「あさが来た」は当地アメリカでも日本語チャンネルで放映しており、私も毎日見ている。一応宣言しておくと、私は新次郎派ではなく五代様派である。
あさちゃんを見ていると、さらに100年ほど前のもう一人のフランスの女性経営者を思い出してならない。現代もシャンパンの大手として世界的に知られるヴーヴ・クリコ社を興した、バーブ・ニコール・ポンサルダンである。彼女の物語は、「Widow Clicquot」(クリコ未亡人)という本に詳しい。うまくシリーズになるかどうかよくわからないが、まずはこの本をもとにした彼女の話から書き始めてみたいと思う。
シャンパーニュ地方で発泡ワインを発明したのは、これまた現代に名前の残るドン・ペリニヨンという修道士だったと言われているが、本によると、これは多分に「マーケティング目的の伝説」ではないかとされる。当時は泡ができてしまっては失敗だったので、ペリニヨンさんはなんとか「泡が出ないように」と研究していたのだという。
なにしろ、彼の研究で泡が出る原因が理解されて、シャンパンが商品化され、ルイ14世が異常に愛したおかげでフランス貴族の間でシャンパンがもてはやされるようになった。その頃、シャンパーニュ地方の実業家フィリップ・クリコという人がシャンパンづくりを始めた。といっても、シャンパンだけ作っていたのではなく、この時代によくある、いろいろな事業をもつミニ・コングロマリットのような感じで、フィリップの息子フランソワは主に毛織物の取引と金融業を手がけていた。この息子にお嫁にきたのが、バーブ・ニコールである。バーブ・ニコールの実家ポンサルダン家は、繊維事業を保有する裕福な実業家で、政治家でもあった。
フランソワは若くして病気で亡くなり、バーブ・ニコールは未亡人(フランス語でヴーヴVeuve)となった。紆余曲折の末、義父フィリップとバーブ・ニコールがパートナーシップで事業を運営する形となり、またシャンパン事業に専念することとなった。このため、現在でも正式な社名は、両者の苗字を合わせた「ヴーヴ・クリコ・ポンサルダン」となっている。
しかし、風雲急を告げる時代である。フランス革命が起こり、シャンパンの顧客であった貴族という人たちがいなくなってしまい、シャンパンの商売は危機を迎える。バーブ・ニコールは、当時の大新興市場であったロシアに市場拡大をはかり、ちょうど軌道に乗りかけた頃、ナポレオン戦争が起こる。ロシアもフランスと戦争となり、シャンパンの輸出ができなくなってしまった。
このとき、バーブ・ニコールは大きな賭けに出る。戦争が終わり、経済制裁が解かれそうだがいつになるかまだわからない、という頃に、アムステルダムまで陸路で密かに大量のシャンパンを輸送、そこからロシアまでつてを頼って船で密輸するという計画を立てた。しかし、結局その船は出ることができず、倉庫に大量のシャンパンが眠る状態となった。当時の技術ではシャンペンを質を保って長期保存することは難しく、今さら持って帰ることもできない。どこにも動かせないまま時間が経ってシャンパンがダメになったらクリコ社は倒産、というとき、ギリギリの時期に禁輸が解け、港からロシアにすぐに出荷することができた。このおかげで、他のシャンパン・メーカーを大幅に出し抜いて、クリコ社はロシアで圧倒的なシェアを持つようになり、欧州各国でも広がり、世界的なブランドとなったのである。
その後、さらにバーブ・ニコールは、製造技術の革新もおこなった。シャンパンの製造過程でどうしてもイーストの澱がたまるのだが、これを除去するのは、熟練の職人が手作業で行っていたため、シャンパンの大量生産のネックとなっていた。バーブ・ニコールは、技術者と一緒にいろいろ工夫する中で、二次発酵の間、ビンを蓋で密閉して斜め下向けに傾けて保存できるラックを発明。発酵期間中にときどきビンを回して澱をビンの口にため、その後ビンを取り出し、上向きにしながら一気に蓋を抜くと、空気がポンと抜けるときに澱も一緒に飛び出す、というdégorgement(デゴルジュマン)という手法である。
バーブ・ニコールが1866年に亡くなった後、同社は曾孫娘が相続、1987年にはルイヴィトン・モエヘネシー(LVMH)社の傘下にはいっている。1972年以来、同社は世界の優れた女性経営者を表彰する「ヴーヴ・クリコ女性経営者賞」を付与している。
富裕な家に生まれ、嫁ぎ先が時代の変化で危機に陥り、その家業の経営を引き継いでさらに新事業として発展させた、という経緯は、あさちゃんとまるで同じでなのである。