ベイエリアの歴史(5) – オレゴンへの道

ナポレオンのヤケクソ 話はまたまた、1800年頃まで戻ります。その頃ヨーロッパでは、ナポレオンが暴れまわっておりました。メキシコもカリフォルニアもまだスペインの領土でしたが、ナポレオンのおかげでヨーロッパのパワーバランスは急速に変化しつつありました。

そんなパワーバランスの乱気流の中で、アメリカが「ルイジアナ」を購入します。ルイジアナといっても、現在のルイジアナ州だけではなく、アメリカ大陸の真ん中半分ほどの広大なテリトリーです。日本の高校世界史では、ナポレオンが戦費調達のために売却したと習ったようなおぼろげな記憶がありますが、今あらためてウィキペディアを読んでみると、そんなマジメな話ではなかったようです。

だいたい、フランスがアメリカ大陸にそれほど大量の領地を持っていたというのが不可解だったのですが、実はスペインの米国中部テリトリーをナポレオンが脅して取り上げる密約(サン・イルデフォンソ条約)を1800年に結び、でもスペインはちゃんとその譲渡を実行しないまま、中途半端に3年ほどが過ぎていた、という状態でした。カリブ海の「奴隷・砂糖・ラム酒」の三角貿易と北米を結ぶ物流拠点として、ミシシッピ川河口にあるニューオーリンズはすでにきわめて重要で、ちゃんとしたフランスの領土でしたが、その北側に広がる部分は、ほとんど未開の地でした。

ミシシッピ川を境に、東側がアメリカ合衆国、西側は謎のルイジアナでした。スペインがミシシッピ川の通行に関してごちゃごちゃとアメリカにいちゃもんをつけていた一方、カリブ海のフランス領サン・ドマングでは奴隷が反乱を起こしてハイチとして独立し、フランスは新大陸での重要な「金のなる木」を失ってしまいます。そんな最中の1803年、ごちゃごちゃをアメリカンにおカネで解決すべく、当時のアメリカ大統領ジェファーソンは使節をパリに派遣し、「ニューオーリンズ」を購入しようとします。しかし、「金のなる木」を失ったナポレオンは、「カリブの砂糖がなければニューオーリンズなんか持ってても仕方ない、ましてやその北にある謎の無人の荒野なんぞ、いらんわー!」とヤケをおこし、外務大臣タレーランの反対も聞かず、ニューオーリンズだけでなく「ルイジアナ全部」をアメリカに売ると言い放ってしまいました。

使節は、ニューオーリンズに1000万ドルまでなら払っていいとジェファーソンに言われてやってきたところ、1500万ドル(2013年の価値で2億ドルちょっと)でルイジアナ全部というカウンターオファーを受け、「え・・あ・・ちょ・・」と面食らったのですが、すぐにナポレオンの気が変わるかもしれないと思い、その場で契約に電撃サインしました。こうしてアメリカ合衆国は、1エーカー3セントという超破格のお値段で、領土を倍に拡大することに成功しました。

いや、本当に、人間、ヤケを起こしてはいけないですね・・

ルイス・クラーク探検隊

「ルイジアナ」は、現在のミネソタ、アイオワ、ミズーリ、アーカンソー、ルイジアナ、ノースダコタ、サウスダコタ、ネブラスカ、カンサス、オクラホマ、モンタナ、ワイオミング、コロラド、ニューメキシコとテキサスの一部の各州にまたがります。現在でも無人の荒野が多いですが、とにかく、広大です。

もともと、なぜか探検隊をやりたくてうずうずしていたジェファーソン大統領は、待ってましたとばかりに、1803年、メリウェザー・ルイスとウィリアム・クラークという軍人をトップに探検隊を編成し、この新しく獲得した地域の調査に派遣します。「ルイス・クラーク探検隊」です。

当時、南のほうにはまだまだスペイン人がたくさんいたので、一行はなるべくスペイン人と接触しないように、テリトリーの北側を通って西に向かいます。セントルイスからミズーリ川を上流に向けてたどっていき、カンザス・シティ、オマハを経て、サウスダコタ・ノースダコタ・モンタナを通ってロッキー山脈の分水嶺に達し、そこから今度はアイダホから現在ワシントン州とオレゴン州の境となっているコロンビア川を下ってポートランドに達し、さらに西進して太平洋までたどりつきました。彼らの通ってきたテリトリーは、途中まで一応ルイジアナでしたが、実質的にはネイティブ・アメリカンの居住地域であり、またアイダホとオレゴンはまだ、正式にはアメリカもスペインもフランスも領土宣言していない土地でした。

彼らは、行く先々で採集した植物や動物の標本とともに詳しい報告をジェファーソンに送り、1806年にセントルイスに帰還して、詳細なこの地域の地図を作成しました。この情報をもとに、アメリカ東部から西部への人の移動が本格的に始まります。そして「オレゴン・トレール」とよばれる西部への道路が整備されていきますが、なぜ「カリフォルニア」ではなく「オレゴン」なのかというと、こんな歴史があったからなのですね。当時まだスペイン領だったカリフォルニアは、最初から避けられていたというわけです。

ルイスとクラークは、さしずめ「アメリカ版伊能忠敬」というわけですが、伊能忠敬が日本中を測量して地図をつくってまわったのは1800~1816年。ここでもまた、日本とアメリカは不思議と同期していますね。

<続く>

出典: Wikipedia、山川世界史総合図録 、山川日本史総合図録