多く、家からむりやりさらわれてミッションに連れていかれたり、逃亡を企てた住民がリンチされたり、ヨーロッパからはいってきた病原菌に感染して死んだり、といったことが頻発しました。そのため、住民が反乱を起こし、宣教師を殺してミッションを焼き討ちするといった事件もありました。スペインがメキシコを植民地化した際にも同じスタイルをとり、メキシコではすでにかなり文明が進んでいたために比較的穏便に住民の教化が進んだようですが、カリフォルニアでは戦いが続きました。

そんな混乱した「ミッション時代」が約50年ほど続き、とにもかくにもカリフォルニアのかなりの部分が「スペイン領」となりました。

まるっきり余談ですが、サンタ・クララ・ミッションの名前となった「アッシジの聖クララ」は、13世紀イタリアの修道女で、アッシジの聖フランシスコの最初の弟子でした。(アッシジの聖フランシスコは、「サンフランシスコ」の名にもなり、フニペロ・セラの属するフランシスコ修道会を始めた、カトリック業界でも屈指の有名人です。)カトリックは一神教ではありますが、日本のような八百万の神の代わりに、いろいろなモノの「守護聖人」が割り当てられており、この聖クララは、1958年教皇ピウス12世によってなんと「テレビと電話の守護聖人」と指定されています。彼女が病気で起き上がれずミサに預かれなくなった折、彼女の部屋の壁にミサの様子が映しだされ、音声が聞こえたとされるためです。(ネタじゃありません。教会でもらった「カトリック聖人カレンダー」にちゃんと書いてありました。)現在、ミッションの名前を受け継いだ「サンタ・クララ郡」はシリコンバレーの中心地ですが、決して偶然では・・いやいや、やはり偶然でしょう。今なら、さしずめユーチューブの守護聖人か、リアルタイム・ストリーミングだからユーストリーム、にでもなるのでしょうか・・?

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、山川世界史総合図録、山川日本史総合図録、カトリック聖人カレンダー

ベイエリアの歴史(2) – 新大陸における「起業あるある」

コロンブスの野望 話が少し戻ります。この時代、新大陸を目指した人々の多くは、これほどの航海の危険を冒し、何が出るかもわからない土地へと、どうしてノコノコと出かけていったのか、ということを考えてみます。

当然のことながら、某マンガのように「海賊王になるぞー!」などという夢で出かけていったわけではなく、欲得づくなわけですが、その欲得をもうちょっと詳しく見てみましょう。

西ローマ帝国滅亡後のヨーロッパは、北からはゲルマン人が侵攻して「暗黒の中世」に突入しました。その頃数百年にわたり、南からはイスラム教徒がイタリアを中心に地中海沿岸を略奪し、キリスト教徒を奴隷として大量に誘拐を繰り返し、その後イタリアでは長いこと統一国家が出現しませんでした。暗黒の時代の間に、略奪に対抗できる海軍力をじっとガマンで蓄えたイタリア都市国家がいくつかあり、それらは十字軍でヨーロッパから東へと向かうルートが開通すると、通商で栄えるようになります。

代表的なのがヴェネツィアです。異民族の侵略から逃れるため、町を水で囲むどころか、水の中に町を作ってしまったので、そもそも「土地」というものがなく、農業も鉱業もできず、資源はゼロ。商業にしか生きる道がないので、元首(ドージェ)を中心にした鉄壁の寡頭制政治で「選択と集中」を行い、海軍力を増強し、組織的に船乗りを育ててのし上がりました。そのライバルはジェノヴァでしたが、こちらはヴェネツィアと比べて何かとユルく、主力貴族間の内輪もめも多かったそうです。

アメリカ大陸に初めて到達したヨーロッパ人であるクリストファー・コロンブスは、この何かとユルいジェノヴァの人でした。縁あってポルトガルのリスボンに移り住み、そこで「西回り航路」というアイディアを着想します。ライバルの鉄壁ヴェネツィアが立ちふさがり、オスマン・トルコとの血で血を洗う抗争が続く、文字通りの「レッド・オーシャン」である地中海+シルクロード・ルートを避け、大西洋から逆周りでアジアに達する「ブルー・オーシャン」を目指そうというわけです。その発想には、プトレマイオスやマルコ・ポーロなどの著作の他、漂流経験者の証言など、いくつかの根拠があったようです。でも、彼にはそんな航海を実行するだけのお金がありません。そこで「ピコーン!ヴェネツィアに勝ちたい新興勢力にお金を出してもらえばいいじゃん!」ということで、最初にポルトガル王に対し、弁舌さわやかに「西回り航路」のメリットをプレゼンテーションして「出資」を交渉しますが、断られてしまいます。そこで次はお隣のスペインのイサベル一世に出資交渉に行き、そこで女王が彼を気に入って「エンジェル投資家」となり、彼は晴れてアメリカ大陸への渡航を果たします。コロンブスは、発見した土地からのあがりで大金持ちになる予定でしたが、植民地の統治に失敗して、最終的にはイサベル女王にも見捨てられた寂しい晩年を送ることになります。植民地は結局スペインのものとなり、時代が地中海から大西洋へと移るとともにジェノヴァもヴェネツィアも没落してしまいます。

事業と投資の分離

経営の観点からすると、すでにこの時点で、事業のアイディアを持つ「アントレプレナー」と「出資者」が分離していた点が注目されます。最初にスタートアップするまではいいが、growth managementに失敗して没落するところも、最後はスペインだけが儲かったという「アップルに対抗するモノを作ってグーグルに出資してもらったはよいが、結局儲かったのはグーグルだけだった」的なところも、なんとなく「起業あるある」。当時、歴史に名前も残っていないはるかに多数の船乗りたちが、海の藻屑と消えていったことも、「アントレプレナーは鉄砲玉」という現代のシリコンバレーと同じです。いつの時代も、カネを持っている出資者のほうが何かと(以下略

当時のイタリアやスペインに特に「アントレプレナー」的なリスクテイカーが多かったかどうかはわかりませんが、その中でも厳しい出資者の評価を経て荒波の航海を生き延びた、筋金入りのリスクテイカーだけが、初期のアメリカにやってきた、ということが言えるでしょう。

もう一つ、私が気になるのが、この「スペイン・ポルトガル覇権時代」までのヨーロッパの富は、古代からある土地ベースの農業の他は、主に「アービトラージ(裁定取引)」から生み出されていたことです。東方でシルクや香料を安く仕入れ、ヨーロッパに運んで高く売る。あるいは、新大陸でタダ同然に金や銀を掘り出して、ヨーロッパに(以下略、という地理的な「価値の差」を「通商」で富に変えるといういわゆる重商主義ですが、ここには「自分の手を動かして価値のあるものを作り出す」という「メイカー的発想」がありません。スペイン人にかぎらず、ヨーロッパの上流階級では長いこと、「働く」というのは下品なことであるという価値観が根強くありました。この時代までヨーロッパ発で作られ、世界に流通する価値ある産物、というものがゼロではないのでしょうが、あまり思いつきません。

その価値観や出資のパターンが、その後変わっていきますが、そこはまた後のお話。

ちなみに、カリフォルニアを発見したカブリリョは、果たして自分で副王を説得して出資してもらったアントレプレナーなのか、それとも上司である副王に「カリフォルニアでなんか新事業を見つけてこい」と命じられて後方補給もなく飛ばされた「某国特攻隊型サラリーマン」であるのか、どちらかはよくわかりません。

<続く>

出典: 塩野七生「海の都の物語―ヴェネツィア共和国の一千年」「ローマ亡き後の地中海世界」、C.P.キンドルバーガー「経済大国興亡史」、Wikipedia

ベイエリアの歴史(1) - カリフォルニアの発見

日本人が知らないアメリカの歴史 昨日、フェースブックのENOTECHページに突然「アイロンの歴史」など書いてウォームアップしましたが、本日から折を見て「ベイエリアの歴史」シリーズを開始します。実は私は小学生の頃からの「歴女」なのですが、中学の時に「歴史など勉強してもメシが食えない」と思い立ってその趣味を長いこと封印してきました。そろそろ、年寄りの趣味として歴史研究を復活してもいいかな、と思うようになってきたので、気が向いたときにぼちぼち書いて行こうと思います。

日本の学校で習ったアメリカの歴史は、コロンブスの新大陸発見、独立戦争、南北戦争と来て、その後は一気に大恐慌とか第2次世界大戦にふっとんでしまっていました。つまり、とぎれとぎれの「東海岸」の歴史です。しかし、当地にて子供の小学校の歴史授業などを通じてカリフォルニアの歴史を知り、いろいろな歴史的要因が、現代のサンフランシスコやシリコンバレーの「精神」を形成し、世界に冠たる「テクノロジー・キャピタル」を支えているという経緯に興味をもっています。それに、日本とアメリカの歴史は、意外にいろんなところで同期しているということも面白いのですが、これも「日本史」と「世界史」を分けて学んだ、私の日本の学校での体系ではよくわからなかった点でもあります。

「東」ではなく「南」から

さて、そういうわけでご存知のように、コロンブスが新大陸にやってきたのは1492年。日本では応仁の乱が終わり室町幕府が弱体化、でもまだ南蛮人は日本に姿を見せていないという頃です。アメリカでは東からヨーロッパ人がやってきて、米国東部の植民地が形成された後、開拓者たちが幌馬車で大陸を西に向かい、最後にたどりついたのがカリフォルニアだと思っていたのですが、実はそうではありません。もともとカリフォルニアには原住民(ネイティブ・アメリカン)が住んでいましたが、その地を最初に発見したヨーロッパ源流の人達は、「南」からやってきました。

コロンブスの後、「アジアへのルート」を求める冒険者が次々と米大陸にやってきて、「コンキスタドール(征服者)」として知られるエルナン・コルテスがアステカ王国を制服したのが1521年。その後現在のメキシコは「ヌエバ・エスパーニャ」と呼ばれる、スペインの植民地となっていました。当時はヌエバ・エスパーニャから北の方向に、アジアに出られる近道の「海峡」があると信じられており、その幻の海峡は「アニアン海峡」とよばれていました。

「カリフォルニア」という言葉の語源は特定されていないようですが、その単語が最初に登場したのはちょうど当時、1510年頃に書かれたスペインのファンタジー小説「Las Sergas de Esplandian」(エスプランディアンの冒険)です。そこに出てくる「カリフォルニア」は、カラフィア女王が支配し、黄金の武器をもつ美しい女兵士(アマゾン)のいる楽園の島です。(あー、なんか半分ぐらいあたってるかな(^^)v)この影響で、アメリカ大陸西海岸の未知の土地のことを、スペイン人は「カリフォルニア」と呼んでいたようです。

1542年、ヌエバ・エスパーニャの副王が、フアン・ロドリゲス・カブリリョ(ポルトガル人なので、ポルトガル語ではジョアン・ロドリゲス・カブリリョ)という船長に、「アニアン海峡」を探す旅に出るよう命令を下します。同年夏、カブリリョは250人の部下を2隻の船に乗せて、メキシコ西岸から北に向かって出港しました。この海域では、北から南に向かって強い風が吹くので、それに逆行する航海は困難をきわめましたが、それでも9月には現在のサンディエゴに到着しました。これが、ヨーロッパ人による「アメリカのカリフォルニア発見」です。

ちなみに、現在メキシコに属する「バハ・カリフォルニア」という半島があり、ここはすでにもっと早くスペイン人たちが到達していたので、「カリフォルニアの発見」というとこれを指す場合がありますが、アメリカのカリフォルニアについてはカブリリョの到達を「発見」または「最初のヨーロッパとの接触」としています。

カブリリョはその後さらに北上して、現在のロサンゼルスの少し北、サン・ルイス・オビスポあたりまで到達します。しかし、目指す「アニアン海峡」は見つからず、冬の天候によって航海が危険となり、サンタバーバラ沖合のチャンネル島まで戻って停泊します。そこで原住民との戦いが起こり、カブリリョは船から陸に飛び移ろうとして岩場に落ちて亡くなってしまいます。その後、部下の航海士がカブリリョの遺志を継ぎ、一行は翌年にさらに北上します。どこまで行けたのかははっきりしませんが、現在のオレゴン州あたりまで行けたかもしれないとされています。2ヶ月後の1543年4月、船はボロボロになり食料も尽きた一行は、これ以上北上することをあきらめ、ヌエバ・エスパーニャに帰り着きました。

日本では今川義元がブイブイ言わせていた頃で、同じ1543年に種子島に漂流したポルトガル人が日本に鉄砲を伝えます。ヨーロッパでは「大航海時代」、日本では「戦国時代」の始まりの頃にあたります。この頃、北米の東海岸ではまだ植民地は成立しておらず、イギリスによるヴァージニア植民の開始は1584年、ピルグリム・ファーザーズがメイフラワー号でやってきたのは1620年、まだまだ後のことです。

ちょうど、ヨーロッパ人による「日本の発見」と「カリフォルニアの発見」は、同じ頃にあたるというわけです。

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書"California" McGrowhill刊、Wikipedia、山川世界史総合図録、山川日本史総合図録

【書評】「ヴァティカンの正体」とアップルの与太話

【書評】「ヴァティカンの正体」とアップルの与太話

知ってる人はとっくに知ってる話だが、著者であるイワブチと私は、本書の中にしばしば登場する「フランス系カトリックのミッションスクール」で小学校から高校まで同級生であった、という超腐れ縁である。その割にはアメリカに来てから本書にあるようないろいろな「違和感」があって、すっかり教会に行かなくなってしまったのも同様。なので、この「ヴァティカンは歴史上最もsuccessfulなメディアである」というストーリーは、いろいろなところで「あー、あるある」と思えて笑ってしまう。特に、「ジョブスとiPhoneとiOSは父と子と精霊の三位一体」とか「ティム・クックは聖ペトロ、アップルは今使徒行録の時代」あたりは大爆笑である。わが地元では、同じアップルストアでも、パロアルトにあるものは「ご本尊」だったか「総本山」だかと言われていて、みな定期的にお布施をしにいっているし。

そういったお楽しみレベルでは、もしかしたらキリスト教のバックグラウンドのない方にはそれほど爆笑できないかもしれないが、それでも彼女が言いたいことはわかるだろう。キリスト教が世界のメジャーな宗教である現代から歴史としての過去を見返せば、なんとなく当たり前に見えているが、考えてみれば紀元4世紀とか5世紀といえば日本ではまだ弥生時代。そんな時代に、公会議で教義を徹底的に標準化し、世界に対して布教するつもりで早い時期から多言語対応し、トップの教皇庁と世界の隅々に張り巡らした地元の教会のネットワークを作り上げるというのはすごいことだ。(もっと最近でも、モルモン教は「多言語化」を強力に推進しているのはご存知のとおり。)このあたりは、ローマ文化の随所に見られる「仕組みづくりの天才」という環境のおかげかもしれない。(この点においては、まさにアメリカは現代のローマ文明だと常々思っている。)ラテン語という標準語の使用、「❍章❍節」というマーキングが徹底的に標準化された聖書のフォーマット、教会の構造も典礼の順序も完璧に世界標準。たとえ知らない言語の国に行っても、今どこをやっていて、聖書のどの部分を読んでいて、どのタイミングで立ち上がるとか膝まづくとかがわかる。改めて考えてみるとカトリックのグローバル戦略というのは、さすが2000年かけて生き残ってきただけのことはあって、感動モノである。

そして、現代において「文化的存在」として世界に冠たる存在となり、イタリアの経済にも大いに貢献しているその戦略。どこまでが結果オーライなのかはわからないが、確かに正しい時点で正しい方向に思い切って投資した結果が現在のヴァティカンの姿、ということなのだろう。

本筋とはあまり関係ないが、あまり娯楽のなかった時代に教会という存在が「テーマパーク」であったというのは本当にそうだと思う。ミサにあずかりながら、やたら立ったり座ったりがめんどーだな、と思いながら、きっと中世の農民など、年中腹が減っているので最低限の動き以上はせずじっとしていたはずで、そんな農民が週に一回やる「ラジオ体操」みたいなもんだったんじゃないか、という考えがよぎったこともある。

ちなみにアップルといえば、(ますます本筋とは関係ないどうでもいい話だが)アップル本社やスタンフォード大学のあるシリコンバレーの中心地は「サンタクララ郡」に属する。その「聖クララ」というのは中世の修道女で、カトリックでは「電話とテレビの守護聖人」だというのもますます因縁くさい。日本で八百万の神様が「何にご利益のある神様」といろいろ分担しているが、カトリックでは聖人が「何何の守護の聖人」ということで同じ役割を果たしている。で、聖クララという方は、病気でミサに行けず自室で寝ながら神に祈ったら、自室の壁にミサの様子がリアルタイムで映しだされた、という奇跡を行ったのだそうだ。ぜひ、「UStreamとiPadの守護聖人」も付け足してあげてほしいところだ。

「クールジャパン」というのはもう廃れているのかと思ったら、ますます最近やってるらしく、それへのアンチテーゼも本書の言いたいことのようだが、「投資」の概念が庶民レベルで浸透しているとは言いがたい日本では、なかなか民主主義の中で政治家が「投資」の決断ができないのだろうなぁ、と思ってしまう。本書に収録されている数々のウンチク話の中で、私が一番印象に残ったのは、この「オリバー・クロムウェルの愚行」の話である。

細かいところでは話がすっ飛んでいて「ん?」と思うところもあるが、そこはご愛嬌ということで、歴史好きでもそうでなくても面白話満載。ぜひお手にとってみてください。

【書評】「あるある」に彩られたグローバル戦略の「キモ」とは - 「グローバル・リーダーの流儀」

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著者の森本作也さんは、地元日本人仲間でもありスタンフォードMBA仲間でもある。地元の奥様方に「he is hot!」と騒がれるイケメンでもあるが、そういうワケで私とは単にそういう関係である。(誰も疑わないと思いますが念のため(^^ゞ)

だいぶ前になるが、私は森本さんとSFの野球場の向かいにあるレストランで昼飯を食いながら、「日本の企業ってミッション・ステートメントがないよね」という話をしたことがある。この話は、私自身の著書「ビッグデータの覇者たち」でも書いているのだが、単に「お金を儲ける」だけでは、長期的にはお客も従業員もついてこない。特に、日本からアメリカに進出するという場面で、さらに製品がモノを言う製造業でもない場合、そこを明確にして、共感を得られないとうまくいかないよね、と話したのだ。日本企業でも、私の古巣であるホンダは珍しく「理念」がはっきり言語化されていて、日本でも繰り返し従業員に伝えられ、実行され、対外的にもそれが広く認識されているのだが、森本さんは「そういえば、ソニーはそれがなかったな・・」という感想を発したので、私は少々驚いた。

そのときに引き合いに出したのが、楽天だった。もう済んだことなので申し訳ないが、具体的な例があったほうがわかりやすいと思うので書いてしまう。当時、楽天は海外進出のエンジンをかけだした頃で、アメリカから楽天のサイトにアクセスしようとすると、かなりダサい英語版のサイトにしかはいれないとか、いろいろとまだまだな時期だった。その英語版サイトの「About Us(企業情報)」のページに行くと、ミッション・ステートメントが掲げられていたのだが、それは「世界一のインターネット企業になる」というものだった。まぁ、社内的に商売の目標としてこれを掲げるのは構わないのだが、楽天に無縁なアメリカ人が「お客」や「投資家」や「パートナー」や「同業者」の立場からこれを聞いても、「へー、そーなの」で終わりだ。なんらかの共感を覚えて、この企業はいいね、このサイトを使おう、ここと商売しよう、と思えるとっかかりが何もない。シリコンバレーの企業はなんだかんだで理想主義的なところがあるので、グーグルならば「世界中のあらゆる情報を整理してリーチできるようにする」などといった、世の中をよくする方向での理念があるし、ホンダも「人間尊重、3つの喜び」など一連のコンセプトがはっきりしていて、多くの人が共感を持つことができる。

楽天の場合は、コレじゃチョットね・・と思いつつ、でも理念がないワケじゃないはずだ、とも思っていた。シリコンバレーほどでないにしても、日本でも無数の企業がある中で、ここまでのし上がってきた背景には、何か必ず、多くの人の支持を得られる理念の柱があるはずなのだ。しかし、日本人はそういうことを言葉ではっきり言うと「偽善」とか「カッコつけ」とか言われてしまうので、あえて露悪的な「ナニワ金融道」的な、現実の商売は厳しい的なことを言うのがカッコいいような、歪んだ自意識があって、はっきりその理念の柱を自覚しない。あるいは、某社のように、言ってみたけれど中味がついてこなくてスベリまくり・・と批判されるのを怖がって予防線を張っている、のかもしれない。でも、スベるリスクも引き受けて、言って実行しなきゃアメリカ人はついてこない、人事や給与体系のテクニックだけではアメリカでの企業経営はうまくいかないと思う。

・・という話を私はそのときした、と記憶している。これはその以前からずっと思っていたのだが、個別企業をクサしたくなかったので、この件はブログにも書いたことはない。代わりに楽天の経営に近い方に個人的にお話しして、そのためでもないと思うが、現在ではミッション・ステートメントもちゃんとしたものに変わっている。ということで「過去の話」で、対比する例として挙げさせていただいた。楽天のみなさま、どうかご容赦ください。

森本さんの近著、「SONYとマッキンゼーとDeNAとシリコンバレーで学んだ グローバル・リーダーの流儀」というやたら長いタイトルの本の中で、上記の件を取り上げていただいていることにまず感謝したい。最近「グローバル人材」とか「グローバル・リーダー」とかがやたらバズワードになっており、この本もそんな尻馬に乗ったモノのように聞こえるかもしれない。タイトルからすると、経営コンサルタント的な「概念的」な「堅苦しい」ものをちょっと想像するかもしれない。あるいは、海外在住者がついやってしまう、日本流の欠点ばかりをあげつらうものかと思って敬遠する向きもあるかもしれない。でも、そんなことはないので、ぜひまずは手にとって読み始めていただきたい。

物語形式で語られるエピソードはわかりやすく、米国での日本企業に関わっている人ならば、首筋違えるほどブンブン頷いてしまう「あるある」事例が満載。それでも批判一方ではなく、日本企業のもつ「良さ」も「直そうと思っても直らない欠点」もある程度肯定した上で、具体的な解決策の事例を挙げている。そして、それは具体的な「ヒント」だけでなく、上記のような「経営のキモ」の話も含んでいる。本書でも語られるように、解決策は一様ではない。このとおりやってもうまくいかないことのほうが多い。解決策はそれぞれの企業のそれぞれの問題によって異なるのだが、それを導き出すヒントには大いになるだろう。

日本以外の海外市場に共通な部分も多いが、特にシリコンバレーとつきあいのある日本企業の方であれば、シリコンバレー人の行動や心情の描写も超「あるある」なので必読である。私も、さっそくクライアントに「まずこれ読んでください、詳細な話はそれから」と勧めたいと思っている。

DoCoMo to "cut cord" with Japanese handset vendors

DoCoMo, Japan's top mobile carrier, has been struggling.  They are losing out in new subscriber add against KDDI and Softbank and there is no sign of reversing the trend, given that DoCoMo is currently the only major carrier who does not provide iPhone.

People have been speculating the reasons why DoCoMo does not sell iPhone, and one major factor is thought to be their long standing relationships with Japanese handset vendors.  If DoCoMo wants to sell iPhone, Apple would push a tough quota, thus there will be no room for already weak Japanese vendors.  They say that will mean the sure death to vendors like Fujitsu and Sharp.

But alas, even without iPhone, DoCoMo decided to hand the death sentence to them, practically speaking.  On May 15, they announced the strategy to push "Two-Top" smartphones, Samsung Galaxy S4 and Sony XperiaA, for their summer handset lineup.  Tsutsumu Ishikawa reports on Nikkei that DoCoMo will pay extra handset subsidy for these models and strongly feature them on their advertisement.

Maybe 2 years too late, but from DoCoMo's point of view, it makes all the sense.  "Global models"'s volume means they have lower cost and better proven quality, thus bring down DoCoMo's cost for procurement, customer service and other maintenance.  It will make it easier for global Android developer community to write apps for DoCoMo.

Yesterday's Google I/O was quite interesting - for me, the most interesting one among the past same events.  They are really pushing all kinds of tools to support Android developers  so they can make money.   One of them is the "global sales" direction such as language support.  Not just handset vendors, but for app developers, going global is the key to success already.

And with Google's "big data" capability, they provide many personalization tools.  It is no longer even thinkable for carriers to match these capabilities.  Carriers have lost out in their quiet effort to compete against Google and Apple.  Now even mighty DoCoMo has to go with the flow.

And by the way, some also speculate that this whole thing means that DoCoMo is preparing to make room for iPhone.

So there you have it.  Looks like DoCoMo has made a big decision to cut their umbilical cord with Japanese handset vendors (except for Sony).  Vendors have to find a way to support themselves now - but how?

6/18 サンフランシスコでの講演会開催

おかげさまで、Japan Intercultural Consulting主催「ビジネス道場」5月分が好評ですぐに締め切りになりそうなため、6月18日にサンフランシスコにて「ビッグデータの覇者たち」に関する講演会を行います。内容は5/14分と同じです。 詳細とお申込みは下記でどうぞ。

http://businessdojojune2013-estw.eventbrite.com/

國領二郎著「ソーシャルな資本主義」と私の本の関係

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4月25日、ニコ生「ゲキBizチャンネル」にて、慶應大学の國領二郎先生と新刊記念対談を行う予定。その予習を兼ねて、國領さんの近著「ソーシャルな資本主義」を読んだので、対談の準備を兼ねてメモしてみる。 1) 似てる・・

この本が出たのは先月3月15日、読んで「え、これヤバい」と思ってしまった。いや、最近の若い人のいう「ヤバい」ではなく、私達の年代の意味での「ヤバい」。私の本が「この本のパクリ」疑惑を招きかねないほど、いろんな点で似ている。

特に、結論部分で國領さんが「信頼」、私が「志」と呼んでいるモノ。あるいはプライバシーに関する考え方。あるいはひとつの産業構造の終わりという考え方。しかし、もちろんパクリではない。國領さんも同じようなことを考えている、というより、ネット業界の心ある人は皆、同じように考えているのだと思う。一つの大きな現象を、國領さんは「つながり」という面から、私は「データ」という面から眺めて話をしているだけだ。

2) 産業構造の終わりとアウフヘーベン

私は大学生などへの講演の中で、1950年代頃成立した「大量生産・大量消費」の経済エコシステムが緩み、新しいものに代わりつつある、という話をよくする。そのエコシステムは非常にうまくできていて、今も実は大きな部分はそのシステムに依存しているのだけれど、簡単に言えば「規格品の大量生産(=低コスト生産)→トラックによる大量輸送(=市場の広域化)→大型スーパー(=郊外型立地)→大型郊外住宅+車依存ライフスタイル+テレビによる全国一律マス広告→ますます大量生産が可能に(最初に戻る)」という循環構造をとる。日本でもある程度はこれと同じだが、アメリカは極端にこのパターンが発達している。しかし、70年代石油危機のときに、このコスト構造を支える石油の価格が上がって支えきれなくなり、以来この構造は少しずつ緩んで崩壊しつつある。エコ志向、都市回帰、大規模安売り店舗の苦戦、アメリカ自動車産業の落日、テレビ離れなどの現象は、いずれもこの大きな「崩壊」という流れの一部である。

私は、ビッグデータ現象を重視した理由として「供給爆発による技術革新」を本の中で挙げており、産業構造においても「産業素材の供給と需要」の関係に着目して上記のように説明しているが、一方國領さんはこれと表裏一体の関係にある「切れた関係とつながる関係」に着目し、同じように「大量生産・大量消費」エコシステムが終わり、別のものに代わりつつあるという話をしている。

「所有と販売」を基礎にした経済構造から、「シェアと利用」の経済構造へと移行する、そしてそのためには従来の規格品という仕組みの代わりに「信用」をベースとした仕組みへと移行する。國領さんはそう説く。同じ現象の「つながり」部分に着目すれば、確かにそうだ。そして、國領さんは、「つながりが雪だるま式に増える」ことも指摘している。ここでも、何かが爆発的に増えている。

別の見方をすれば、「切れた関係」を前提とした大量生産・大量消費という現象は、アメリカを中心とした戦後の一時期の「特殊な現象」だったと考えることもできる。その世界から、昔のような、「顔」のつながった信用中心の世界へ、ただしそれより一つ高い段階へと螺旋型に戻る、ヘーゲルの弁証法でいう「アウフヘーベン(止揚)」だと考えると、これはなかなか楽しい。

3)プラットフォームと日本企業の再生

こうした新しい経済の段階において、日本企業も昔風の「モノづくり」だけに頼っているわけにはいかない。新しい世界はまだはっきりした形をなしていない混沌であるので、まだその中でプレイヤーとして勝ち残っていくチャンスがあるのだけれど、じゃぁどうやって、という方法論は一概にはいえず、それぞれの企業によって違うやり方があるだろうと思う。國領さんも、「プラットフォーム・プレイヤーになること」という原則は言っているが、「日本企業はどうすべきか」という、マスコミ的な粗っぽい話はしていない。この種の質問も、講演会などでよく受けるのだが、本当に答えられない。決まったパターンがない世界だから。だからこそ、希望もあるのだけど。

以上、少々まとまりがないが、こんなことを考えている。私の「ビッグデータの覇者たち」をお読みいただいた方は、ぜひこちらも読んでみていただきたい。