アメリカではちょうど先週、ローマ教皇フランシスが来米して大騒ぎでしたが、カトリックはアメリカでは歴史的にも現在でも、マイノリティの立場です。ここまで見てきたように、プロテスタント=中間層が新天地での事業に成功して定着してきたわけですが、そこに最初にまとまったグループとしてやってきたカトリックの人たちがアイルランド人でした。
私の「宗教=階級闘争」の図式でいうと、カトリックは「領主+農民」のパターンですが、イギリスの場合はカトリックが国教会になってしまったので、イギリスに征服された植民地であったアイルランドでは、「領主は国教会+農民はカトリック」という色分けになりました。その昔のイギリス国教会は、プロテスタントのピューリタンやクエーカーを追い出し、返す刀でアイルランドのカトリックもいじめぬくというジャイアンでしたが、例によって宗教は「特定のグループの人たちを色付けするための記号」に過ぎません。
そのグループの人たちがアメリカに大量に流入したきっかけは、19世紀半ばの「ジャガイモ飢饉」でしたが、天候不良や作物の病気による飢饉は歴史上何度もあったはずなのに、なぜそのジャガイモ飢饉がそれほどの大事件であり、それほどの移民を短期間の間に発生させたのか?というのが私の本日の課題です。
アイルランドは、この時期はイギリス連合王国に併合されていましたが、異なる言語を話す貧しい辺境でもあり、過去に何度も反乱や戦争があったために「アブナイ場所」とされ、領主は「不在地主」となっていました。工業も鉱物資源もないアイルランドは、イギリス人の食料を供給する農業植民地となり、よい農地はイギリス輸出用のビーフやバターを生産するための牧草地や穀物畑として使われ、農民自身には痩せた土地しか残されませんでした。不在地主の徴税代理人は、まるで時代劇に出てくる「悪代官」そのもので、当時の税制の中で税金をよりたくさん取れるように、農民の借りる土地をどんどん細かく細分化し、搾取しまくりました。農民が土地に投資して改善を行ったとしても、その資産は領主に属することになっていたため、農民はプロセス改良投資を行う意欲がなく、不在地主も事情を知らずほったらかしで、生産性が低いままでした。農民は作物をイギリスに輸出し、それで稼いだものの大半を地代としてイギリスにいる領主に支払うという「二重搾取」の図式になっており、1829年に「カトリック差別法」が撤廃されるまで、土地の所有も投票もできませんでした。ほとんど「農奴」のようなものです。
大航海時代に欧州にはいってきたじゃがいもは、痩せた土地でも育つため、こうした事情をかかえるアイルランドの農民にとって重要な食料となりました。土地が細分化しているので、多種の作物を作るというわけにいかず、ひたすらじゃがいもを作るしかなく、しかも育てられていたのは同じ品種のじゃがいもばかり。じゃがいもは、穀物と較べて長期保存がきかないという弱点がありましたが、他に有効な代替作物もありませんでした。そこへ、じゃがいも疫病が大発生しました。
それまでも、じゃがいもの不作という事態はときどき起こっていて、農民にとっては「なんとか共生していくしかない」ものだったのですが、このときは別のいくつかの要因が重なりました。
まず、この直前までに、アイルランドの人口が急激に増加していたこと。飢饉直前の1841年には800万人を超え、過去50年に倍増の勢いでした。(マルサスの人口論そのものですね・・)次に、19世紀半ばといえば(8)で述べたような「泥棒男爵」の時代で、暴力的な投資家が跋扈し、政治的には「レッセ・フェール」の考え方が強い時代であったこと。このため、当時の資本主義総本山であるイギリス政府が「アイルランド貧民救済」という政策をとることに躊躇しました。さらに、領主による「強制退去」が加わってしまったことが第三の要因で、これらが重なって移民の大流出となりました。
飢饉の原因はじゃがいも疫病であり、全体的な天候不順ではなかったため、じゃがいも以外の作物は普通にとれており、実は飢饉の1845-52年の期間中に、イギリスへの畜産物や穀物の輸出はむしろ「増えていた」のだそうです。本来ならば疫病の発生がわかった時点で、イギリスへの食料輸出を止めて、これらの食料を地元消費にまわせば飢饉を回避できたはずなのに、イギリス政府はその手段をとらず、領主階級である政治家は「貧民たちに天罰が下った」という主旨の発言などしておりました。
そして、当時の税制では、年間4ポンド以下の地代しか払わない貧しいテナント一人につき、領主が付加税を負担しなければならなかったため、細分化した貧農をたくさんかかえる領主はたくさん税金を払うという仕組みになっていました。貧農との「共同体意識」を全く持たない不在領主は、飢饉で没落した貧農を土地から追い出し、自分の税負担を減らそうとします。このため、1847年に大掛かりな「強制退去」が発生しました。
こうした要因が重なり、直接の餓死と栄養不良による病死を合わせて100万人以上(推計によってはそれ以上)、そして移民として流出したのが100万人以上、合計して全人口の20-25%がアイルランドから消えました。日本の県でいえば、福島県や群馬県がだいたい人口200万ですから、中ぐらいの県が一つ、数年で消えてしまったようなものです。アイルランドはその後も1960年ぐらいまで長期的な人口減が続き、現在でも450万人にとどまっており、飢饉前の人口を回復していません。飢饉前は、ケルト語系の独自の言語をもっていましたが、人口減以降は英語が支配的になって現在に至っています。
こうした経緯をみると、税制や不作為を原因とした「人災」という側面が強く、またそれはかなり「植民地に対する差別意識と搾取構造」に根ざしています。穿った見方をすれば、イギリスの政治家が「アイルランドにこれ以上反乱を起こさせないために、わざとほっておく」と考えたのかも、と見ることもでき、ジャガイモ飢饉は「不作為によるジェノサイドだった」と唱える学者もあるそうです。
去っていく移民を見送るアイルランド人家族
出典: Wikipedia