古い時代はいざしらず、少なくとも20世紀以降ぐらいのスパンで、共和党が最も強かったのは、1980年代のロナルド・レーガンの時代です。そして、レーガンがあまりに強かったせいで、彼の政策や思想が現在に至る共和党の枠組みとなり、それが時代に合わなくなって、今の共和党の混乱を引き起こしています。まさに祇園精舎の鐘の声、諸行無常・盛者必衰であります。
現在から振り返ると、1960年代というのはアメリカが強かった古き良き時代、とつい思ってしまいますが、政治的には44/45で書いたように、暗殺と謀略が相次いだ混乱の時代でした。これに続く1970年代は、本格的にアメリカ経済が斜陽に向かう時代となり、2度の石油ショックで「化石燃料ベース」の大繁栄エコシステムが崩れてインフレがひどくなりました。従来型「謀略」政治手法のニクソン(共和党)がウォーターゲート事件で失脚、その次のカーター(民主党)は、日本国の私と同じ苗字のかつての某首相のように、「素人だからクリーンぽい」ということで大統領になっちゃった人で、進行するインフレとイラン人質事件に対して右往左往するばかりでした。
そのカーターを大統領選で完膚なきまでに叩きのめして颯爽と登場したのが、ハリウッドのカウボーイ、レーガンでした。
レーガンが俳優出身というのはよく知られていますが、俳優としてはそれほど実績がなく、それよりも「俳優組合」(Screen Actors Guild, SAG)のトップとして、戦後の「赤狩り」の時代を乗り切ったことが、その後の彼の政治キャリアにつながっています。「組合」ですから、SAGも赤狩りの時代には「狩りの対象」でありました。この頃レーガンは民主党支持だったそうですが、彼はSAGから「社会主義的な思想を抜く」よう努力し、「社会主義への憎悪」が強くなって、保守派・共和党へとコンバートしました。そして例の1964年共和党大会でのバリー・ゴールドウォーター支持演説で注目され、本格的に共和党の政治家となっていきます。
その後レーガンは、我らがカリフォルニア州知事を2期勤めました。1970年代といえば、UCバークレーを中心に学生運動が最盛期の頃でした。ヒッピーや学生運動はそういうわけでサンフランシスコ/北カリフォルニアがメッカでしたが、一方で一般庶民の間では反感が強く、レーガンは州兵まで動員して運動を抑圧しました。
そして2度の予備選敗退を経て、1980年についに大統領選に勝ちます。レーガンの政治思想は「アンチ社会主義、小さな政府、州への権限委譲」であり、共和党の中でも保守派寄り、「東部エスタブリッシュメントではない、西部新興州を地盤とする、アウトサイダー的な右派」という意味で、ゴールドウォーターの進化形のようなものです。下記いろいろ考えると、突き詰めればやはり「社会主義打倒」が彼の根本思想であった、と思います。
レーガン時代は、対ソ連軍拡を強化したことに加えて、「サプライサイド経済学」政策を特徴としています。これは「供給側=企業活動を促進すると経済が成長する」ということを優先しており、それまで主流だった「需要側=ケインズ経済学=公共投資で雇用を創出して需要を作り出す」のアンチテーゼとして登場したものです。政策的には、「限界税率(今よりも収入が増えた場合にそれに伴って税率がどれだけ上がるか)を抑制すると、人々は収入を増やす努力をするのでよく働くようになる(その結果、税収の絶対額はかえって増える)=税の累進性を緩める、最高所得税率を下げる」と「企業への投資を促進するため、キャピタルゲイン税率を下げる」ということをやりました。実際にレーガン時代に経済は成長し、政府の税収も上がりましたが、減税の効果はあったとしてもわずかで、実は代替として他の税金を引き上げた分、特にFICA、すなわち給与雇用者とその雇用主が負担する税で、メディケア(低所得層向け保険)やソーシャルセキュリティ(老齢年金)に使われる分の引き上げが効いているとされています。そして、軍事費が増大する一方、低所得向けのセーフティ・ネットをどんどん削減してしまいました。それでも、お金持ちがより儲かり経済が成長すれば、末端まで恩恵が「トリクルダウン」するとされました。こうして、バーニー・サンダースが攻撃する、「金持ち優遇、庶民冷遇」の仕組みが出来上がったわけです。
その時点でこの考え方が正しいと証明された事例はなく、当時から現在に至るまでメジャーな経済学者はこの考えを支持しておらず、やはりそんなうまい話はなかったという結果になっていますが、とにかく「社会主義国がやってること」の真逆をいく仕組みであり、要するに「アンチソ連、社会主義打倒」という当時の時代の空気に合っていたから支持されたということなのかな、と思います。
さらにこの時代、「社会主義打倒、小さな政府、ビジネス優遇」という政治思想とは直接の関係がない、「ライフスタイル保守」の人々が共和党と深く結びつきます。具体的には、「保守キリスト教」「堕胎反対」「銃規制反対」といった団体です。当初南部の保守派キリスト教団体は、南部ジョージアを地盤とするカーターを支持していたけれど、あまりにカーターがダメだったので見捨てて、共和党に鞍替えしてしまった、という記述があります。また、レーガンはカリフォルニア州知事時代に条件つきで堕胎を規制緩和する州法に署名しましたが、その後の結果を見てこれを深く悔やんでプロ・ライフ(堕胎反対)に鞍替えし、また自ら全米ライフル協会(NRA)に加盟してNRAが初めて正式支持した共和党大統領候補となりました。
私がアメリカに来たのは1987年、レーガン政権の最後部分にあたります。今なら「リベラル」の雰囲気の強いスタンフォード大学でも、当時ビジネススクールではやはり「ビジネス優遇」の共和党支持の人が多かったように思います。私自身も、アメリカ市民ではないし特に政治信条はなかったですが、周りに影響されて漠然と「共和党でいいんじゃね」と思っていました。諸行無常であります。
<写真>ロナルド・レーガン By This media is available in the holdings of the National Archives and Records Administration, cataloged under the ARC Identifier (National Archives Identifier) 198600.This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information.
<出典>Wikipedia