ベイエリアの歴史(4) – U.S.A.との遭遇

ミッションの終焉 時代錯誤かつトラブル続きのミッションによるカリフォルニアの支配は、そう長くは続きませんでした。1810年、メキシコがスペインに対して独立戦争を開始し、その最中の1819年、スペインはミッション事業を支えきれなくなり、新規のミッション建設を中止します。

結局ミッションは、経済的に自立できず補助金漬け、反乱続きで人的被害甚大、防衛コストがかかりすぎて赤字垂れ流し状態でありました。南から北へ伸びていったミッションのチェーン展開は、現在ワイン産地として知られるソノマを北限として止まりました。現在でも、ソノマ近くのサンタ・ロサ(ミッション建設が計画されていたが途中で断念)より北は、スペイン語系の地名がぱったりなくなります。

1821年にようやくメキシコは独立を獲得し、カリフォルニアはメキシコの一部となりました。長い戦争を経て疲弊したメキシコには、既存のミッションをサポートする気力も財力も、とてもありませんでした。事実上奴隷化されていた原住民を「解放」するための法令が徐々に出されていき、1833年にカリフォルニア知事ホセ・フィゲロアは「ミッションの終了」を宣言します。ごく一部を除いてミッションは閉鎖されていき、フランシスコ会の宣教師たちは金目のものを持って去り、建物は地元民の建設資材として荒らされました。

ビーフ三昧のランチョ時代

ミッションの保有していた土地は分配され、なんだかんだで有力なメキシコ系ファミリーが「土地下賜(land grant)」の形でその多くを獲得し、広大な「ランチョ(牧場)」を形成します。そこではおもに牛や羊の放牧が行われ、ミッションがなくなって失業したネイティブ・アメリカンなどがカウボーイや家内労働者となって働きました。牧場には大きな現金収入があるわけではなく、この当時のメキシコ政府から見れば、税金も取れません。本国首都からは遠いし、広くて管理しきれず、ただでさえ戦争で疲弊した後のメキシコは、カリフォルニアをほとんどほったらかしにしていました。なんせ当時のカリフォルニアの首都モンテレイまで、メキシコシティから公式文書が届くのに、下手をすれば2年もかかっていました。なお、当時のランチョの土地の区分は、現在でも郡や市の境界として残っています。

そんなほったらかしのカリフォルニアに、別の勢力がひたひたと忍び寄ってきます。ようやく、アメリカ合衆国なのですが、幌馬車はまだ登場しません。サンフランシスコ湾の北側、現在のナパの方向に向かって内陸に入り込んでいるサン・パブロ湾に、1840年、アメリカ合衆国の船がやってきて、カリフォルニアとアメリカ合衆国との貿易が始まりました。

スペイン領だった頃のカリフォルニアは、独自に「外国」との取引をすることを禁じられていましたが、締め付けの緩くなったメキシコ独立以降は許されるようになったのです。貿易といっても、当時のカリフォルニアの産物はランチョで生産されるものしかなく、主要産品は皮革と牛脂でした。皮革は鞍、靴など各種の革製品、牛脂は石鹸やロウソクなどの製造に使われる価値あるコモディティでしたが、冷蔵・冷凍保存ができない時代ですので、残った「ビーフ」は売りようがありません。乾燥肉に加工する以外はひたすら自分たちで食べるしかなく、当時のランチョの人達は毎食ビーフ三昧だったとのことです。

もちろん、パナマ運河などまだ存在しないので、アメリカ合衆国の船は、ボストンから遠く南米大陸の南を回って来ていました。ボストンからは、衣類や靴、銃や斧、お茶やコーヒー、ナイフやフォーク、装飾品など、さまざまな品物がカリフォルニアに運ばれました。技術をもった職人などの「人」も、アメリカ合衆国からやってきてカリフォルニアに定住するようになります。

日本では老中水野忠邦の「天保の改革」が始まる頃で、こちらでもアメリカをはじめ、イギリス、フランス、ロシアなどの船が日本近海に出現し始めます。ペリーの黒船がやってくるまで、あとほんの10年ちょっと。ペリーが日本にやってきたのは、捕鯨船の補給港という動機が大きいと習った記憶がありますが、その頃のアメリカの捕鯨も「鯨油」が目的でした。よほど「油」が必要だったのですね。

この当時、カリフォルニアはそういうわけでほったらかしだったので、なし崩し的に貿易が始まりましたが、もしまだスペイン領だったら、日本のように「アメリカ、来るな!」といって「攘夷」戦争をやっていたのかも、と考えるとちょっと面白いです。

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、山川世界史総合図録 、山川日本史総合図録