さて、その1960年代のサンフランシスコといえば、ヒッピーの聖地でありました。
私はイーグルマニアではありましたが、60年代の音楽はリアルタイムでは体験しておらず、ジャニス・ジョプリンといっても、(1)名前の響きがやたらかっこいい、(2)ヒッピーとかウッドストックとかそのへん、(3)ドラッグで若死にした、という3点しか私的には認識しておりませんでした。ウッドストック(ニューヨーク北部)のイメージが強いので、東海岸にいたのかと思っていたところ、実はばりばりのサンフランシスコ音楽でした。
というのがわかったのは、ネットフリックスで「History of the Eagles」を先日見たために、今度は「Janice: Little Girl Blue」というドキュメンタリー映画がオススメされて、これを見たためです。
ジャニスはテキサスの生まれですが、変わり者で、地味な顔立ちで、今で言う「コミュ障非モテ」であり、学校では「ブス」や「ブタ」などと言われてひどくいじめられました。テキサスの大学を離れてサンフランシスコに流れてきて、そこで初めて自分が暖かく歓迎される「居場所」を発見しました。
50年代、すでに「ビート」「ビートニク」などと呼ばれる、前衛的な詩・文学の潮流が勃興していたサンフランシスコのコミュニティでは、超越的な体験を得る実験として、種々のドラッグが使われていました。ジャニスはそのコミュニティの中で、ドラッグで体をこわしてテキサスにいったん戻ったり、婚約者に裏切られたり、故郷ではまたいじめられたりして、さんざんに傷ついて、音楽をやりながら、1965年にまたサンフランシスコに舞い戻ります。そこで、ジャニスはBig Brother and the Holding Companyというサイケデリック・ロックのバンドのリーダーに気に入られ、リードヴォーカリストとして参加します。このあたりは、現在のシリコンバレーで、なんとなくコミュニティができて人のつながりでベンチャーができ、コミュニティの中でそれを育てていく感覚と似ています。
60年代後半、思想的には「ビート」の流れを汲むカウンターカルチャーが、より派手なスタイルの「サイケデリック」カルチャーとなり、「サンフランシスコ・サウンド」とよばれるサイケデリック・ロックが誕生しました。今のサンフランシスコ日本町の西南端から通りを隔てたあたりにあった「Fillmore West」などのライブハウスを舞台に、ジェファーソン・エアプレーンやジャニスが加入したビッグ・ブラザーなど、ちょっと離れたパロアルトでは、グレイトフルデッドも頭角を現しました。特に、今ではもっぱら水族館で有名なモンテレイで1967年に開催されたMonterey Pop Festivalが、ジャニスにとっての大ブレークスルーとなりました。
彼らは、すでにヒッピーの聖地として有名になりつつあった「ヘイト・アシュベリー」、つまりHaight StreetとAshbury Streetの交わるあたりに住みました。当時まだ合法だったLSDがふんだんにありましたが、ジャニスはドラッグの誘惑と常に戦っていました。
ビッグ・ブラザーは、モンテレイの後、急速に全国的に売れましたが、その注目はもっぱら、ブルージーでパワフルなヴォーカリストであるジャニスに集まりました。「バックバンド」扱いにむくれたバンドのメンバーとの間で不協和音が起こり、1968年には追い出されて独立。1969年のウッドストック・フェスティバルでは、自分のバンドをバックにして出演しました。
ドキュメンタリーでは、この頃のジャニスについて、「舞台でパフォームし、大観衆の喝采を浴びているときだけが、気分が高揚して安心していられる時間であり、いったん舞台から降りて一人の時間になると、耐えられないほどの孤独と不安に苛まれていた」と描写しています。婚約者に裏切られたあと、安定して彼女を支える人とはついに出会うことができず、男女両方でいろいろなパートナーに依存しては離れる不安定な関係が続きました。そして、ついにドラッグとの戦いに負けてしまいました。
ジャニスは1970年10月、ハリウッドでレコーディング中に、ひとりぼっちでホテルの部屋で、オーバードーズのために亡くなりました。ジャニスの最大のヒット曲である「Me And Bobby Mcgee」は、彼女の死後に発表されました。まだ27歳、メジャーな活躍期間はわずか3年間しかありませんでした。
ヒッピーについては、また別の機会にもう少し書きたいと思っていますが、そういうわけで、当時のサンフランシスコは、そんな若いヒッピー達が住み着けるほど、チープなアパートがあったんだなー、などと思わず感心してしまいます。