ハワイに次ぐ、日系アメリカ人の政治的活躍の本拠地といえば、わがベイエリアにあるサンノゼです。サンフランシスコじゃないの?と思われるかもしれませんが、違うんです、サンノゼなのです。
成田から毎日定期便が行き来するサンノゼ空港は、正式名を「ノーマン・Y・ミネタ・サンノゼ国際空港」といいます。ミネタ氏は、ハワイを除く米国本土初の日系市長(サンノゼ市)、その後初の日系連邦議員、クリントン政権の商務長官でアジア系初の閣僚、ブッシュ政権時には運輸長官となりました。2001年同時多発テロの際には、全米の飛行機をすべて飛行停止するという大仕事を成し遂げました。同年の秋、その功績を讃えてサンノゼ空港がミネタ空港と名付けられたのです。
そのサンノゼには、現在米国に3つしか残っていない「日本町」の一つがあります。サンフランシスコより知名度はだいぶ劣りますが、すっかり「観光地」となったサンフランシスコと比べ、サンノゼは現在でも日系アメリカ人のコミュニティ・センターとしての役割を大きく担っています。その中に、「日系アメリカ人ミュージアム」があり、今日は有志のグループで、このミュージアムのツアーと、サンノゼ日系人のコミュニティ・リーダーの方々とのランチ会が実施され、参加してきました。
ミュージアム・ツアーの最初には、収容所の経験者でもある日系2世のジミ・ヤマイチさんから、自ら体験した歴史をお話していただきました。この後、何回かにわたって(私の気が済むまで^^;)、ジミさんのお話とその他資料を合わせて、ベイエリアの日系人の歴史について書いていく予定です。
Mr. Jimi Yamaichi
日本からハワイへの移民開始から5年後、1890年に、カリフォルニアへの集団移民が開始されました。ハワイのような官約移民ではなく、当初から民間による自由移民で、民間の移民会社が仲介をしていました。
その前後の事情をもう少し詳しく見てみましょう。アメリカでは1869年に大陸横断鉄道が完成、その後も西部での鉄道建設はしばらく続きます。しかし、1882年に「中国人排斥法」が成立して、鉄道建設を主に担ってきた中国移民が入ってこなくなりました。一方、日本では1877年西南戦争の少し後の時代に当たり、農村の余剰人口が都市の製造業へと吸収されていくフェーズにはいる前の端境期でした。幕藩体制下の封建的な農村支配から近代的な農業経営に移る過渡期で、1884年頃は不況となり、貧しい地域では農家の次男以降の「口減らし」という「プッシュ要因」がありました。当時の日本の主要産品であった絹糸の輸出が急激に増えるのは、1894年からの日清戦争が終わった後になります。
中国移民は定着することができず、アメリカの中国系コミュニティは縮小を余儀なくされていたので、その代わりに、元祖ブラック企業ユニオン・パシフィック鉄道が、1891年に日系人の採用を始めます。
しかし、それよりも大きな「プル」要因だったのは、鉄道による輸送力増大により、カリフォルニアの農産物の市場が拡大して、「農業バブル」が起こったことです。サンタクララ・バレーと呼ばれるこの地域では、特にフルーツ農場が急速に発展します。
そこで、フルーツ農業労働者として、日本人を例によって「年季奉公契約」で連れてきたというわけです。さらに1898年にハワイがアメリカに併合されて、ハワイからパスポートなしで本土に入ってこられるようになりました。当時の本土の農業労働者の給料はハワイの10倍だったそうで、このためにハワイから大挙して日系人がやってきました。日本では、日清戦争と日露戦争が相次いで起こった時期にもあたり、徴兵を逃れるためにアメリカに渡ってきた人も多かったとのことです。
こうして1890年代に、徐々にカリフォルニアの日系移民コミュニティが成立していきます。
出典: Wikipedia, San Jose Japan Town - A Journey, Lecture by Mr. Jimi Yamaichi, 日本史総合図録(山川出版社)