歴史

(ベイエリアの)歴史(23)- 「権力の空白」の恐怖

ますますベイエリアと関係なくなってきたので、ついにカッコがついてしまいました。(-。-; 昨日の続きで、お局様たちにハブられて孤立したドイツ(ジャイアン)の唯一の味方は、かつての名門だが力のないオーストリア(スネ夫)だけでした。スネ夫がジャイアンの力を頼りにバルカンに介入して、セルビア人テロリストに皇太子を殺されてしまったサライェヴォ事件をきっかけに第一次世界大戦が始まります。

これまた、それでなんでドイツがフランスとドンパチ始めるのか、風が吹けば桶屋が儲かるですか、みたいな説明しか世界史の教科書には載っていなかった記憶があります。その複雑怪奇な背景はようやく今回の歴史講義オーディオブックで理解できたのですが、ここでは省略、また機会があれば後日に。

サラエボ

バルカニゼーション(バルカン化)という定番言い回しがあるほどのこの地域は、歴史の長い長い間、オーストリア(神聖ローマ)帝国とオスマントルコ帝国の係争地でした。改めて歴史年表を遡ると、神聖ローマ帝国の成立は962年(日本は平安時代)、ハプスブルク家が王朝を始めたところに限っても1438年(室町時代)であり、またオスマントルコの成立も1299年(鎌倉時代)という、それぞれ実に長い伝統をもっています。問題の19世紀後半、技術爆発により、軍事技術も社会制度も急激に変化したのですが、この両老大国は、その変化についていくことができず、ずるずると支配力を失っていきました。

トルコは数次に渡ってウィーンを攻略しており、一時はハンガリーまで版図に入れていましたが、17世紀終わりころから徐々にヨーロッパ側の領土を失って衰退していきます。一方、ドイツ統一の少し前に、イタリアではピエモンテ(サルディーニャ王国)を中心とした「イタリア統一運動(リソルジメント)」があり、1861年にイタリア王国ができますが、その大きな動機は「オーストリアから北イタリアをとりもどす」ということでした。セルビアは、これに倣って自らが「ピエモンテ」になり、バルカン半島をオーストリアから取り戻して統一国をつくろうと目論んでオーストリアともめていたワケです。

残念ながらセルビアの目論見は実現せず、結局トルコもオーストリアも去ったバルカン半島には、一時はソ連が進出していましたが、ソ連崩壊後またもや「権力の空白地帯」となり、経済的に苦しい小国がお互いに紛争を繰り返す状態が続いています。トルコが去ったあとに、イギリスがちょっかいを出して現在の火種となってしまったパレスチナも、その意味では似たような空白状態です。そんな中で、シリアやその周辺から、難民がバルカン経由で欧州に向かって流入する難民問題が深刻化しています。

直接のきっかけはクルド人迫害やイスラミックステート(IS)で、アメリカのちょっかいも悪かったらしいですが、ちきりんさんのブログによると、アフリカや中近東の多くの国で、人々はちょっとお金が手に入るとクルマや家電を買うのではなく欧州へ移民しようとする傾向があって、「経済がよくなれば難民が減る」という仕組みになっていない、という問題もあるそうで、不安定な権力の空白地帯ではこうした事態が発生しやすい、ということも言えます。短期的対処はさておき、長期的に権力の空白をなくしていく戦略としてよいのは、一体なんだろう、と考え込んでしまいます。

いまどき帝国主義時代のように、遠くの外国が植民地として支配することはありえないでしょうから、理想的には域内の有力勢力が面倒をみる形で、ある程度の大きさのまとまりに統一するという「プロシア/ピエモンテ方式」がよさそうな気がしますが、ちゃんとした政治のできる「域内の有力勢力」がなかなか出てきません。友人のレバノン系米国人がこの件に関して、「ドイツやアメリカに押し付けるな、サウジアラビアとかの金持ちイスラム教国はなにやってんだ」(ちなみにレバノンは小国なのに相当数の難民の面倒をみているようです)とフェースブックに書いていたのが目から鱗で、本来ならそういうことなのかもしれません。「スンニー派だシーア派だと、イスラム教どうしで内輪もめしちょったらいかんぜよ」(バルカン事情も代入可)というメタな視点のある域内リーダー国が出てきてほしいものです。

出典: The Great Courses, New York Times, 山川世界史総合図録、木村正人ブログちきりんブログ

ベイエリアの歴史(22)- 19世紀のドイツ

サインコサインは女子には教える必要ないという人があるようですが、それを言ったら縄文・弥生時代の歴史の知識なんぞ、男子も女子もおよそ実社会で使うことはありません。逆に、本来であれば「実用向け」として現代人がぜひ知っておくべき「近代史」について、日本の学校では時間切れになってろくに授業で教えず、まったくダメダメだと思います。せめて高校では、日本も世界も一緒にした19世紀後半から現代までの「近代史」という授業を1年かけてやるべきだ、とつくづく思います。というわけで、はるか昔に戻って、まためちゃくちゃな横道にそれますが、本日はちょっと19世紀のドイツ、この方のつくった国のお話です。ビスマルク (ちなみに、カリフォルニアのウチの学区では、アメリカ史も世界史も、ばーっと通史でやるのではなく「中世から近世まで」「南北戦争まで」「帝国主義から現代まで」など、テーマ的に分類して教えています。)

かく言う私も、歴女を自称するわりに、近代史については知らないことが多く、この歴史ブログシリーズを書いていて改めて「19世紀後半の日本とアメリカの同期性」について興味をもったわけですが、その「4G経済」のもう一人の同期生であるドイツについては、実はあまりよく知らないのです。それで、「Long 19th Century:  European History from 1789 to 1917」という歴史講義をオーディオブックで聴いています。講師のロバート・ワイナー教授はアメリカ人ですが、「欧州」を起点として世界を見ると、この時期「アメリカ」と「日本」が、「欧州外の新勢力」として、ほぼ必ず一緒にあちこちで言及されるのは面白いです。日本視点だと、「欧米列強」がいっしょくたで、日本は「遅れてる」としか見えないのですがねぇ。ワイナー先生は「日本の影響を軽く見るべきではない」などとおっしゃっています。

欧州の中でも辺境の地であったドイツは、数多くの諸侯国が割拠しており、ナポレオンが弱いところをつぶしたおかげで統合が進み、さらにそこからプロシアが勝ち抜いて他をロールアップしていきます。そして「入れ替え戦」ともいうべき1870年の普仏戦争に勝ってドイツ帝国となり、ついに欧州メジャーリーグにはいりました。このシリーズ(7)で述べたように、アメリカの南北戦争(1864)、日本の明治維新(1868)、ドイツの統一(1871)は時期的に近く、技術の爆発的進化の時代を背景に、「細分化していた地域を統一して、大きな国内市場を作って経済的に飛躍した」という意味で似ています。先行していたイギリスやフランスも、統一市場にはなっていたわけですが、この後のドイツの爆発的な進化に比べ、技術爆発への対応がいまいちめざましくなかった理由は、この歴史講義だけでははっきりわかりません。要するに、明治維新後の日本と同じで、「新体制」のおかげで既得権益をバリバリと踏み潰し、必死で追いつき追い越せで頑張ったのではないか、と考えておきます。

アメリカはこの前後に、「親」ともいえるイギリスを経済規模で追い抜き、世界一の経済大国となりますが、若い国であるので、図体はでかいが「厨二病」の様相を呈しています。「経験不足で舞い上がっちゃった」のは、日清・日露戦争で浮かれた日本も同じ。そしてドイツも、「お局様」がぎっしりひしめく欧州の中で、ビスマルクの権謀術策でなんとかバランスを維持していたのに、ビスマルク引退後に舞い上がってしまいました。お局様たちのプレッシャーが強かった分、ドイツは日米よりも早く爆発して暴走してしまい、第一次世界大戦へと突入するわけです。(それにしても、ビスマルクというのは本当にすごい人だったのですね・・)

なお、アメリカでは「アメリカ独立のとき、実はドイツ人のほうが多かったので、本当ならアメリカの公式言語はドイツ語になる可能性があった」という俗説があるようなのですが、こうやって考えるとあきらかにデマですね。アメリカが独立した18世紀に、個人でアメリカに移住したドイツ人はいたでしょうが、ドイツはまだ海外領土をもつ力はなく、イギリスやその前のスペインのような組織的な入植が行われたわけでもなく、そんなにたくさんドイツ人がいたとはとても思えません。

: The Great Courses、Wikipedia

 

ベイエリアの歴史(21) – マイクロウェーブ・バレーの軍事技術

ドイツのレーダーの恐怖とブルーベリー伝説 さて次はいよいよショックレー・・と思った方、ザンネンでした。昨日の記事に関連する情報をいただき、面白かったので、ちょっと時間を前に戻して書いてみます。

第二次世界大戦前後、「シリコンバレー」となる前のベイエリアで、技術開発を支えたのは軍需産業であった、ということはお話しましたが、これまで私の読んだ資料の中には、その「軍事技術」についてあまり詳しく書いたものがなく、よくわかりませんでした。そのあたりには、どうやらこんな話があったようです。

アメリカは日本の攻撃を受けて1941年に第二次世界大戦に参戦しましたが、欧州ではその2年前からドイツが周辺諸国に侵攻して、イギリスがこれと戦っていました。しかしその2年の間、イギリスは欧州大陸に上陸することができずにいました。そこで、イギリスは新たに参戦したアメリカと相談して、太平洋よりも欧州戦線をまず優先し、空爆することを決定しました。(まー、だから緒戦は日本が勝てた、というわけなんでしょうね・・・)

イギリスは夜間に絨毯爆撃、アメリカは昼間にピンポイント爆撃、という分担でやろうということになりましたが、その攻撃はドイツの強力な早期警戒レーダーの網に阻まれてしまいます。ドイツでは、占領下のフランス・ベルギー・オランダから北ドイツにかけて、レーダーと地対空砲を緻密に設置し、イギリス・北海方面から飛来する米英の戦闘機を検知して撃墜していました。ヨーロッパの北部では、曇って視界の悪い日が多く、飛行機にとっては圧倒的に不利でした。

このため、両軍合わせて4万機の飛行機が撃墜され、両軍それぞれ8万人近い兵士が死傷または捕虜となりました。

連合軍側は、これに対抗するための空対地レーダーを開発し、1943年から飛行機に搭載されるようになります。しかし、それでも飛行機による爆撃は危険なミッションで、一回の攻撃で4~20%のパイロットが失われました。そして、パイロット一人につき従軍中25回出撃していたので、パイロットが生還できる確率は非常に低かったのです。

なお全くの余談ですが、このときイギリスでは、空対地レーダーの存在を隠すために、「我が軍には夜でも目がよく見える兵士が多いから、夜間でも正確に爆撃できるのだ、なぜならイギリスではブルーベリーをたくさん食べるのであるが、このブルーベリーが目に良いからである」というデマを流しました。そのデマが、現在に至るも「ブルーベリーは目によい」という都市伝説となっている、という話を読んだことがあります。

 

アルミホイルの雨が降る

パイロットの生還率を高めるためには、ドイツ軍のレーダー・システムを解析し、これを撹乱する仕組みがどうしても必要となりました。そこで、ハーバード大に秘密の無線研究所、Harvard Research Lab (RRL)が設立されたのです。MIT Radiation Labを分離した800人の組織で、そのトップとして招かれたのが、前回登場したスタンフォード大のフレデリック・ターマン教授でした。ターマンは学部はスタンフォードでしたが、大学院はMITというつながりがありました。

RRLでは、スパイ飛行機をドイツに飛ばして無線を傍受して解析し、レーダー妨害機を開発して連合軍の飛行機に搭載しました。また、ドイツのレーダー撹乱のために「アルミホイル」(そう、料理に使うアレ)の厚みがちょうどよいとの研究結果により、レーダー範囲に飛ばした飛行機から兵士が素手でアルミホイルをばらまくという作戦も1943年から行われました。日本ではお寺の鐘などを供出していた頃、アメリカでは全米のアルミホイルの3/4がこの作戦のためにかき集められたそうです。

そういうわけで無線の研究は軍事目的のためにとても重要で、軍の研究予算がMITやハーバードには1億ドルとか3000万ドルとかの単位で拠出されていたのに、スタンフォードにはなんと5万ドルぽっきりでした。この頃、いかにスタンフォードの存在が小さかったかがよくわかります。「なにくそっ、いつの日か、スタンフォードをMITやハーバードと肩を並べる大学にしてやるぞっ!」と、ターマン教授が夜空を見上げて、拳を固めて涙ぐんでいる図が思わず頭に浮かんでしまいます。

その志を胸に、戦後スタンフォードに戻ったターマン教授は、次の戦争に向けた軍事研究に備え、前回書いたような大学改革に着手し、自分の人脈を使って無線の研究者をゲットしていきます。1950年には朝鮮戦争が起こり、それを機にスタンフォードは初めて、本格的な官学共同研究パートナーとなります。引き続く冷戦では、ソ連の「核の真珠湾」を防ぐための防衛システムが重要となり、スタンフォードはNSA、CIA、海軍、空軍の研究パートナーの中心的役割を果たすことになり、軍の予算も飛躍的に増加します。

こうした流れのため、この時期のスタンフォードの軍事研究は、主にレーダー・無線の技術、そしてそれに伴う電子工学の基礎研究でありました。その研究成果をもとに、ヴァリアン・アソシエーツやロッキードが軍事機器を製造しており、近くて便利なスタンフォード・インダストリー・パークに入居したというわけだったのです。というわけで、50年代あたりには、この辺一帯はシリコンバレーではなく、「マイクロウェーブ・バレー」であったのだそうです。

<続く>

出典: GIGAZINE