戦国時代のドラマで織田信長が出てくると、アイコン的に「マント」を着ていることが多いですよね。「直虎」でも、市川海老蔵演じる美しくも恐ろしい信長が、豪華な刺繍のはいったマント姿で、豆だぬき家康を踏んづけていました。
マントは南蛮=欧州からでないと入手できない高価な品である、という約束事を、見ている人も暗黙の了解をしている上での描写であります。
で、その「欧州」ですが、正確に言えば、日本に最初にやってきたのはポルトガルとスペイン、半世紀ほど遅れてオランダとイギリスです。欧州といってもフランスもドイツもいません。この時代、1500-1600年代頃に、はるかアジアまで船を出していたのはこの4カ国だった訳です。(ドイツという国はその頃まだありませんでしたし。)
前者のカトリック2国が「南蛮」、後者のプロテスタント2国が「紅毛」と呼ばれ、宗教改革の余波で日本に競争で布教にやってきた、と学校では習ったように記憶しています。しかし、こんな遠くまで来るにはたいへんな投資がかかるので、単なる宗教の布教ではなく、それなりの見返りを期待したはずです。では、そのビジネスモデルとは何か。
この時代より少し前、ヴェネツィアが地中海貿易の中心地だった頃は、アジアから胡椒や絹を仕入れて欧州で売る、というビジネスモデルでした。では、欧州からアジアへは何を売っていたのか、ちょっと調べてみましたがはっきりしません。穀物やガラスなどの工芸品かな、という感じですが、あまり大きなマージンがとれるわけでもなさそうです。
大航海時代にはいり、貿易の中心地が大西洋に移行すると、ジェノヴァ人クリストファー・コロンブスにエンジェル投資したスペインが、南米で銀を掘り当ててエグジットに大成功(歴史シリーズ(2)参照)し、その後せっせと銀の収奪貿易に精を出すようになりました。
いずれも、あっちとこっちの価格差を利用したアービトラージというビジネスモデルです。
その流れで、南蛮人が日本までやってきたのは、マルコ・ポーロのいう「黄金の国」で金を掘り出そうという目的だったのかと思っていました。
しかし、実は商品(銀、胡椒、絹)を安価に入手するというだけでなく、どうやらちゃんと売るものもあった、ということに気が付きました。
それが、「マント≒毛織物」だった、というわけです。やたら長い前段ですね・・すいません。(欧州から日本にはいってきたもう一つの主要品目は「武器」で、こちらのほうが儲けも大きかったと思いますが、ここでは毛織物に注目します。)
羊を飼うのは、はるか前史時代に中央アジアで始まりました。当時、羊は今のようなモフモフではなく、ヤギのような短い毛で、主にミルクと肉と毛皮を目的として家畜化されました。そのうち、紡績技術が出てきて、短毛羊の中でもお腹側にちょっと長い毛のあるヤツがいたのでその毛をとって紡績してみると、とても調子がいいということで、だんだんに長い毛をもつ羊を交配するようになり、数千年をかけて、現在のようなモフモフ羊ができました。
羊と毛織物技術は、ヒッタイトやスキタイを経て欧州にも伝播し、古代ローマ時代には、毛織物のマントが兵士の標準装備となりました。ローマ帝国崩壊後、いったん毛織物工業はすたれますが、中世半ば(西暦1000年頃)にまた各地でぼちぼちと復活しました。そして中世末期には、主要生産地がいくつか興隆し、欧州全土で人々の衣服に使われるようになり、ヴェネツィアは欧州の毛織物をイスラム諸国に輸出するようになりました。
この頃、羊を飼ってウール素材をつくる部分については、イギリスとスペインが最大生産地として確立しました。イギリスは、降雨時間が長いため、羊の餌になる草が長期間にわたって生える、という長所があり、スペインのメリノ種の羊は、高品質のウールを作るのに適していました。そう、イギリスとスペインなのです。
そして、素材に加工して織物製品にする技術は、イタリアや低地諸国で最初に発達しました。どちらも、ヴェネツィアとアントワープ、すなわち海運・金融・商品市場という交易のためのインフラをもつ地に近いという特徴があります。その後ヴェネツィアは衰退し、アントワープの市場はアムステルダムにその地位を奪われます。オランダ(ネーデルラント連邦)は、1568年から始まるオランダ独立戦争でハプスブルグから独立したばかりの新興国でした。(種子島にポルトガル人がやってきたのは1543年ですから、その頃はオランダという国すら、まだ存在していなかったことになります。ちなみに、イギリス国教会成立はさらにそのちょっと前、1534年でした。)
そもそも、オランダ独立戦争というのは、毛織物工業ですでに豊かになっていた低地諸国に対し、伝統の結婚政策でこの地を手に入れたスペイン・ハプスブルグ家が圧政を加えたことに端を発します。「圧政」のひとつに、プロテスタントへの迫害もありました。少し前にフランスでも同様の背景で「ユグノー戦争」がありましたが、この頃プロテスタントになったのは、毛織物を代表とする「手工業」に従事する、当時の「新興テクノクラート層」の人々でした。伝統的な農民とその領主(私の定義による「第一世代」)の枠組みから脱して、手に技術をもって工業製品を作るメイカー的な人たちであったため、第一世代の社会を安定させることに最適化したヒエラルキー重視のカトリックに不満を持っていたわけです。
つまり、南蛮=カトリックは「伝統的農業経済」、紅毛=プロテスタントは「新興手工業経済」の象徴でした。
カトリックながら毛織物工業をもっていたスペインは、日本との貿易では先行して、毛織物や武器を売りにやってきました。しかしその後長期的に、後者の「新興国」のほうが勝ち組となっていきます。
日本では関ヶ原の合戦があった1600年、イギリス東インド会社が設立され、その2年後にはオランダ東インド会社が続きます。オランダとイギリスの船が日本に来るようになったのは、その後です。
その後の半世紀ほど、英蘭戦争で敗れるまでがオランダの最盛期でした。イギリスでは、毛織物工業のための「囲い込み」が16世紀と18世紀に起こり、その後の「産業革命」の基礎となる資本蓄積が行われます。
毛織物工業とは、歴史的にとても大きな意味があるのですね。
で、冒頭の信長のマントですが、そういうわけで、1582年の本能寺の変より前ですから、おそらくスペイン(もしかしたらポルトガル)から来た、たぶんメリノウール、ということになります。
それだけの話のために、延々と語ってしまい、本日も大変失礼いたしました。
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