【ナンデモ歴史52】小野但馬守政次追悼〜激辛大河のベルばら世代的考察

私は歴女ですから、大河ドラマはけっこう見ています。アメリカでも、日本語チャンネルで一日遅れでやっております。

そして、「おんな城主直虎」33話は、ネットで騒然となっているので皆様もご存知のとおり。私も、(少なくとも私の中では)このドラマは歴史に残る名作となったと思っています。

とはいえ、これまでも「低視聴率」とバカにされてきたこの作品、今まで批判し続けてきた方が今回もこんな批判を書いております。

http://biz-journal.jp/2017/08/post_20278.html

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確かに、「近藤がなぜ政次を処刑したのか」については、少々わかりづらいところでもあり、私もちょっとひっかかっていました。そもそも、ウィキペディアで「史実/通説」とされているものを読んでも、「井伊を裏切った」かどで徳川が政次を処刑するというのも変な話だし、井伊が恨みを持って処刑したのなら、なぜ彼の甥とその子孫を末代まで井伊の主要な家臣として処遇したのかもわかりません。このあたりの事情は謎なのですね。

でも、愛あふれるツイッター民の皆様のおかげで、脚本家さんがあちこちに仕込んだヒントがわかり、このお話の中では私なりに腑に落ちました。アメリカ時間で見てからもう2日経っているのに、歴女の血が騒いで仕事が手につかないので、この件以外の感想も含め、私的考察をここに吐き出してしまいたいと思います。

(1)寝返りのエビデンスと近藤のメンツ

まず、近藤が感情的に政次および井伊を恨んでいることが唯一の動機ではありません。確かに、過去の因縁もあるので「嫌い」ですが、それは遠慮なく「やっちまう」ことができる補助的な理由に過ぎません。

本当の動機は、「どさくさにまぎれて井伊谷を自分の領土にしたい、絶好のチャンスだ」という、この時代の武将のごく当たり前の行動様式でしょう。これは、政次が捕らえられたときに、近藤自らが言っています。(「これも世の習いだ、悪く思うな」)

その場合、近藤も今回あらたに今川方から徳川方に寝返るにあたり、本当ならば「寝返りますよ」という証文だけでは弱く、敵方の将の首というエビデンスが欲しいところ。直虎も政次も、当初の「プランA」では「関口の首」をお土産にする予定でした。

しかし、関口も寝返ってしまい、ちょうどよいお土産がなくなってしまった。32話で政次が、関口の家来が引き上げたという話を聞いて、顔を曇らせたのはそのためでしょう。彼は「最悪の場合、自分の首が必要になるかも」とこのとき思ったのではないでしょうか。

さらに、近藤が、家康自身に「切り取り次第」を認めさせるためには、何かしらの大義名分が必要でした。(家康は前回、近藤が政次のことをけなすのを聞いても、「じゃあ井伊を攻めて切り取ってもイイヨ」とは言いませんでしたし、今回も近藤のヤラセを疑っていました。)

それで、近藤は「今川方である政次が徳川(≒武田)に弓を引いた。徳川に味方すると言ったのはウソで、ヤツは大嘘つきの二重スパイであった」とでっちあげ、その首を今川の将の首として、寝返りのエビデンスにしようとした、ということだと思います。(そして、先を急ぐ家康も、疑っていながら近藤に丸投げせざるをえなかった。)

過去の遺恨は材木の件などの「ご近所のイザコザ」程度ですが、この局面でもし直虎と政次が逃亡したり、ヤラセが露見したりすれば、今度こそ近藤のメンツおよび立場へのダメージははるかに大きくなります。そうなれば、近藤は徳川≒武田から自分が責められたくないので、口封じのためにも本気で井伊に攻め込むでしょう。井伊には、どうやらまとまった武力は龍潭寺の僧兵ぐらいしかないようで、とても勝てない。蹂躙されてしまう。そこまで考えて、政次は、近藤のでっちあげストーリーにあえて乗ることにしたのでしょう。

要するに、関係者全員が、近藤のヤラセも政次の立場もうすうすわかった上で、出来レースをやっているということになります。この時代、武力がないということは残酷なことです。

(2)近藤の正当性をくつがえす

近藤は、直虎と政次がつるんでいることは前から見破っていたでしょう。徳政令の話のときに、今川館で政次が「井伊が困ると自分には好都合」と言ったのに対し、「好都合、でござるか?」と疑っています。さらに、直虎は家康に対してすでに「政次は味方」と宣言してしまっています。

ここで「今川方の首」として差し出す政次と直虎は同チームで、直虎も実は今川方だと主張すれば、井伊家が旧所領を安堵してくれという話も潰すことができ、近藤は自分が乗り込むことを正当化できます。

直虎チームとしては、「近藤が正当性を持ってしまう」ことを阻止するためには、政次と直虎の立場を切り離すことが必要になってしまいました。井伊はちゃんと徳川に恭順するつもりだったのに、政次が裏切っただけだ、井伊はちゃんと処遇しろ、と言えるようにしておかないといけません。

それで、「大河史に残るラブシーン」との呼び声の高い、罵倒合戦という命がけの大芝居をうちました。それがなければ、近藤の井伊への侵攻は止められても、井伊の本領回復ができなくなります。

ドラマでは見えませんが、磔にするのは見せしめの意味ですので、川のこちら側に、見物人がいたかもしれません。見物人はもともと直虎びいきの井伊の住民ですから、その場面を見て、「直虎あっぱれ、やはり直虎にうちの殿様に戻ってほしい」と思ったことでしょう。

このあと、能面の顔になった直虎が近藤に、「鏃のない矢の件は黙ってやり、近藤を功労者と言い伝えてやるから、井伊の旧領を返せ」と迫ったりでもするのでしょうか?楽しみです。

(3)家康に貸しをつくった

この時点で、徳川はまだ弱小の豆狸であり、信長に踏んづけられたり信玄に書状を鼻紙にされたりしています。家康が今回、土下座後ずさりで直虎を見捨てざるをえなかったのも、大ボス信玄の「早く来い」というお下知に背いたら、自分自身があっという間に鼻をかんで捨てられてしまうからです。

その中でおこった、この一連の悲劇のおかげで、家康は井伊に大きな借りを作ることになってしまいました。このあと、築山殿の件もあり、井伊への「借り」カウンターはさらに高速回転します。

その後の家康の井伊直政(虎松)への扱いが「破格の厚遇」となっていくのは、そんな心理的負い目もあるのかな、と想像します。直親を見殺しにしたという罪悪感を背負っていた政次は、こんどは自分を見殺しにしたことを「家康への貸し」として押し付けたわけです。どこまで意図したことかわかりませんが、彼は、「新参者」「外様」であった井伊家が、徳川でのし上がり、徳川幕府が終わるまで300年近く続くための捨て石になった、と考えると楽しいです。

結果的には、大企業の織田や武田でなく、早いラウンドでベンチャー企業徳川に投資(貸しですが・・・)して、その後大化けしてよかったね、ということになります。

ただ、なぜ、斬首や切腹でなく磔だったのか、についてだけは、演出上の都合だったのかな、とも思いますが。

(4)革命家の甘美な陶酔

なお、このときのふたりの心情については、もう語り尽くされているので、詳細は略しますが、一つだけあまり言われていないことを付け加えておきます。私は、ある意味で「革命家の甘美な陶酔」のようなものを二人だけで共有していたというふうに考えたいです。

ベルばらがあれだけ劇的なのは、オスカルとアンドレが「共に革命に身を投じた」からです。単に同じ理想、というより、「革命」という言葉にはなんとなくエロティックな、自己陶酔するような風味があるので、あえてこの言葉を使います。

ドラマではそれよりもはるかに規模の小さなレベルではありますが、直虎と政次は「同士として共に今の悲しい世の中を変えたい、そのために自分は地獄に落ちてもよい」という情熱を共有していました。その対象がイデオロギーではないので革命とは呼びませんが、彼らが目指したのは、穏やかな里の風景や、陽の光の中で打つ囲碁が象徴する、「人々が幸せに暮らす、ふるさとの安寧」ということで、目指すところはある意味で同じです。それは、江戸時代の歌舞伎のような「お家大事、お家に対する忠義」というイデオロギーとは違い、また普通の恋愛とも違います。(恋愛感情も、多分に混ざっていたとは思いますが。)

そして、一人で黙って悪者として死んでいった「樅の木は残った」の原田甲斐と違って、ふたりで一緒に地獄に堕ちるのだから、ますます甘美ですね。

(5)聖ロンギヌスの槍

ツイッターでこの言葉を見かけ、調べたら面白かったので、画像にはこれを使いました。

キリストと聖ロンギヌス - フラ・アンジェリコのフレスコ画(15世紀)

キリストと聖ロンギヌス - フラ・アンジェリコのフレスコ画(15世紀)

 

現在のオフィシャルな聖書には「ロンギヌス」という名前は出てこず、ただ「ローマの兵士の一人が、十字架上のキリストを槍で刺したら、血と水が一滴流れ落ちた」というだけです。なので、私はこの話は知りませんでした。

しかし、聖書にはたくさんの「外伝」があり、その一つにこの兵士の名前がロンギヌスとあるそうです。彼はもともと盲目で、キリストの返り血が目に入って見えるようになり、改心してキリスト教布教を行ったことで、その後聖人に列せられ、その槍は勝利をもたらす「聖遺物」という伝説になって人々が探し求めたといいます。

日本では、ゲームの中でよく知られているものらしいです。

槍をさす構図や、直虎の尼頭巾に一滴だけ飛び散った血の飛沫が、この逸話を思い出させるようです。

前回32話の、小野家臣団の前で振り返る政次という構図が、レンブラントなどのオランダ絵画のようだという指摘もありました。

なにしろ、歴女的にはとても心躍る大河ドラマであります。