ベイエリアの歴史(34)- 新技術を使ったブルー・オーシャン戦略

同じカリフォルニアで、同じように差別を受けた日系移民と中国系移民が、どう違ったのか、どう同じだったのか、というのは私の大きな興味の対象です。そのいくつかの回答が、昨日のサンノゼ日系人ミュージアムでのお話や展示で、わかってきました。以前に、日系移民が農業アントレプレナーとして成功したのは、武士が指導者として混じっていたからではないか、という仮説を挙げましたが、どうやらこの仮説は間違っていたようです。カリフォルニアへの日系移民が本格化したのは、1890年から1900年頃なので、すでに明治も中期にはいり、武士階級はなくなっていました。こちらで「どういう人達がやってきたか」という点を調べたり話を聞いたりしても、いずれも「農家出身者」であるとしか出てきません。幕末でもすでに、下級武士と富農との境目ははっきりしなくなっていたので、混じってはいたでしょうが、特に「武士が率いてきた」ということではなさそうです。

その時代までの農業とは、「船による長期輸送・長期保存に耐えられる農産物、またはそのように加工した、広い市場で売れるコモディティを、大量生産できるように最適化する」というのが典型的なビジネスモデルでした。穀物がどの土地でも重要なのはこのためであり、商品作物としては、アジアの胡椒、西インド諸島やハワイの砂糖、イギリスの毛織物、米国南部やインドの綿花、日本の絹糸やお茶など、いずれもこのパターンに当てはまります。19世紀中頃にカリフォルニアでフルーツ農業が盛んになったときも、輸送は「船」から「鉄道」に代わりましたが、ドライフルーツにして販売していたので、まだこの伝統的パターンでした。

サンタクララ・バレー地域に入植した日系移民も、最初はフルーツ農家に雇われていましたが、自分たちが食べるものを作るために、半端な土地を与えられていました。ちょうど、イギリス人に虐げられたアイルランド人と同じ状況ですね。アイルランドではそこでジャガイモを作りましたが、日系移民はいろいろな野菜を作りました。半端な土地なので、形もばらばらな傾斜地であったワケですが、そこを日系人は、「棚田/段々畑」をつくる技術を活用して、うまく灌漑(英語ではcontour irrigation)を行ったそうです。不揃いな土地を耕したり、収穫物を出荷しやすく整形したりするための道具も、自分たちで工夫して作り、そのノウハウを日系人コミュニティの中で共有して、それを強みとしていました。ミュージアムでは、そんな道具がいろいろと展示されていて、説明を聞きながら私が「なるほど、オープンソース方式ですね」と言ったら、ソフトウェア会社の方が「今と逆ですね(笑」とすぐにツッコんでくださったのが秀逸でした。

こうして作った野菜を、自家消費だけでなく、外にも販売するようになり、徐々にもっと大きな土地を入手して拡大していきました。その原動力となったのが、当時の新技術「鉄道」でした。その頃には氷を積んだ冷蔵車があったようですし、農村サンノゼから、大都会サンフランシスコへ、短時間で野菜を輸送することができるようになっていたので、保存のきかない生の野菜が、初めて広い消費市場に出せるようになったのです。

サンノゼ日本町は、当初は「すでにあったチャイナタウンの近くに日本人もはいってきた」ことから始まったのですが、たまたま鉄道の駅に近く、その後別の日系入植地でも、鉄道駅近くに集中して住むようになりました。このロジスティクス革命が、ちょうどその時期にはいってきた日系人のもつエキスパティーズと合致したわけです。当時はそういうわけで、白人のプランテーションではフルーツを作っていたので、日系人が野菜を作っても競合せず、いわば「ブルー・オーシャン」戦略であったわけです。(もちろん、当時の人たちがそのように考えてやっていたわけではなく、振り返ってみるとそういうことだったんだ、というだけの話です。もともとブルー・オーシャンとはそういうモノ、だそうですが。)

日系農家の手によって、最新の「鉄道」という技術を使った、「近郊農業」という新しいビジネスモデルが出現したのです。

そうは言っても、差別による問題もその周辺にはいろいろあり、そのあたりは次回以降に書いていきます。

日系農家には、農業技術を工夫し、道具を作り、共有するという「農業経営」の技術とノウハウがあったことになります。このことは、農村出身者であっても、ある程度の教育を受けることができた、という当時の日本の状況を反映しており、まだ教育を受けられなかった中国の農民との一つの違いであったのではないかと思います。武士が直接来たわけではないですが、失業した下級武士の多くが学校の先生になったので、私の仮説も少しは合ってる、といえるかもしれません。(負け惜しみ、すいません・・)

もう一つの違いは、「お嫁さんが来た」ということです。日系農家でも、最初は中国系同様に、若い男性ばかりが来ており、白人の女性との結婚はできませんでしたが、日本からお嫁さんを連れてくる斡旋業ができ、「写真花嫁」が日本からやってくるようになりました。そのきっかけは、1907年にできた「日米紳士協定」です。当時、日本は日清・日露戦争に勝ち、先進国リーグの一角を占めるようになって、アメリカから警戒の目で見られるようになっていました。その警戒を解くべく、日本は「アメリカに新規の移民は送らない」という約束をします。ただ、このとき「女性だけは送ってもいい」という例外が設けられたので、それまで年季奉公人を送り込んでいた移民業者たちは、写真花嫁にピボットしました。写真だけのお見合いをし、実際に会ってみたら全然違っていた、という悲劇も多数ありましたが、それでも「結婚式当日に初めて会う」ということが珍しくなかった時代ですから、そのまま淡々とアメリカでの生活に落ち着いていった女性のほうが多かったようです。こうして日系移民は、アメリカで家族をもち、定着することができたワケですが、これも当時の中国と日本の本国の政治状況の違いを反映しています。

当時日系人がやっていた近郊農業での厳しい労働は、現在メキシコ系の移民が担うようになっています。ドナルド・トランプがメキシコ移民を排斥する発言をし、それを多くの人が喝采するという構図が、どうしても私には不愉快でなりません。現在の日系人コミュニティにおいて、「すでに日系人差別はないので、コミュニティとして政治的な争点はなくなったのでは?」と質問したところ、「いや、全然そんなことはない。その証拠に、今だってトランプが支持されているではないか」と若手リーダーの一人が答えてくださったのが、印象に残っています。

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(メキシコではJesus=ヘスースという名前が多い。de nadaは「どういたしまして」のスペイン語。)

出典: San Jose Japanese American Museum展示・説明、Mr. Jimi Yamaichi講演より