歴史

【ナンデモ歴史52】小野但馬守政次追悼〜激辛大河のベルばら世代的考察

私は歴女ですから、大河ドラマはけっこう見ています。アメリカでも、日本語チャンネルで一日遅れでやっております。

そして、「おんな城主直虎」33話は、ネットで騒然となっているので皆様もご存知のとおり。私も、(少なくとも私の中では)このドラマは歴史に残る名作となったと思っています。

とはいえ、これまでも「低視聴率」とバカにされてきたこの作品、今まで批判し続けてきた方が今回もこんな批判を書いております。

http://biz-journal.jp/2017/08/post_20278.html

『おんな城主 直虎』高橋一生ついに退場!「神回」と絶賛されるも、目立つ粗に心配の声

確かに、「近藤がなぜ政次を処刑したのか」については、少々わかりづらいところでもあり、私もちょっとひっかかっていました。そもそも、ウィキペディアで「史実/通説」とされているものを読んでも、「井伊を裏切った」かどで徳川が政次を処刑するというのも変な話だし、井伊が恨みを持って処刑したのなら、なぜ彼の甥とその子孫を末代まで井伊の主要な家臣として処遇したのかもわかりません。このあたりの事情は謎なのですね。

でも、愛あふれるツイッター民の皆様のおかげで、脚本家さんがあちこちに仕込んだヒントがわかり、このお話の中では私なりに腑に落ちました。アメリカ時間で見てからもう2日経っているのに、歴女の血が騒いで仕事が手につかないので、この件以外の感想も含め、私的考察をここに吐き出してしまいたいと思います。

(1)寝返りのエビデンスと近藤のメンツ

まず、近藤が感情的に政次および井伊を恨んでいることが唯一の動機ではありません。確かに、過去の因縁もあるので「嫌い」ですが、それは遠慮なく「やっちまう」ことができる補助的な理由に過ぎません。

本当の動機は、「どさくさにまぎれて井伊谷を自分の領土にしたい、絶好のチャンスだ」という、この時代の武将のごく当たり前の行動様式でしょう。これは、政次が捕らえられたときに、近藤自らが言っています。(「これも世の習いだ、悪く思うな」)

その場合、近藤も今回あらたに今川方から徳川方に寝返るにあたり、本当ならば「寝返りますよ」という証文だけでは弱く、敵方の将の首というエビデンスが欲しいところ。直虎も政次も、当初の「プランA」では「関口の首」をお土産にする予定でした。

しかし、関口も寝返ってしまい、ちょうどよいお土産がなくなってしまった。32話で政次が、関口の家来が引き上げたという話を聞いて、顔を曇らせたのはそのためでしょう。彼は「最悪の場合、自分の首が必要になるかも」とこのとき思ったのではないでしょうか。

さらに、近藤が、家康自身に「切り取り次第」を認めさせるためには、何かしらの大義名分が必要でした。(家康は前回、近藤が政次のことをけなすのを聞いても、「じゃあ井伊を攻めて切り取ってもイイヨ」とは言いませんでしたし、今回も近藤のヤラセを疑っていました。)

それで、近藤は「今川方である政次が徳川(≒武田)に弓を引いた。徳川に味方すると言ったのはウソで、ヤツは大嘘つきの二重スパイであった」とでっちあげ、その首を今川の将の首として、寝返りのエビデンスにしようとした、ということだと思います。(そして、先を急ぐ家康も、疑っていながら近藤に丸投げせざるをえなかった。)

過去の遺恨は材木の件などの「ご近所のイザコザ」程度ですが、この局面でもし直虎と政次が逃亡したり、ヤラセが露見したりすれば、今度こそ近藤のメンツおよび立場へのダメージははるかに大きくなります。そうなれば、近藤は徳川≒武田から自分が責められたくないので、口封じのためにも本気で井伊に攻め込むでしょう。井伊には、どうやらまとまった武力は龍潭寺の僧兵ぐらいしかないようで、とても勝てない。蹂躙されてしまう。そこまで考えて、政次は、近藤のでっちあげストーリーにあえて乗ることにしたのでしょう。

要するに、関係者全員が、近藤のヤラセも政次の立場もうすうすわかった上で、出来レースをやっているということになります。この時代、武力がないということは残酷なことです。

(2)近藤の正当性をくつがえす

近藤は、直虎と政次がつるんでいることは前から見破っていたでしょう。徳政令の話のときに、今川館で政次が「井伊が困ると自分には好都合」と言ったのに対し、「好都合、でござるか?」と疑っています。さらに、直虎は家康に対してすでに「政次は味方」と宣言してしまっています。

ここで「今川方の首」として差し出す政次と直虎は同チームで、直虎も実は今川方だと主張すれば、井伊家が旧所領を安堵してくれという話も潰すことができ、近藤は自分が乗り込むことを正当化できます。

直虎チームとしては、「近藤が正当性を持ってしまう」ことを阻止するためには、政次と直虎の立場を切り離すことが必要になってしまいました。井伊はちゃんと徳川に恭順するつもりだったのに、政次が裏切っただけだ、井伊はちゃんと処遇しろ、と言えるようにしておかないといけません。

それで、「大河史に残るラブシーン」との呼び声の高い、罵倒合戦という命がけの大芝居をうちました。それがなければ、近藤の井伊への侵攻は止められても、井伊の本領回復ができなくなります。

ドラマでは見えませんが、磔にするのは見せしめの意味ですので、川のこちら側に、見物人がいたかもしれません。見物人はもともと直虎びいきの井伊の住民ですから、その場面を見て、「直虎あっぱれ、やはり直虎にうちの殿様に戻ってほしい」と思ったことでしょう。

このあと、能面の顔になった直虎が近藤に、「鏃のない矢の件は黙ってやり、近藤を功労者と言い伝えてやるから、井伊の旧領を返せ」と迫ったりでもするのでしょうか?楽しみです。

(3)家康に貸しをつくった

この時点で、徳川はまだ弱小の豆狸であり、信長に踏んづけられたり信玄に書状を鼻紙にされたりしています。家康が今回、土下座後ずさりで直虎を見捨てざるをえなかったのも、大ボス信玄の「早く来い」というお下知に背いたら、自分自身があっという間に鼻をかんで捨てられてしまうからです。

その中でおこった、この一連の悲劇のおかげで、家康は井伊に大きな借りを作ることになってしまいました。このあと、築山殿の件もあり、井伊への「借り」カウンターはさらに高速回転します。

その後の家康の井伊直政(虎松)への扱いが「破格の厚遇」となっていくのは、そんな心理的負い目もあるのかな、と想像します。直親を見殺しにしたという罪悪感を背負っていた政次は、こんどは自分を見殺しにしたことを「家康への貸し」として押し付けたわけです。どこまで意図したことかわかりませんが、彼は、「新参者」「外様」であった井伊家が、徳川でのし上がり、徳川幕府が終わるまで300年近く続くための捨て石になった、と考えると楽しいです。

結果的には、大企業の織田や武田でなく、早いラウンドでベンチャー企業徳川に投資(貸しですが・・・)して、その後大化けしてよかったね、ということになります。

ただ、なぜ、斬首や切腹でなく磔だったのか、についてだけは、演出上の都合だったのかな、とも思いますが。

(4)革命家の甘美な陶酔

なお、このときのふたりの心情については、もう語り尽くされているので、詳細は略しますが、一つだけあまり言われていないことを付け加えておきます。私は、ある意味で「革命家の甘美な陶酔」のようなものを二人だけで共有していたというふうに考えたいです。

ベルばらがあれだけ劇的なのは、オスカルとアンドレが「共に革命に身を投じた」からです。単に同じ理想、というより、「革命」という言葉にはなんとなくエロティックな、自己陶酔するような風味があるので、あえてこの言葉を使います。

ドラマではそれよりもはるかに規模の小さなレベルではありますが、直虎と政次は「同士として共に今の悲しい世の中を変えたい、そのために自分は地獄に落ちてもよい」という情熱を共有していました。その対象がイデオロギーではないので革命とは呼びませんが、彼らが目指したのは、穏やかな里の風景や、陽の光の中で打つ囲碁が象徴する、「人々が幸せに暮らす、ふるさとの安寧」ということで、目指すところはある意味で同じです。それは、江戸時代の歌舞伎のような「お家大事、お家に対する忠義」というイデオロギーとは違い、また普通の恋愛とも違います。(恋愛感情も、多分に混ざっていたとは思いますが。)

そして、一人で黙って悪者として死んでいった「樅の木は残った」の原田甲斐と違って、ふたりで一緒に地獄に堕ちるのだから、ますます甘美ですね。

(5)聖ロンギヌスの槍

ツイッターでこの言葉を見かけ、調べたら面白かったので、画像にはこれを使いました。

キリストと聖ロンギヌス - フラ・アンジェリコのフレスコ画(15世紀)

キリストと聖ロンギヌス - フラ・アンジェリコのフレスコ画(15世紀)

 

現在のオフィシャルな聖書には「ロンギヌス」という名前は出てこず、ただ「ローマの兵士の一人が、十字架上のキリストを槍で刺したら、血と水が一滴流れ落ちた」というだけです。なので、私はこの話は知りませんでした。

しかし、聖書にはたくさんの「外伝」があり、その一つにこの兵士の名前がロンギヌスとあるそうです。彼はもともと盲目で、キリストの返り血が目に入って見えるようになり、改心してキリスト教布教を行ったことで、その後聖人に列せられ、その槍は勝利をもたらす「聖遺物」という伝説になって人々が探し求めたといいます。

日本では、ゲームの中でよく知られているものらしいです。

槍をさす構図や、直虎の尼頭巾に一滴だけ飛び散った血の飛沫が、この逸話を思い出させるようです。

前回32話の、小野家臣団の前で振り返る政次という構図が、レンブラントなどのオランダ絵画のようだという指摘もありました。

なにしろ、歴女的にはとても心躍る大河ドラマであります。

【ナンデモ歴史51】●の川が火の海になり、世紀の「大逆流」工事へ

10年ほど前の秋、シカゴを訪れたとき、住宅街にはレンガ造りの住宅が並び、街路樹の大きな葉が鮮やかな黄色に色づいて、雨でより色が深くなった茶色の町並みに映えていました。その後、この美しいイメージがが私の「シカゴ」のアイコンになっています。カリフォルニアの我が家近くでは、葉が赤くなるものが多く、黄色はあまりないため、特に印象に残ったのでした。

しかし、昔は違いました。「野蛮人の海岸(barbary's coast)」と呼ばれていた頃のめちゃくちゃなサンフランシスコがすごいブームタウンだと思っていたら、どうやらシカゴのブームタウンぶりはもっと激しかったようです。急激な人口増加にインフラがついていかず、大きなきしみが発生しました。

いろいろありましたが、大きな問題のひとつが公衆衛生でした。この時期多くの旅行者が「今まで行った中で一番汚い町がシカゴ」と書き残しており、あまりの汚染のため伝染病が蔓延していました。下水道がつくられましたが、下水は処理せずそのままシカゴ川に流し込んでいたので、ほとんど意味がありません。住民のトイレからの人●、食肉処理場からの牛豚の内蔵や骨などのクズ、その他あらゆる有機ゴミがシカゴ川に流れ込んで、大変なことになっていました。

1871年、未だに原因がはっきりしないようですが、町の東南の一角で火事が発生しました。当時のシカゴでは木造の家が多かったために、またたく間に火は広がりました。火はだんだん中心街に向けて進んできましたが、その先には、市街地の中央を分断するシカゴ川があります。そこで火は止まるだろう、と多くの人が安心したのも束の間、なんと、●の川から発生するメタンガスに火がついて、火事はむしろ川をつたって燃え広がってしまいました。この火事で、300人が亡くなり、市の全人口30万人のうち1/3が焼け出され、ホームレスとなってしまいました。

しかし、幸いなことにシカゴの産業を支える工場や倉庫群はそれほど大きなダメージを受けず、むしろ復興景気が起こって、住民は家はなくても仕事はいくらでもある、という状態でした。このときの復興都市計画として、住宅をレンガやブラウンストーンににすることが義務付けられ、今の美しいレンガづくりのシカゴの町並みができました。

さらに、大きな改革が計画されました。比較的短い流域からミシガン湖へとゆるやかに流れ込んでいたシカゴ川の流れを逆にして、シカゴ川にミシガン湖のきれいな水を取り込み、ゴミは運河経由でミシシッピ川に押し流す、という「大逆流」土木工事であります。湖から近い川の入り口あたりを掘り下げて水を吸い込み、既存の運河をさらに拡張するという作戦で、これが成功して1900年に完成しました。その後、シカゴのゴミが流れ着くようになったミシシッピ川下流の複数の州から訴訟を起こされ(そりゃそうです、迷惑千万ですよね)、今でもリバークルーズのガイドのおじさんは「これらの州には申し訳ないことをしたんだけどゴニョゴニョ」と述べておりました。このため、現在この運河は「Sanitary and Ship Canal」と、「公衆衛生」という名前がついています。

(運河の入り口、このあたりの底を掘り下げた)

シカゴ川逆流工事は、American Society of Civil Engineeringの選ぶ「20世紀の十大公共工事」のひとつに数えられています。これだけでなく、19世紀終わりから20世紀初頭のバブルの頃のシカゴでは、この種の力任せの大型土木プロジェクトのエピソードがたくさんあります。シカゴは地盤が比較的弱いのですが、深く掘り進んで鉄骨を埋める工法が可能になり、高層ビルが林立するようになりました。ガイドのおじさんは「ニューヨークはすぐ下が岩盤だから簡単だが、我が方は技術の力で解決して、ニューヨークと並び称される高層ビル街を作ったんだ」と、再び対抗意識を表明しました。

また、河口近くのシカゴの市街は水面とあまり違わない高さで危険だったため、「街をジャッキアップする」ということも行われました。「家1軒」のジャッキアップなら、「ビフォー・アフター」で見たことがありますが、街の街路一区画全体をジャッキアップし、その間上に乗っているオフィスや店舗は通常営業を続けていた、というから驚きです。現在のシカゴの河口沿いが、道路が層になって地下道路が多い複雑な構造をしているのは、こういう訳だったのですね。

この時期、鉄が大量に作られるようになり、土木・建築技術の発達を促した、ということが、シカゴの橋梁や地下道での鉄骨の嵐を見て実感されます。この時期のアメリカの技術革新と経済発展は、「動きが早い」と皆が嘆く現代と較べても、比較にならないほどのパワーとスケールだった、というのが私の持論ですが、その思いをさらに強くしました。

<続く>

出典:Chicago Architecture Foundation River Cruise Guide, Wikipedia

【ナンデモ歴史50】19世紀半ばの「大爆発期」

独立戦争を経てアメリカから欧州勢力が去り、18世紀の終わり頃には初めてフランス人が近くに農場を拓いて定住。そして1816年、アメリカとネイティブ族の間で戦いを終わらせる条約が成立し、シカゴ周辺はアメリカ合衆国に編入されました。

1830年、イリノイ州政府はシカゴ・ポルテージに運河を建設する計画に着手し、当時人口100人であったシカゴが「行政区域」として初めて成立しました。アメリカ国内の町となったシカゴには、五大湖を通ってニューヨークから通商船が到着するようになり、運河建設を期待して、東海岸の投機筋が殺到して土地投機ブームが発生しました。ご存知、アメリカの伝統芸の発動であります。(【14】参照)中西部でとれた農産物は、馬車でシカゴに集められ、船積みされて東に向かって湖を渡り、イリー運河とハドソン川を経由して、大消費地ニューヨークに運ばれるようになりました。シカゴには、このための穀物エレベーターや倉庫がどんどん建設され、人口はわずか10年で4000人に達しました。

シカゴ川とデスプレイン川=ミシシッピ水系をつなぎ、シカゴ・ポルテージを水路に変える「イリノイ・ミシガン運河」は、1848年に完成しました。サンフランシスコからほど近い山岳地帯で金が発見された年と同じ、というのも面白い偶然です。(その翌年1849年が有名なゴールドラッシュの年です。)これにより、大消費地ニューヨークと天然の大水路ミシシッピ水系が完全に水路でつながりました。この年には、鉄道もシカゴにやってきて、さらに「シカゴ商品取引所(Chicago Board of Trade)」が設立され、農産物を中心としたコモディティの先物取引が始まりました。(タイトルバックの写真が、現在のシカゴ商品取引所(Chicago Mercantile Exchange Center)です。)1848年は、シカゴ「大爆発」の年だったのです。

南北戦争前夜、「北部アメリカ」の高度成長期に、アメリカ全国に急速に広がりつつあった物流ネットワークのハブとして、シカゴは爆発的な成長期にはいります。1857年には人口9万人を擁する中西部最大の都市となりました。

穀物や材木に加え、豚や牛もシカゴで屠殺処理され、最初の頃は塩漬け処理や加工食品、その後列車での冷蔵輸送ができるようになってからは生肉として、東海岸の消費地に送られました。このため、食品メーカーがたくさんシカゴで勃興し、西から送られてくる材料をシカゴで加工して販売していました。

農業機械もこの時期に大発展します。1930年代に機械式刈り取り機/鋤を発明したマコーミック家は、この地にMccormick Harvesting Machine社(合併を経て現在はInternational Harvester社)を設立、農業の機械化に貢献し、「奴隷の不要な農業」を実現させました。現在、大きなカンファレンスがよく開催されるシカゴの展示場は、その名を冠した「マコーミック・センター」です。

また、小売店舗が発達していない地方を多く抱えていたアメリカで、「通信販売」事業が始まったのも、物流の中心地であったシカゴです。多くの小さな町では、西部劇に登場するような「ジェネラル・ストア」というナンデモ屋さんしか店が存在しないという時代でしたので、モントゴメリー・ワード社の創業者アーロン・モントゴメリー・ワードは1872年、数枚のカタログを作成して配布し、郵便で注文を受けて品物を郵送する、という商売を始めて大成功しました。モントゴメリー・ワードはシカゴ川が南北二股に分かれて北に向かうあたりに巨大な倉庫を建設し、川を隔ててほど近いところには、巨大な郵便局が作られました。1世紀半近くにわたってアメリカの通販小売を支えた同社はしかし、インターネット出現後の2001年に倒産してしまいました。その巨大倉庫は、その後アールデコ風の装飾を加えて小洒落た外観に化粧直しされ、現在はグルーポンの本社がキーテナントになっていて、時代の流れを感じさせます。もうひとつの通販の雄、シアーズ・ローバック社は1886年創業で、一時は世界で一番高い建物の記録を保持したシアーズ・タワー(現在はウィリス・タワー)も川の近くに建っています。

(グルーポンのロゴを冠した、かつてのモントゴメリー・ワードの倉庫。600 West、1908年建設)

産業と物流の大革新が起こり、泥棒男爵たちも含む「起業家」がまだ規制もへったくれもない新世界で大暴れし、シカゴなどいくつかの都市を中心として北部が大成長した結果、南北戦争が起こります。エイブラハム・リンカーンはイリノイ州選出の上院議員で、1860年、シカゴで開催された共和党党大会で、大統領候補に指名されました。当時、北部の産業勢力は共和党を支持しており、南部の奴隷制をベースとした産業構造と対立したというわけです。その後、移民の流入と激しい労働争議の時代を経て、シカゴは現在ではガチガチの民主党の地盤となっており、2008年には再びシカゴから、有色人種初のバラク・オバマ大統領が出たということに、あらためて感慨を覚えます。

現在、シカゴの中心街ミシガン通りがシカゴ川を超える橋のたもとに、リンカーンが現代の男性を諭し導く姿を模した巨大な像が建っています。その目線の先には、川に面して巨大なトランプタワーが屹立しています。あのリンカーンが、かつて自らが指導した共和党の現在の姿を見て、天上界で何を思っているだろう、と思いを馳せてしまいました。

<続く>

出典: Chicago Architecture Foundation River Cruise Guide, Wikipedia

【ナンデモ歴史49】「くさいネギ」シカゴの誕生

アメリカでは新学期も何も関係ないのですが、本ブログの「ベイエリアの歴史」シリーズは、本日より「ナンデモ歴史」としてリニューアルいたします!というか、もともと脱線しまくりでしたが、もはやまるでベイエリアと関係なくなって意味不明というのが理由です。引き続き、「歴女」の琴線に触れる歴史をナンデモ書いていきます。

先日シカゴに行く機会があり、友人たちが「シカゴ建築の歴史探訪リバークルーズ」というのに連れて行ってくれました。4月とはいえ、川面を渡る風は寒く、持参のユニクロダウンジャケットもむなしくガチガチ震えながらも、ガイドのおじさんが1時間半にわたり船上で滔々と語るシカゴとその建築の歴史は、めちゃくちゃネタが満載で、ちゃんと調べたい意欲がわいてきてしまいました。ということで、本日より数回にわたり、シカゴの歴史を書いていきます。

サンフランシスコと比べて、シカゴは「古い町」だと思い込んでいましたが、遡ると実はそれほど大きな違いはありません。シカゴの周辺にはもともと、アルゴンキン系のネイティブ・アメリカンが住んでおり、そこに最初に接触したヨーロッパ起源の人たちは、カナダのフランス植民地からやってきました。17世紀のことです。

【26】で述べたように、「船で欧州からやってきて、海に面した河口を発見して川を遡り、その流域を自国領と宣言する」というのがこの時代の通常のパターンでしたが、フランス人はカナダから五大湖経由でミシシッピ川を発見して下っていき、河口のニューオーリンズに達するという逆方向の経緯でした。そして広大なミシシッピ川流域をフランス領ルイジアナという「自国領」と宣言したのでしたね。

1673年、ルイ・ジョリエという裕福な毛皮商のフランス系カナダ人と、ジャック・マリエットというイエズス会宣教師の二人が、ミシシッピ川の探検に出発しました。まだカブリエ・ド・ラ・サールがニューオーリンズまで達する前のことです。カナダからミシガン湖をわたり、現在のウィスコンシン州グリーンベイから支流を経てミシシッピ川を下りましたが、途中まで行ったところで、ネイティブの人たちがヨーロッパの品物を持っているのを見かけ、スペイン人と出くわすとマズイと判断して引き返すことにしました。しかし、流れに沿って川を下るのは簡単ですが、漕いで遡るのはとても体力がいります。疲れてきたところ、途中でガイド役のネイティブ人が「湖までの近道を知っている」と言うので、それに従うことにしました。一行は、ミシシッピ川から支流のデスプレイン川にはいり、後に「シカゴ・ポルテージ Chicago Portage」と呼ばれる短い陸路を経てシカゴ川に達し、シカゴ川を下ってミシガン湖に至りました。当時、シカゴ川とデスプレイン川/ミシシッピ川はつながっていませんでした。

陸上輸送が発達していなかったこの時代、水路は圧倒的に効率的な交通手段でしたが、川の通行ではところどころ、滝や急流を避けたり、ある川から別の川に移ったりするため、船と積み荷を人間がかついで歩く「ポルテージ」という手段をとらなければなりませんでした。ジョリエ一行が往路でたどった旅程も、途中にいくつかポルテージが必要でしたが、なんせポルテージは大変なので、復路シカゴルートだと「ポルテージが短くて済む」ということが通商をしたい人にはとても魅力的で、これがシカゴの都市としての優位の原点となります。

シカゴ川がミシガン湖に流れ込む河口部分が現在のシカゴです。この付近には、ガイドのおじさん曰く「くさいネギ」(野生のニンニクとの記述もある)がたくさん自生しており、この植物をネイティブの人たちは「シカグワ」と呼んでいたので、これがフランス語風に「シカゴウ」となったのが町の名前となりました。「シカゴ」という言葉の響きはとてもカッコイイのですが、ガイドのおじさんは「イギリスのステキな町の名前がニューヨークの起源なのに、シカゴはくさいネギなのがくやしい」と、このあと数回にわたって登場する「ニューヨークへの対抗意識」を表明しました。

(シカゴの語源となった「くさいネギ」、現在の英語ではrampと呼ばれるらしい)

ちなみに、シカゴはイリノイ州に属しますが、「Illinois」というつづりは、フランス語をご存知の方なら「イリノワ」と読みたくなると思います。「イリニ族」が住んでいたので、「イリニの」「イリニの人」といった意味のフランス語というわけです。

その後、この地域で欧州各国を巻き込んだアルゴンキン対イロコイ、というネイティブ族同士の大きな争いが発生したため、18世紀の数十年にわたり、ヨーロッパ起源の人は定住することができず、放置されていました。

<続く>

出典: Chicago Architectural Foundation River Cruise Guide, Wikipedia

【ベイエリアの歴史48】今日は「フレッド・コレマツの日」です

本日、アメリカ版グーグルの検索トップページは、こんなイラストになっています。1月30日は、カリフォルニア州の祝日「フレッド・コレマツの日」、戦時中に迫害され、戦後名誉回復のために裁判を戦い抜いた日系アメリカ人、フレッド・コレマツ(日本名:是松豊三郎)さんの誕生日を記念するもので、このイラストは勲章(後述)をつけ桜に囲まれたコレマツさん、彼の背後のグレーのプレハブ小屋は第二次世界大戦中の日系人収容所の建物、彼の前のグレーの杭は収容所を囲う鉄条網の柵をあらわしているようです。

コレマツさんは1919年、カリフォルニア州オークランド(サンフランシスコから湾を隔てた向かい側)で生まれました。当時の日系アメリカ人の常として、学業でも仕事でも、希望がかなわず、断念したり失業したりすることが続きました。

そして1942年、問題の「大統領令9066号」が出されます。(今トランプが乱発しているあの「大統領令」と同じ仕組みのものを、ルーズヴェルトがだしたのでした。詳しくはベイエリアの歴史(18)を参照。)悪名高い日系人収容所の悲劇が始まるのですが、この法律は正確には、「日系人は太平洋岸から160kmまでの除外地域から退去しろ」という内容でしたので、自ら退去すればいい、ということでコレマツさんは身元を隠して東を目指しました。しかし途中で捕まってしまい、留置所に送られます。

ALCU(American Civil Rights Union、このところの入国禁止騒ぎで脚光を浴びている団体)の北カリフォルニア支部長と弁護士の助けを経て、コレマツはアメリカ政府に対して裁判を戦い始めます。いったんは保釈金を払って解放されたのに、また逮捕され、ユタ州にある収容所に送られてしまいました。収容所から裁判を戦い続け、有罪となっても控訴し、最高裁まで行きましたが、1944年に最高裁でも「日本人のスパイ活動は事実であり、戦時下では軍事上必要なことである」との判断により、有罪は覆りませんでした。

戦後は沈黙を守り続けていましたが、1980年にカーター大統領により日系人収容所の調査が始まって見直しが行われ、1988年には議会が強制収容に対する謝罪と補償を決めました。この時代の変化を受けて、1982年にコレマツも、法学者や日系人弁護士などの助けを得て、再審を求めて、再び戦い始めます。

1983年、北カリフォルニア州連邦地裁において、逆転無罪の判決を勝ち取り、コレマツの犯罪歴は抹消されました。法廷でコレマツは、「私は政府にかつての間違いを認めて欲しいのです。そして、人種・宗教・肌の色の関係なく、同じアメリカ人があのような扱いを二度と受けないようにしていただきたいのです」と述べました。そして1998年、クリントン大統領は、「アメリカ市民として人権のために戦った名誉」のしるしとして、コレマツさんにアメリカ文民向け最高位である大統領自由勲章を授けました。コレマツさんはその後、2005年に亡くなり、2010年にカリフォルニア州は1月30日を祝日として制定しました。

収容所内では、コレマツさんは日系人仲間から排斥され孤立していました。アメリカ政府に協力するほうがよいので命令に従う、と考える日系人が多かったため、政府を相手に訴訟するなどけしからん、というわけです。収容所内では、コレマツさんに限らず、立場や考え方の対立で、仲間内どころか、家族の中でも厳しい対立が数多くあり、戦後日系人コミュニティを分断する深い傷を残しました。(ジョージ・タケイによる収容所体験を描いた「Allegiance」というミュージカルでは、このあたりの事情がわかりやすく描かれていました。)トランプ大統領による人権侵害に対する静かな抗議として、グーグルはフレッド・コレマツさんをページトップに掲げています。日本ではほとんど知られていないですが、この機会に、皆様にもコレマツさんの業績についてぜひ知っていただきたいと思います。詳しくは、ウィキペディアなどを参照してください。

 

【ベイエリアの歴史45】1968年民主党の混乱と党内南北問題

私の頭では、「共和党=右、戦争推進、白人中心、インコンベント(既存勢力)、田舎」「民主党=左、戦争反対、ダイバーシティ賛成、チャレンジャー、大都市/カリフォルニア」という構図がこびりついてしまっているのですが、歴史的に見ると、こうした要素の組み合わせは昔と比べて大きく変わっており、その地盤とする地域も大幅に組み変わっている、というのを最近知り、認識を新たにしています。

そもそも、というところまでたどると、「奴隷解放」のアブラハム・リンカーンは、北部都市部産業家を代表する共和党であり、それに対抗した伝統的南部の勢力が民主党でありました。もっと近代になってからを見ても、1933年のフランクリン・ルーズベルトから1969年のリンドン・ジョンソンまでの36年間のうち、共和党の大統領はアイゼンハワー(8年)だけしかおらず、実は民主党のほうが「インコンベント」な存在でした。カリフォルニア州も、州として成立したときに「自由州」を選択していたのですから、過去には共和党が強かったというのも言われてみればそのとおりです。

前回書いた1964年では、共和党大会が大騒ぎでしたが、次の1968年では民主党大会のほうが大荒れとなりました。現在の構図に至る両党の変容の歴史は、多くの要素と長い年月がかかっていますが、1968年はその最初の転換点に当たります。

ジョンソンは、任期中に公民権法を成立させましたが、一方ではベトナム戦争を拡大し、戦争継続を支持していました。1968年といえば、ベトナム反戦運動が激化して各地で暴動やデモが頻発し、マーティン・ルーサー・キングが暗殺された年です。ジョンソンも再選を目指しましたが、戦争政策への反対で支持率が低下し、早い段階で予備選を脱落してしまいました。その上6月には、本命と目されたロバート・ケネディまでが暗殺されてしまい、候補者選びは大混乱となりました。「主戦派」は、副大統領だったヒューバート・ハンフリーを代わりの候補として立て、一方の「反戦派」ではユージーン・マクガヴァンが有力候補となりました。

さてその予備選ですが、実は憲法でやり方が決まっているわけではなく、州が主催する投票制の「予備選(プライマリー)」をやるところと、州の党組織が主催する話し合い、つまり「コーカス」でやるところが混じっています。(予備選でも、オープンかクローズドか、など細かい違いがあり、さまざまです。)

そういうわけで、広い範囲の人からの投票だと不利と見たハンフリーは、「予備選」州を避け、党幹部の言い分が通りやすい「コーカス」だけで票を集めるという、合法だが裏の手を使って勝ち抜き、8月の民主党大会にこぎつけました。当時はそんなことができたのですね、驚きです。

党大会開催地のシカゴでは、反戦派が集まって抗議行動を行ったのに対し、シカゴ市長は警察を大量動員して厳戒を敷き、法に触れてもいないデモ参加者や、有力なジャーナリストまでも拘束したり尋問したり、デモ隊に放水したりしました。日本なら、東大安田講堂事件の頃のようなイメージの暴力沙汰が頻発し、それがテレビで全国に放映されたのです。

結局、ハンフリーがそのまま候補となりましたが、多くの党員の支持を受けみんなが納得するという「レジティマシー」が欠けたままで党が分裂。大統領本選では301対191というこれまた大差で、共和党のニクソンに敗れました。これで民主党は大きなダメージを受け、再建にはたいへんな時間がかかりました。

その後、2009年のブッシュ子までの40年間に、民主党が政権をとったのはカーターとクリントン夫の2回のみ(合計12年)で、共和党が「インコンベント」という私のイメージができあがります。

そしてもう一つ、興味深いのは、カーターはジョージア州、ビル・クリントンはアーカンソー州が地盤、つまりいずれも「南部の民主党」という、伝統的な幹部のポジションにあります。その流れでいくと、現在のオバマは、アフリカ系であることに加え、「北部の民主党」(イリノイ州が地盤)という意味でも、これまでの慣習を破っていました。

ヒラリー・クリントンは、夫が知事のときにはアーカンソー州のファーストレディでしたが、もとはシカゴ出身、大学は東部、上院議員の選挙区はニューヨークという、「北部の民主党」の色が強いように思います。そして、昨日発表された、彼女のランニングメート(副大統領候補)、ティム・ケーンは、南部のヴァージニア知事でカトリック。単に「白人男性」としてヒラリーとのバランスをとるという意味だけでなく、「南部」と「アイリッシュ=カトリック」という、民主党の中心勢力に近い人物ということもできます。オバマの副大統領であるジョー・バイデンは北部のアイリッシュ=カトリックであり、陽気な人柄で人気がありますが、ティム・ケーンはその雰囲気に近いものも持っています。現在の民主党では、「北か南か」はあまり関係ないようで、どこまで「南北」を意図したものかはわかりませんが、カーターとクリントンについてのウィキペディアの記述で、こんなことに初めて気がついて面白いと思った次第です。

(写真はヒューバート・ハンフリー)

出典:ウィキペディア

【ベイエリアの歴史44】1964年共和党大会のあったサンフランシスコ

オハイオでは共和党大会で、相変わらずお騒がせが発生しています。これの関連でよく言及されるのが1964年の共和党大会なのですが、調べてみるとこの大会、なんとサンフランシスコ(正確には市の南にあるDaly CityのCow Palaceという催事場)で開催されているとわかり、私の頭の中は???でいっぱいになりました。

カリフォルニアはガチガチのブルー・ステート(民主党支持州)なんじゃないの?と脊髄反射したわけですが、実は大統領選挙でカリフォルニアがテッパンの民主党州になったのは比較的最近、92年のクリントン夫のとき以来で、それまでは1952年から、ヒッピーの時代も含めてずっと、ブッシュ父まで、ほぼ一貫して共和党だったのです。ただの一度を除いては。

1964年といえば、前回書いたジャニス・ジョプリンとほぼ同時代、前年の1963年にはJFケネディが暗殺され、その前後はキューバ危機やベトナム戦争、そして公民権運動という騒然とした時代でありました。ベイエリアでは、ショックレー・トランジスタは1955年にできて、半導体産業が芽生えてはいましたが、基本的にはまだ農業と軍需が主要産業でありました。

当時の共和党(今でもある程度そうですが)は、「東部エスタブリッシュメント」である幹部が指名した毛並みの良い人がすんなり候補者となるのが普通で、その年も、ご存知大富豪家出身でニューヨーク州知事だったネルソン・ロックフェラーが幹部ご推薦でした。しかし、予備選でダークホースのアリゾナ州選出上院議員、バリー・ゴールドウォーターが忽然と登場して、ロックフェラーを蹴散らしてしまいます。代わりに、終盤になってから、ペンシルバニアの大地主家出身のビル・スクラントンを引っ張りだしましたが、得票数では及びません。

東部エスタブリッシュメント幹部は穏健派で、公民権法にも理解を見せ、対共産圏の対応も現実的でしたが、当時急成長していたカリフォルニアや西南部新興州の庶民は、「ソ連をつぶせ」「公民権法をつぶせ」と極論をぶつ、軍人出身のタカ派であるゴールドウォーターに大喝采を送って支持したのでした。第二次世界大戦から朝鮮戦争・ベトナム戦争と、アメリカにとっては太平洋側がずっと「前線」であり、19世紀の中国人排斥などに見られるように、当時のカリフォルニアでは人種差別意識が激しく、今とはずいぶん違う気分が支配していました。

そんなサンフランシスコで開かれた共和党大会では、幹部がなんとかゴールドウォーターを引きずり降ろそうとあの手この手の謀略を展開したといいます。それまでの伝統的手段は、文字メディアにスキャンダルをリークしたり、女を使ってスタッフをはめたり、種々の脅しをかけたりなどで、それに加えて当時はテレビが本格的に普及し始めた時期で、「テレビでゴールドウォーターに喋らせれば、あまりに過激な言動に党員が驚いて支持をとりさげるだろう」と、テレビを積極的に入れました。しかしこれがまた逆効果。ゴールドウォーターの選挙本部(市内マークホプキンス・ホテル)には怒れる支持者が押しかけて騒ぎ、後に伝記作者が「右翼のウッドストック」と記しています。

結局阻止工作は不発に終わり、ゴールドウォーターが正式に共和党の大統領候補となりました。しかし、11月の本選挙において、あまりに過激なゴールドウォーターは、歴史的大地滑り敗北を喫しました。ゴールドウォーターが勝ったのは、地元のアリゾナの他、公民権法反対の強かった深南部5州のみ。カリフォルニアで共和党の連勝がただ一度途切れたのが、この年だったのです。選挙人数では、民主党のリンドン・ジョンソン486票に対し、ゴールドウォーターはわずか52票でした。

・・という具合に、予備選から共和党大会にかけての経緯はなにやら今年の状況となんだかよく似ているため、このままトランプが候補になったら、ゴールドウォーターと同じことになってしまうのでは、と共和党幹部は恐れおののいているのだと思います。昨日のメラニア・トランプの演説が、2008年のミシェル・オバマをあちこちパクっていると大炎上していますが、これを見て「共和党幹部が仕組んだ罠(メラニアのスピーチライターが刺客だった!?)に違いない」と私がつい思ってしまったのも、「ハウス・オブ・カード」の見過ぎだけでなく、こんな1964年の話を読んだせいかもしれません。

(写真はバリー・ゴールドウォーター)

出典:Wikipedia, Smithsonian

ベイエリアの歴史(37)- フランス植民地はビジネスモデル不在

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本日は脱線の回です。今回のフランスでのテロ事件と、アフリカ・イスラム圏の旧フランス植民地の事情が関係あるのかわかりませんが、旧フランス植民地は不安定で争いが多い、といわれます。この点につき、ここまで植民地のビジネスモデルについて書いてきた中で、私なりにいろいろ考えます。簡単に言うと、フランスの植民地は、「ビジネスモデルがなかった」、あるいは何かあったとしてもきちんとエクセキュートできず、このため植民地の住民と共存共栄の関係を築くことができなかったのでは、と考えています。 (26)で書いたように、フランスの植民地は前期と後期に分けることができます。「前期」はアメリカ大陸でしたが、カナダをイギリスに取られ、ナポレオンがルイジアナをやけくそでアメリカ合衆国に売却して、いったん全部なくなってしまいます。古い時代の植民地ビジネスモデルの典型は、オランダ型の「アービトラージ貿易の拠点」であり、より新しいモデルとしてイギリス型の「土地投機」がアメリカで行われましたが、フランスはどちらのモデルも作れず、植民地からの収入よりもメンテナンス・コストのほうが高くなって、植民地を維持できなくなったのでしたね。

さて、そのフランスが再度植民地競争シーンに登場するのは、19世紀半ば頃のナポレオン3世の時代です。この人は19世紀最大の奇人ともいえる超変な人で、別の記事でもう少し詳しく書きたいと思いますが、なにしろ「フランスの栄光を再び」ということで、当時先行していたライバルのイギリスに負けないよう、突如として植民地獲得に乗り出しました。イギリスがまだがっちり確保していなかったところ、つまりは「二級立地」に進出するという「モスバーガー戦略」でありましたが、「選択と集中」を全然せず、アフリカと中近東とインドシナと南太平洋と、などと手当たり次第に戦線を拡大していき、最後はメキシコで致命的なミスを冒して、彼自身の転落につながっていきます。

ナポレオン3世の手当たり次第なやり方は、ちゃんとした「ビジネスモデル」があってやっていたのではなく、イギリスとの競争に煽られ、「国家威信」にドライブされていたように見えます。

イギリスの場合は「土地投機」ですから、入手した土地が価値を生み出すようにしないといけません。現代の土地デベロッパーが、工場を誘致したりショッピングモールを建てたり、アクセスのための道路や鉄道を作るのと同じです。そこで、植民地にプランテーションをつくり、インドやアメリカで綿花を作ってイギリスに持ってきて製品にして売るという仕組みをつくり、そのための輸送や通信のインフラを整備し、人も大量に送り込んでいます。良かったのか悪かったのかの価値評価は置くとして、兎にも角にも植民地に資金と人が投下され、インフラで恩恵を蒙る「味方」も現地にそれなりにたくさん存在しました。

しかし、19世紀後半の短期間に急激に薄く広がったフランスの植民地では、イギリスほどの投資やインフラ整備が行われた様子はありません。「前期植民地」のカナダ・アメリカでも、フランスの「インフラ投資不足」が直接命取りになったのですが、非白人住民の多い「後期植民地」では、現地住民の民族分布を完全に無視した行政区分を敷き、住民の土地所有を認めず、現地住民を低い立場において、搾取する構造を作りました。土地に投資して上がりを得るビジネスでなく、「国家威信」が主な目的であったように見える所以です。

ナポレオン3世がこれほど急激に植民地を拡大できたのは、他のヨーロッパ強国が、ナポレオン戦争後にフランスを封じ込めるための「ウィーン体制」という複雑なパワーバランスをヨーロッパ域内で維持することを重視し、その代わりフランスがヨーロッパの外でジャイアン化して暴れるのには目をつぶっていたという事情もあります。

347px-Dame_Europa_25ジャイアン化したナポレオン3世

そして、ナポレオン3世を選挙で選んだ(彼は最初大統領に当選し、その後皇帝になった)フランス国民は、ナポレオン時代の「大きな領土を持つ栄光あるフランス」を良きものとみなし、そのフランスの領土を再び拡大するナポレオン3世のやり方を支持していました。19世紀ヨーロッパ歴史講義で、講師のロバート・ワイナー教授は「現代でも、フランス国民は一般に広い植民地を持っていたことを誇りと考える傾向が強く、評価の低かったナポレオン3世が再評価される中でも、特に植民地の拡大が彼の功績として見直されている」と述べています。

なお、日本にフランスが最初にやってきたのも、まさにナポレオン3世の時代、日本の幕末でした。それまで江戸時代中期から後期にかけて、日本の沿岸に出没していたのは、おもにオロシャ(=ロシア)とエゲレス(=イギリス)だったのに、この頃突然フランスがやってきて、徳川幕府に取り行ったのは、奇人ナポレオン3世のジャイアン政策のせいです。彼は、当時最大のライバルであったイギリスに対して、植民地では融和的な行動をとることが多かったのですが、日本では例外的に、フランスは幕府、イギリスは薩長と別れて戦いました。結果はみなさまご存知のとおりです。

19世紀後半以降の帝国主義時代、日本から見ると「欧米列強」は、どいつもこいつも同じように、領土拡大にひた走っていたように見えますが、拡大した領土にどれだけ投資して何を作ってどう儲けるか、という戦略において、やはりイギリスがずば抜けて上手かったと言えそうです。スペインは当時すでに脱落気味、ロシア・ドイツ・イタリアはあまりにも参入が遅くて間に合わず、そしてフランスは表面だけイギリスの真似をして領土を拡大したところで終わってしまった、と言えそうです。

出典:Wikipedia, Long 19th Century: European History from 1789 to 1917

ベイエリアの歴史(35) - SF仏教寺院のハロウィーンと移民の出身県

10月31日、サンフランシスコ仏教会では、福岡県人会の追悼法要が行われ、福岡出身の夫が招かれて行ってきました。 県人会メンバーのうち、今年亡くなられた方を偲ぶ会、ということなのですが、お盆ではなくハロウィーンの日にやる、ということは、カトリックの「死者の日」に合わせているのかなぁ?とぼーっと考えています。ハロウィーンとは「死者の日」で、その日にカトリック教会では、その年になくなった信者さんの「追悼ミサ」をしますので、「そのまんま」であります。

先週のサンノゼ日系ミュージアムでのジミさんのお話では、サンタ・クララ・バレーにやってきた農業移民の出身地として多かったのが、広島・和歌山・島根・熊本・岡山の5県であった、ということを伺いました。それぞれの県出身者は、自然と同じ地域に集まる傾向があり、サンノゼは広島、ロスガトスは和歌山、といったような色分けがありました。上記の福岡県人会のサイトでその歴史を読むと、1900年代に福岡県からサンフランシスコとオークランドに渡った人たちが、現在の福岡県人会の源流となっている、とのことです。

ハワイへの移住者は広島と山口が多かった、との記述もあります。山口県は、ハワイ移民事業を推進した井上馨の出身地というつながりがありますが、ここでも広島が出てくる背景は、今のところよくわかりません。広島県の中でどの地域から海外移民が多かったか、ということを分析した資料などをいくつか読むと、人口に対して耕地面積が少なかった、藍の産地で外国からの安価な製品がはいってきて廃れて失業が多く出た、などを背景として挙げていますが、似たような別の事情が日本の他の地域で数多くあったはずで、これだけでは「なぜ広島ばかりが多いのか」という点について説得力がありません。特定の歴史的背景(かつての天領や譜代大名の地域で、明治政府に疎外されたとか?)の共通点でもあるかな、という仮説も考えましたが、これといったものが見つかりません。今のところ、「全国あちこちにできた移民会社のうち、特に成功した会社があったのがこれらの地域だった」のでは、という仮説を置いておくことにします。

さて、上記のサンフランシスコ仏教会は西本願寺系の浄土真宗のお寺だそうですが、中のつくりは、金色の祭壇の前に木の長椅子式の礼拝台が左右二列に並ぶ、「お寺と教会の和洋折衷」という感じです。

SFtemple

サンフランシスコ仏教会内部の様子

サンフランシスコ日本町の近くには、このほか、法華宗サンフランシスコ仏教会と、曹洞禅宗の桑港寺が集まっています。一方、サンノゼ日本町では、合同メソジスト教会の隣に浄土真宗のSan Jose Buddhist Church Betsuinが仲良く並んで町の中心を形成しており、ちょっと離れたところには、日蓮宗のNichiren Buddhist Templeがあります。他にも、日系人が多く入植したカリフォルニアの町には、仏教寺院が現在でもいくつも残っています。

これらのアメリカにおける仏教寺院は、1900年代前半の日系移民が、厳しい生活の中での心の支えとして求めてできたものですが、初期の日本語しかできない一世の時代と、その後アメリカ生まれの2世以降の時代ではその意義や存在も変わってしまいます。

現在の最大勢力である「米国仏教団」は、上記で述べた本願寺系浄土真宗で、全米に信徒が16,000人ほどいます。一世の時代には、日本から僧侶がやってきて日本語で活動していましたが、その後は英語しかわからない人が増えてしまい、日本のお坊さんで英語のできる人が少ないために、日本との人のつながりがだんだんなくなり、現在では日本から僧侶が来ることはないそうです。今日、サンフランシスコで法要を行ったのも、日系アメリカ人のお坊さんでした。米国の仏教は、第二次世界大戦中の日系人収容によりいったん消滅し、その後復活して現在に至りますが、その歴史の中で、仏教団の「西本願寺系」では、当地では入手困難な畳ではなく木の長椅子を入れたり、日曜日に法話会をしたり、上記のようにハロウィーンに追悼法要をやるなど、地元アメリカの風習に合わせる努力をしています。

しかし、こうした迎合的なやり方を否定する原理主義的な人たちも常にいます。浄土真宗の中では、東本願寺系が「原理主義」なのだそうです。現在のアメリカの信徒数では「西」派が圧倒的に多く、カリフォルニアは「西」派、「東」派はシカゴなどカリフォルニア以外という図になっているのだそうです。

ちなみに、そもそもハロウィーンというのも、カトリックがスコットランド・アイルランドの地元ケルト文化のお祭りを取り入れた迎合的なイベントです。といってもカトリック教会でも、ハロウィーン翌日の「諸聖人の祝日」は正式に祝日になっていますが、ハロウィーンは公式なものではありません。

カトリックは世界各地に広がっていく中で、積極的に現地の文化・習慣を取り入れてきました。日本のカトリック教会でも、七五三には子どもたちのためのミサをやり、千歳飴をくれました。私の地元のその教会は、大きな瓦屋根の木造建築、灯籠と障子風の内装、掛け軸の聖家族絵、日本画家による十字架の道行、など、サンフランシスコ仏教会とは逆方向に「お寺と教会の和洋折衷」をした和風建築でした。日本ではお寺でもクリスマスを祝ったりしますし、宗教的に寛容で、良い国であります。

一方、プロテスタントは宗派にもよりますが、全体的にはピュアに教義を守る傾向があります。ハロウィーンも、「異教のお祭りである」ということで、プロテスタントでは排除する傾向があり(でもそれ言ったら、クリスマスだってそうなんですけど・・)、フランスやイタリアなどのカトリック国も含め、欧州ではケルトの地であるアイルランド・スコットランド以外ではほぼ無視されているようです。

ハロウィーンが現在のような、コスプレバカ騒ぎの日になったのは、アメリカにはいってきてからです。(29)で述べたアイルランドからの大量移民が、19世紀にアメリカに持ち込み、その後徐々にアメリカで(おそらく、お菓子メーカーの謀略で?)広がり、宗教色が抜けたイベントとなりました。

原理主義とローカリゼーションの対立は、いつの時代のどの宗教にもあることですが、こんなちっちゃなアメリカの仏教にもそんな分裂があるというのは少々驚きです。

出典:サンフランシスコ仏教会、サンノゼ日系ミュージアム講演、Wikipedia、米国仏教団サイト

ベイエリアの歴史(34)- 新技術を使ったブルー・オーシャン戦略

同じカリフォルニアで、同じように差別を受けた日系移民と中国系移民が、どう違ったのか、どう同じだったのか、というのは私の大きな興味の対象です。そのいくつかの回答が、昨日のサンノゼ日系人ミュージアムでのお話や展示で、わかってきました。以前に、日系移民が農業アントレプレナーとして成功したのは、武士が指導者として混じっていたからではないか、という仮説を挙げましたが、どうやらこの仮説は間違っていたようです。カリフォルニアへの日系移民が本格化したのは、1890年から1900年頃なので、すでに明治も中期にはいり、武士階級はなくなっていました。こちらで「どういう人達がやってきたか」という点を調べたり話を聞いたりしても、いずれも「農家出身者」であるとしか出てきません。幕末でもすでに、下級武士と富農との境目ははっきりしなくなっていたので、混じってはいたでしょうが、特に「武士が率いてきた」ということではなさそうです。

その時代までの農業とは、「船による長期輸送・長期保存に耐えられる農産物、またはそのように加工した、広い市場で売れるコモディティを、大量生産できるように最適化する」というのが典型的なビジネスモデルでした。穀物がどの土地でも重要なのはこのためであり、商品作物としては、アジアの胡椒、西インド諸島やハワイの砂糖、イギリスの毛織物、米国南部やインドの綿花、日本の絹糸やお茶など、いずれもこのパターンに当てはまります。19世紀中頃にカリフォルニアでフルーツ農業が盛んになったときも、輸送は「船」から「鉄道」に代わりましたが、ドライフルーツにして販売していたので、まだこの伝統的パターンでした。

サンタクララ・バレー地域に入植した日系移民も、最初はフルーツ農家に雇われていましたが、自分たちが食べるものを作るために、半端な土地を与えられていました。ちょうど、イギリス人に虐げられたアイルランド人と同じ状況ですね。アイルランドではそこでジャガイモを作りましたが、日系移民はいろいろな野菜を作りました。半端な土地なので、形もばらばらな傾斜地であったワケですが、そこを日系人は、「棚田/段々畑」をつくる技術を活用して、うまく灌漑(英語ではcontour irrigation)を行ったそうです。不揃いな土地を耕したり、収穫物を出荷しやすく整形したりするための道具も、自分たちで工夫して作り、そのノウハウを日系人コミュニティの中で共有して、それを強みとしていました。ミュージアムでは、そんな道具がいろいろと展示されていて、説明を聞きながら私が「なるほど、オープンソース方式ですね」と言ったら、ソフトウェア会社の方が「今と逆ですね(笑」とすぐにツッコんでくださったのが秀逸でした。

こうして作った野菜を、自家消費だけでなく、外にも販売するようになり、徐々にもっと大きな土地を入手して拡大していきました。その原動力となったのが、当時の新技術「鉄道」でした。その頃には氷を積んだ冷蔵車があったようですし、農村サンノゼから、大都会サンフランシスコへ、短時間で野菜を輸送することができるようになっていたので、保存のきかない生の野菜が、初めて広い消費市場に出せるようになったのです。

サンノゼ日本町は、当初は「すでにあったチャイナタウンの近くに日本人もはいってきた」ことから始まったのですが、たまたま鉄道の駅に近く、その後別の日系入植地でも、鉄道駅近くに集中して住むようになりました。このロジスティクス革命が、ちょうどその時期にはいってきた日系人のもつエキスパティーズと合致したわけです。当時はそういうわけで、白人のプランテーションではフルーツを作っていたので、日系人が野菜を作っても競合せず、いわば「ブルー・オーシャン」戦略であったわけです。(もちろん、当時の人たちがそのように考えてやっていたわけではなく、振り返ってみるとそういうことだったんだ、というだけの話です。もともとブルー・オーシャンとはそういうモノ、だそうですが。)

日系農家の手によって、最新の「鉄道」という技術を使った、「近郊農業」という新しいビジネスモデルが出現したのです。

そうは言っても、差別による問題もその周辺にはいろいろあり、そのあたりは次回以降に書いていきます。

日系農家には、農業技術を工夫し、道具を作り、共有するという「農業経営」の技術とノウハウがあったことになります。このことは、農村出身者であっても、ある程度の教育を受けることができた、という当時の日本の状況を反映しており、まだ教育を受けられなかった中国の農民との一つの違いであったのではないかと思います。武士が直接来たわけではないですが、失業した下級武士の多くが学校の先生になったので、私の仮説も少しは合ってる、といえるかもしれません。(負け惜しみ、すいません・・)

もう一つの違いは、「お嫁さんが来た」ということです。日系農家でも、最初は中国系同様に、若い男性ばかりが来ており、白人の女性との結婚はできませんでしたが、日本からお嫁さんを連れてくる斡旋業ができ、「写真花嫁」が日本からやってくるようになりました。そのきっかけは、1907年にできた「日米紳士協定」です。当時、日本は日清・日露戦争に勝ち、先進国リーグの一角を占めるようになって、アメリカから警戒の目で見られるようになっていました。その警戒を解くべく、日本は「アメリカに新規の移民は送らない」という約束をします。ただ、このとき「女性だけは送ってもいい」という例外が設けられたので、それまで年季奉公人を送り込んでいた移民業者たちは、写真花嫁にピボットしました。写真だけのお見合いをし、実際に会ってみたら全然違っていた、という悲劇も多数ありましたが、それでも「結婚式当日に初めて会う」ということが珍しくなかった時代ですから、そのまま淡々とアメリカでの生活に落ち着いていった女性のほうが多かったようです。こうして日系移民は、アメリカで家族をもち、定着することができたワケですが、これも当時の中国と日本の本国の政治状況の違いを反映しています。

当時日系人がやっていた近郊農業での厳しい労働は、現在メキシコ系の移民が担うようになっています。ドナルド・トランプがメキシコ移民を排斥する発言をし、それを多くの人が喝采するという構図が、どうしても私には不愉快でなりません。現在の日系人コミュニティにおいて、「すでに日系人差別はないので、コミュニティとして政治的な争点はなくなったのでは?」と質問したところ、「いや、全然そんなことはない。その証拠に、今だってトランプが支持されているではないか」と若手リーダーの一人が答えてくださったのが、印象に残っています。

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(メキシコではJesus=ヘスースという名前が多い。de nadaは「どういたしまして」のスペイン語。)

出典: San Jose Japanese American Museum展示・説明、Mr. Jimi Yamaichi講演より