ベイエリアの歴史

ベイエリアの歴史(31) - 悲劇のハワイ王家と明治天皇

(9)で書いたように、1869年にカリフォルニアにやって来て「ワカマツ・ファーム」を拓いた旧会津藩士グループがいましたが、その前年ハワイにも、同様にオランダ系アメリカ人商人が率いた約150人の日本移民(「元年者」と呼ばれた)が到着しました。どちらのグループも、明治政府に認められていない立場でした。そしてその頃のハワイは独立国で、まだアメリカの一部ではありませんでした。

年季奉公契約だった元年者は一部が数年で帰国、数十人がそのままハワイに定住しましたが、その後明治政府はしばらくの間、日本からハワイへの移民を停止していました。当時の明治政府は、不平等条約改正が至上命令であり、そのために日本国の「国家ブランド」づくりに躍起でした。一方で、前回(30)に書いたような中国系アメリカ移民の惨状は情報としてはいっており、「日本国民をそんな目に合わせたくない」というか、「ハワイで日本人がこんなみっともない状態になったら、国家としての威信に関わる」というか、そんなことだったのではないかと思います。

当時は、1795年にハワイ王国を建国したカメハメハ一世(大王)の直系が途絶え、傍系のカラカウア王の治世でした。ハワイの王様は短命の人が多く、100年の歴史の間に王様が8代います。当時のハワイにはアメリカから伝統芸「土地投機」の人たちがどんどんやってきていました。土地所有という概念のなかったハワイ人を押しのけ、彼らのタロイモ畑をサトウキビのプランテーションに変えて、砂糖をアメリカに売って儲けておりました。アメリカからの入植者たちは、ハワイ人を蔑み、宗教や文化の面でもアメリカ流をがんがん推進しており、歴代の王様でも、そうしたアメリカ人を受け入れようとする人と排除しようとする人が両方あって、政策は揺れ動いていました。また日本の幕末と同じように、欧米人同士が競争で勢力拡張を図っていたので、アメリカ人入植者はなんとかハワイをアメリカに併合しようと画策します。

そんな中、比較的治世の長かったカラカウア王は、なんとかハワイの独立を守ろうと考え、アメリカのグラント大統領と会って貿易交渉を行ったり、少し前に禁止されていたフラを復活させたりしていました。とはいっても、当時のハワイの国力でアメリカと戦って勝てるはずもないため、外交的な打開策を見出すべく、アジアからインドを経てヨーロッパ各国を周り、アメリカ経由で戻るという世界一周の旅に出ます。太平洋地域の国を糾合してアメリカに対抗する、という構想をもっていた彼は、とりわけ日本に期待をもっていたようです。日本はハワイと同じように島国で、王政であり、欧米列強からのプレッシャーを受けながらも改革を実行し、独立を維持していました。

1881年に日本にやってきたカラカウア王は、日本から見ると、史上初の外国の元首の来訪でした。ドナルド・キーン著「明治天皇」では、天皇がそのとき、外交や政治の文脈を超えて、王の訪日を喜び、心から歓待していた様子が伺えます。ヨーロッパの王家どうしのコミュニティには相手にされず、国内では立場上誰に対してもなかなか打ち解けることができなかった明治天皇にとって、カラカウア王はまさに、心強い同じ立場の仲間と思えたのでしょう。

王は、上記のような「連合構想」とともに、王の姪であるカイウラニ王女(当時5歳)と、日本の皇族、東伏見宮依仁親王(当時13歳)との縁談を明治天皇に持ちかけましたが、明治政府はどちらも断ってしまいます。ただ、その際に、日本からの移民をハワイで受け入れるという点については合意され、1885年からハワイへのオフィシャルな移民が始まります。

しかし、カラカウア王とハワイ王国はその後、悲しい運命をたどります。アメリカ人入植者からのプレッシャーで、不本意な内容の憲法を受け入れさせられ、その憲法では参政権が一定以上の資産・収入のあるアメリカ人に有利であり、ハワイ人やアジア系移民は事実上排除されてしまいます。王党派とアメリカ人の板挟みの中で、かつては「メリー・モナーク(陽気な王様)」とあだ名された王はアルコール依存症となり、1891年に療養先のサンフランシスコで崩御。後を継いだのは、彼の妹リリウオカラニ女王でしたが、1893年にアメリカ人主導のクーデターが起き、女王はカラカウア王が建てたイオラニ宮殿に幽閉され、王国は滅亡します。このとき、日本は邦人保護の名目で東郷平八郎率いる海軍をハワイに派遣して、王家に味方する姿勢を見せています。

アメリカ人たちはハワイ共和国を宣言しますが、その後王党派の反乱などを経て、1898年にはアメリカに併合され準州となりました。1898年といえば、米西戦争でアメリカが落日のスペインの棺の蓋に釘を打った年で、アジアでスペインの植民地だったフィリピンをアメリカが獲得したため、太平洋の補給基地としてのハワイの重要性が高まっていたという背景もあります。

日本の皇族初の国際結婚が幻となったカイウラニ王女は、リリウオカラニ女王の王位後継者と指名されていました。ハワイ王家の女性を母に、スコットランド人を父にもつ王女は、知性が高く美貌で、国民の人気も高かったと言われます。王国滅亡のとき、アメリカ海軍の封鎖によりハワイからは誰も出られなかったため、まだ17歳だった王女が留学先のイギリスからたった一人でアメリカに渡り、クーデターの不当を当時のクリーブランド大統領に訴え、調査実行の約束を取り付けます。「島の野蛮人」だと思っていたハワイの王女が、実はとても優れた美しい女性だったことに当時のアメリカのメディアは驚いたようで、写真がたくさん残っています。

しかし、その甲斐なくハワイはアメリカに併合され、1897年にハワイに戻ったあと、1899年にカイウラニ王女は23歳の若さで病気で亡くなりました。最後の女王リリウオカラニはその後1917年まで、ハワイ人の尊敬を受けて生き延びました。リリウオカラニ女王は「アロハ・オエ」の作者として知られており、また、カイウラニ王女は2009年「プリンセス・カイウラニ」という映画になっています。

日本とハワイの間の合意で実施されていた官製移民は、ハワイ王国が滅亡した1893年で終わり、その後は民間人仲介として移民が続きましたが、これもアメリカ併合後の1900年に中止となりました。

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カイウラニ王女

出典: Wikipedia、ドナルド・キーン「明治天皇」The Princess Kaiulani Project

ベイエリアの歴史(30)- ヘルシーだったゆえに苦労した中国系移民

アイリッシュの他にも、イタリア、ギリシア、ポーランド、ユダヤなどいろいろな人々がヨーロッパからやって来ましたし、アフリカから連れてこられた奴隷もたくさんいましたが、東のほうの話にちょっと飽きてきたので、話をカリフォルニアに戻すことにします。

中国からの移民が本格的にカリフォルニアに流入しだしたのは、1850年ころのことでした。ゴールドラッシュの鉱夫として人が必要だった一方、中国では清朝末期の太平天国の乱で国土の荒廃と農民の困窮が加速していました。「金の山」の魅力につられてやってきた人たちは、目論見外れてひどい労働環境で働かされたわけですが、それでも本国の惨状よりはマシ、というお約束の移民ストーリーです。広東地方では、村を挙げて若い男子を出稼ぎに送り出し、地元に送金させました。1850年代に中国人のアメリカ移民は4万人台程度にまで達します。

ここまで見てきたヨーロッパ系移民と異なり、中国移民は最初からアメリカで法的に厳しい差別をされていました。中国人は移民一世がアメリカ市民権をとることはできず、ヨーロッパ系米国人と結婚することも土地の所有も許されず、また「非アメリカ市民の鉱夫」(=中国移民)は特別な人頭税も課されていました。当時、中国はまだ清朝の皇帝が支配する体制で、漢民族は満州風の辮髪を強制されており、契約年季があければ本国に帰るつもりの「出稼ぎ」であったために、辮髪を切ることに躊躇した人が多く、そのために見かけも一般アメリカ人から見ると「異様」でした。英語も話せず、知能の低い二級民族であるとの烙印を勝手に押されていました。1862年にカリフォルニア州知事となった鉄道王レランド・スタンフォードは、「アジアのクズどもからカリフォルニアを守らなければならない」などと演説したりしています。

しかし、大陸横断鉄道の建設が(8)で述べたような「ゲーミフィケーション」のフェーズにはいり、建設のための人手が足りなくなってきました。当時は東からはいってきたアイルランド系の移民が鉄道建設労働者に多かったのですが、それでも足りないので、現場監督が試しに中国人を雇ってみたところ、これが大成功。アイリッシュよりもはるかに効率がよい、ということに気がついてしまいました。

中国人たちは、村から送り出された若い男子ばかり。彼らは料理人を雇い、サクラメントやサンフランシスコから乾燥食品を持込み、豚や鶏を飼い、野菜や魚まで入手して、バラエティのある食生活をしていたそうです。また、お湯を沸かしてお茶を淹れるという習慣がありました。これに対し、アイリッシュたちは、ポテトとビーフしか食べず、生水と酒ばかり飲んでおり、病気やトラブルが多発していました。このため、崖から吊るされて岩を掘るといった厳しい現場の環境でも、中国人は赤痢にもかからず健康で、体格は貧弱で給料はアイリッシュより安いのに、黙々とチームワークを発揮して働く、優秀な労働者でした。

もちろん、鉄道会社にとってはこんなありがたい社畜はいません。おかげで、セントラル・パシリック鉄道の労働者の9割が中国人となり、会社は大儲けです。1868年には、アヘン戦争後の天津条約の改訂版であるバーリンゲーム条約が締結され、清から米国への移民が正式に法的に認められて、アメリカからは中国にエージェントがでかけ、中国人をリクルートして回りました。渡航のお金がない中国人は、渡航後の給料から渡航費を払うという契約で、どんどん連れてこられました。このため、1870年代には12万人以上という、移民のピークを迎えます。(そういえば、「Once upon a Time in China」というこの時代を描いた映画で、中国人を騙してアメリカに奴隷として売り飛ばすアメリカ人をジェット・リーがやっつける話がありました。)

しかし、市民権を取れないなどの法的な制約が緩和されず、なまじ優秀なためにかえって、職を奪われる白人からは攻撃され、仕方なく中国人たちは自分たちだけのコミュニティに固まって閉鎖的な生活を強いられ、ますます孤立と差別が激化していきます。米国に帰化できず、いつ国外追放されるかわからない不安定な身分が続きます。中国本国での伝統的価値観から女性は家に縛られて動けず、男性だけが渡航したのに、白人とは結婚できないため、中国人売春婦の人身売買という問題も発生します。(1890年時点でも、中国移民に占める女性の割合は5%以下でした。)中国人に対する暴力事件や差別待遇がますます激化し、1882年には「中国人排斥法」が成立し、中国からの移民の受け入れを事実上停止。その後も違法移民や例外的にはいってくる移民は続きましたが、数は10年で1-2万人のレベルまで激減しました。

アメリカに残った中国系の人たちは、鉄道完成後の農業ブームのときには農業労働者となり、また南北戦争後に奴隷解放で人手不足になった南部にも労働者としてはいっていったりしました。中国人排斥法は、第2次世界大戦でアメリカと中国が「同盟国」となった1943年に廃止されましたが、結婚などの差別は1960年代まで続きました。現在、中国系はアジア系アメリカ人の半分以上を占めますが、それでもアジア系全体でも米国人全体の5.6%にすぎません。最初からアメリカ市民権から締め出された中国系は、アイリッシュのような政治的な手段での地位向上をはかることが、第二次大戦後までできませんでした。そしてこの流れは、その後日系移民にも続いていきます。

安い給料で働く優秀な労働者という意味では、中国でiPhoneを作っている現代の人たちもアメリカ人から職を奪うとして同様に糾弾されています。アメリカ国内での中国系の地位はすっかり回復しましたが、似たような構造は現代でも残っているのですね。

出典:Wikipedia, KQED

800px-The_only_one_barred_out_cph.3b48680中国人排斥法を描いた風刺画

 

ベイエリアの歴史(29)- アイルランド移民の地位向上戦略

そもそも私が移民の話を始めた動機は、「日系移民」を理解するため、他の移民のパターンを見てみようということでした。その意味からすると、前回から引き続くアイルランド移民の物語には、注目すべき重要な点があります。アメリカの歴史上初めて、「移民排斥運動が起こった」そして「それを克服した」という点です。

19世紀前半にも、それまでと較べて大幅に欧州からの移民が増えていました。ナポレオン戦争後の欧州の人手過剰状態という「プッシュ要因」と、アメリカ側で1825年のエリー運河開通により中西部への交通が開けて農業開拓に伴う労働需要があったという「プル要因」の両方があったためで、(27)で述べたドイツ移民と同様に、北欧や中欧から、プロテスタント=中間層の移民がたくさんやってきました。アイルランドでも、北部はプロテスタントが多く、彼らはこの流れに乗ってすでにアメリカに来ていました。

これらの人たちが比較的問題なく、既存のアメリカ社会に受け入れられたのに対し、その後やってきたアイルランドのカトリック=貧民層は、突然大量にやってきて、価値観やライフスタイルも異なっており、不信感を持たれました。既存のアメリカ人労働者たちが、安い賃金で働く移民に職を奪われたり、賃金水準を押し下げたりすることに反発したのも、その後多くの「移民排斥」と共通しています。

もともと農民であったアイルランド人移民が、なぜ中西部の農場での「年季奉公人=奴隷的労働者」ではなく、都市に多く滞留するようになったのかは、私がこれまで読んだものではあまりはっきりしません。アイルランドからは家族全員の移住ではなく、家族の中で若い者が一人だけ家を出て、「棺桶船」とあだ名された劣悪な環境の船にぎっしり詰め込まれて海を渡りました。自力で農地開拓する資本もバックアップするコミュニティも、教育も職業スキルもないので、仕方なく「最低層の労働者」として都市で働くことになりました。農村よりは都市のほうが、まだ差別の中でもましな生活ができたから、ということかもしれません。ニューヨーク、ボストン、シカゴなどの大都市では、こうしたアイルランド人のコミュニティが形成されていき、貧困の中で犯罪者も多く出ました。

アイルランド移民は、他の移民コミュニティと較べていくつか特徴がありました。一つは「女性が多く、約半分を占めていた」ことです。女性が結婚するのに多額の持参金が必要だったために、飢饉の貧困の中で結婚が難しかったことなどがその背景として挙げられています。彼女らは家内女中として働き、第二世代以降は教師などの職を得て自立していきます。このため、アイルランド系コミュニティでは、女性の地位が比較的高かったとされます。一方、男性は「スト破りの代替労働者」となったり、消防や警察などの危険な公的職業に就いたり、少し後には鉄道建設労働者ともなりました。もう一つは、「帰国率がきわめて低かった」ことです。イタリア、ギリシア、ハンガリーなどからの移民は、半数近くがその後本国に帰っていたのに対し、アイルランドでは10%以下でした。アメリカの貧民窟でもまだ本国よりマシという状態だったからで、文字通りの「背水の陣」だったわけです。

そんな中で、移民排斥と戦うために、アイルランド人たちは、カトリックをアイデンティティのシンボルとしてコミュニティの結束をつくりあげ、そのコミュニティの数を束ねて政治に参加し、異議を申し立てることで道を開くことに成功しました。一貫して「民主党」を支持し、民主党から議会にアイルランド系の代表を送り込み、「バチカンへの精神的な帰依」と、「アメリカ国家への政治的な忠誠」とは矛盾するものではない、ということを、長い間にわたってコツコツと積み上げて実証してきました。

差別といっても、もともと白人でキリスト教でもあるアイルランド人は、こうしたきわめて尋常な政治的手段で、アメリカ社会に同化することに成功したわけです。差別されていたからこそ、コミュニティとしてのアイデンティティを保って数をまとめるという意図があるためか、それ以前にもっと順調に同化したドイツや北欧などと比べ、バグパイプやアイリッシュ・ダンスなどの「文化」の保持もより意識的に行われ、今でも白人エスニックの中では目立つ存在です。アイリッシュといえば「子沢山」というのも定番のジョークネタですが、それももしかしたら、人口=票を増やそうとワザとやったのかもしれません。

飢饉以降、アイルランドからアメリカに移民した人は700万人とされ、現在アメリカには「アイルランド系」と自称する人が3500万人います。アイルランド本国の人口の7倍以上にあたるわけですね。私自身カトリック教徒でもありますが、普通の生活の中で「カトリックが差別されている」と感じたことは全くありません。

それでも、1960年代に登場したJFケネディ大統領の時代までは、まだまだアイルランド人やカトリックへの差別がそこここに残っていた、という記述には少々驚きます。そして、2015年の現在に至るまで、このボストン出身の民主党政治家が、実は歴史上唯一のカトリック信徒の米国大統領です。

そういえば、先週のフランシス教皇来米時に、NBCニュースで、JFケネディの姪にあたるマリア・シュライバー(元シュワちゃんの妻)がコメンテーターをやっていたのですが、そうやって考えるとなかなか奥が深いものがあります。

John_F._Kennedy,_White_House_color_photo_portraitJohn F. Kennedy from National Archives and Records Administration

出典: 『辺境のマイノリティとしてのアイルランド人』在日米国大使館U.S. Census Bureau

ベイエリアの歴史(28)- やっぱり人災だったアイルランドのジャガイモ飢饉

アメリカではちょうど先週、ローマ教皇フランシスが来米して大騒ぎでしたが、カトリックはアメリカでは歴史的にも現在でも、マイノリティの立場です。ここまで見てきたように、プロテスタント=中間層が新天地での事業に成功して定着してきたわけですが、そこに最初にまとまったグループとしてやってきたカトリックの人たちがアイルランド人でした。

私の「宗教=階級闘争」の図式でいうと、カトリックは「領主+農民」のパターンですが、イギリスの場合はカトリックが国教会になってしまったので、イギリスに征服された植民地であったアイルランドでは、「領主は国教会+農民はカトリック」という色分けになりました。その昔のイギリス国教会は、プロテスタントのピューリタンやクエーカーを追い出し、返す刀でアイルランドのカトリックもいじめぬくというジャイアンでしたが、例によって宗教は「特定のグループの人たちを色付けするための記号」に過ぎません。

そのグループの人たちがアメリカに大量に流入したきっかけは、19世紀半ばの「ジャガイモ飢饉」でしたが、天候不良や作物の病気による飢饉は歴史上何度もあったはずなのに、なぜそのジャガイモ飢饉がそれほどの大事件であり、それほどの移民を短期間の間に発生させたのか?というのが私の本日の課題です。

アイルランドは、この時期はイギリス連合王国に併合されていましたが、異なる言語を話す貧しい辺境でもあり、過去に何度も反乱や戦争があったために「アブナイ場所」とされ、領主は「不在地主」となっていました。工業も鉱物資源もないアイルランドは、イギリス人の食料を供給する農業植民地となり、よい農地はイギリス輸出用のビーフやバターを生産するための牧草地や穀物畑として使われ、農民自身には痩せた土地しか残されませんでした。不在地主の徴税代理人は、まるで時代劇に出てくる「悪代官」そのもので、当時の税制の中で税金をよりたくさん取れるように、農民の借りる土地をどんどん細かく細分化し、搾取しまくりました。農民が土地に投資して改善を行ったとしても、その資産は領主に属することになっていたため、農民はプロセス改良投資を行う意欲がなく、不在地主も事情を知らずほったらかしで、生産性が低いままでした。農民は作物をイギリスに輸出し、それで稼いだものの大半を地代としてイギリスにいる領主に支払うという「二重搾取」の図式になっており、1829年に「カトリック差別法」が撤廃されるまで、土地の所有も投票もできませんでした。ほとんど「農奴」のようなものです。

大航海時代に欧州にはいってきたじゃがいもは、痩せた土地でも育つため、こうした事情をかかえるアイルランドの農民にとって重要な食料となりました。土地が細分化しているので、多種の作物を作るというわけにいかず、ひたすらじゃがいもを作るしかなく、しかも育てられていたのは同じ品種のじゃがいもばかり。じゃがいもは、穀物と較べて長期保存がきかないという弱点がありましたが、他に有効な代替作物もありませんでした。そこへ、じゃがいも疫病が大発生しました。

それまでも、じゃがいもの不作という事態はときどき起こっていて、農民にとっては「なんとか共生していくしかない」ものだったのですが、このときは別のいくつかの要因が重なりました。

まず、この直前までに、アイルランドの人口が急激に増加していたこと。飢饉直前の1841年には800万人を超え、過去50年に倍増の勢いでした。(マルサスの人口論そのものですね・・)次に、19世紀半ばといえば(8)で述べたような「泥棒男爵」の時代で、暴力的な投資家が跋扈し、政治的には「レッセ・フェール」の考え方が強い時代であったこと。このため、当時の資本主義総本山であるイギリス政府が「アイルランド貧民救済」という政策をとることに躊躇しました。さらに、領主による「強制退去」が加わってしまったことが第三の要因で、これらが重なって移民の大流出となりました。

飢饉の原因はじゃがいも疫病であり、全体的な天候不順ではなかったため、じゃがいも以外の作物は普通にとれており、実は飢饉の1845-52年の期間中に、イギリスへの畜産物や穀物の輸出はむしろ「増えていた」のだそうです。本来ならば疫病の発生がわかった時点で、イギリスへの食料輸出を止めて、これらの食料を地元消費にまわせば飢饉を回避できたはずなのに、イギリス政府はその手段をとらず、領主階級である政治家は「貧民たちに天罰が下った」という主旨の発言などしておりました。

そして、当時の税制では、年間4ポンド以下の地代しか払わない貧しいテナント一人につき、領主が付加税を負担しなければならなかったため、細分化した貧農をたくさんかかえる領主はたくさん税金を払うという仕組みになっていました。貧農との「共同体意識」を全く持たない不在領主は、飢饉で没落した貧農を土地から追い出し、自分の税負担を減らそうとします。このため、1847年に大掛かりな「強制退去」が発生しました。

こうした要因が重なり、直接の餓死と栄養不良による病死を合わせて100万人以上(推計によってはそれ以上)、そして移民として流出したのが100万人以上、合計して全人口の20-25%がアイルランドから消えました。日本の県でいえば、福島県や群馬県がだいたい人口200万ですから、中ぐらいの県が一つ、数年で消えてしまったようなものです。アイルランドはその後も1960年ぐらいまで長期的な人口減が続き、現在でも450万人にとどまっており、飢饉前の人口を回復していません。飢饉前は、ケルト語系の独自の言語をもっていましたが、人口減以降は英語が支配的になって現在に至っています。

こうした経緯をみると、税制や不作為を原因とした「人災」という側面が強く、またそれはかなり「植民地に対する差別意識と搾取構造」に根ざしています。穿った見方をすれば、イギリスの政治家が「アイルランドにこれ以上反乱を起こさせないために、わざとほっておく」と考えたのかも、と見ることもでき、ジャガイモ飢饉は「不作為によるジェノサイドだった」と唱える学者もあるそうです。

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去っていく移民を見送るアイルランド人家族

出典: Wikipedia

ベイエリアの歴史(27) - アメリカの建前とドイツからの難民

ピューリタン達がニューイングランドに来てさらに半世紀ほど後、もう一人の重要人物がアメリカ大陸にやってきます。 当時のイギリス国王チャールズ2世は、裕福な軍人で英国教会教徒のウィリアム・ペンに借金しており、そのカネを返すかわりに、オランダからぶんどったばかりのニュージャージの南部・西部(=辺境)を「大勉強!あげちゃう!」と与えました。親父ペンには、当時の新思想に染まった理想主義の同名の息子がおり、「ぼ、ぼ、ぼくは、父さんのような腐った大人になりたくないんダ!」とプロテスタントのクエーカー派に改宗しました。息子ペンは、イギリスでますますプロテスタントへの迫害が厳しくなって、新大陸で理想郷を作りたいと思っていたので、(この親父と王様のきたない大人どうしの取引で得た)新天地に仲間と一緒に喜び勇んで出かけていきます。(大人たちは、厄介な息子と厄介な新興宗教を追っ払ってせいせいしたんだと思います。)1681年のことです。

1385042673_william-penn-16441718ウィリアム・ペン(息子)

しかし実は、この息子ペンは優秀なリーダーでした。彼はこの土地をシルバニア(ラテン語で「森の国」)と名付けようとし、チャールズ2世は親父ペンに敬意を評して「ペンシルバニア」と名づけました。息子ペンは、「信教の自由、主権在民、三権分立」という新しい考え方の統治システムをつくり、その理想に忠実にオープン・ポリシーを掲げ、どのプロテスタントの宗派でも、あるいはカトリック教徒であっても、誰でも平等に権利が与えられるようにしました。当時、ニューイングランドではピューリタン以外は入れないという「ピューリタン原理主義」になってしまっていたので、自由の国ペンシルバニアと、それに隣接する、オランダ領時代からの「フリーダム」気質のニューヨーク・ニュージャージーに、あらゆる宗派の人々が欧州から続々とやってきました。

やってきた人々は、イギリスの各種プロテスタント、オランダのカルヴァン派、フランスのユグノー、北欧人などいろいろですが、中でもドイツからは、各種プロテスタントとカトリックも少々入り混じった人々が、怒涛のようにやってきました。ドイツ語のデマ、と言いましたが、1680年にペンシルバニアの人口の60%がイギリスで33%がドイツ、ニュージャージーとデラウェアでは6-11%がドイツ出身だったそうで、かなりたくさん(おそらく数十万人の桁?)いた、というのは嘘ではなさそうです。(フランスもオランダも、自国の領地があるのに、せいぜい数千人でしたよね。)18世紀の本国の人口が、フランス(2200万人)に次いでドイツ(1700万人)であり、オランダやイギリスと比べ一桁多く、とにかく母数が大きかったということでしょう。また、ペンの統治システムのおかげでインフラ整備も進み、フランス植民地ほど住民がバタバタ死ぬ状態ではなかったのだろう、ともいえます。

ここまで見てきたイギリス、オランダ、フランスの場合は、いずれも北米に「領地」を持っていてそこに自国民が合法的に「植民する」というパターンでしたが、ドイツは当時まだ欧州の中の後進国で、海外領地どころではなく、前回述べたように、戦国時代に日本にやってきた欧州人の中には、ドイツ人もオーストリア人もいませんでしたよね。1600年代当時のドイツは、同時期の「江戸幕府」と似たような構造で、神聖ローマ帝国=オーストリア(天皇家)はオスマントルコと宗教改革にやられ続けて衰退しつつあるけれど「キリスト教会の守護者」としての正統性で君臨だけはしており、その下に数百の封建諸侯(大名)が割拠して、その中で一番大きいホーエンツォレルン家(徳川家)のプロイセンが「盟主」(征夷大将軍)として浮上してきました、という感じです。

この頃、宗教戦争に端を発して、みんな(いくつかのドイツ諸侯含む)でオーストリアをいじめた「三十年戦争」が起こり、戦場となったオーストリア/ドイツは、泥仕合の末に国内でカトリックとプロテスタントが現状維持というどっちつかずの終わり方となり、権力は細分化のまま固定しました。同時期に、フランスはルイ14世の絶対王政に向かい、イギリスは共和制を着々とつくりあげたのに対し、ドイツはずるずると競争優位を失い、戦乱で荒廃した住民の生活は貧窮し、どこでもいいから逃げ出したいという人が続出したのです。つまり、このときのドイツ移民とは、「経済難民」のようなものといえます。その後もドイツからの移民の波は続き、フランス革命からナポレオン戦争にかけて、またまたドイツが踏み荒らされてしまった頃がピークだったようです。

難民といっても、やはりプロテスタント、つまり職人・商工業者という「中間層」の人々が多く、今でも世界に冠たる「ドイツのクラフツマンシップ」で知られる人々が大量にはいってきて、その後のアメリカ北部の工業の発展を支えていきます。

そして、ペンのつくった理想郷の統治の仕組みは、その後アメリカ合衆国に受け継がれ、その理想は(本音ではいろんな人がいろんな考えを持っていますが、「建前」として)アメリカ人のアイデンティティを支える「理念」となっています。(をい、トランプ、きいてる?)

出典: 在日米国大使館、fujiyanの添書き、Wikipedia、Civil Liberties

ベイエリアの歴史(26) - フランス、広大なるルイジアナの謎

カナダにはフランス語が残り、(5)でお話したように、かつての仏領ルイジアナは広大でしたが、今のアメリカでフランス支配の痕跡は(ニューオーリンズ以外で)ほとんど感じることがありません。私は以前ニュージャージーに住んでいたので、むしろオランダのほうが「バーゲン郡」「ホーボーケン」などといった地名で親しみを感じます。あの「ルイジアナ」地図の広大さは私にとってはずっと謎でした。 例によって日本史本位の私の頭では、「戦国時代に、欧州人が日本にやってきた」といっしょくたですが、そう言われれば、「南蛮人」はスペイン・ポルトガル(旧教国)、「紅毛人」はイギリス・オランダ(新教国)であり、フランス人ははいっていません。フランスはもともと海洋国でない上、この時期長期にわたるユグノー戦争で国内が疲弊し、大航海時代に出遅れていました。ちなみにユグノーはフランスのプロテスタントで、北米植民地初期に重要な役割を果たしたイギリスのピューリタン、オランダのカルヴァン派と似たような中間層の人たちでした。

その後、あわてて追いつけ追い越せで頑張ったフランスの植民地支配は、前期・後期のふたつに分けられ、北米は「前期」にあたります。ベトナムなどのアジア進出は「後期」で、ナポレオン戦争以後になってからのことです。オランダがジャワを拠点に繁栄した時代から見ると、300年も後のお話です。

16世紀のオランダ大ブレークの頃、それでもフランスから北米に漁船がやってくるようになり、とりあえず他の欧州人のいなかったカナダに1534年に旗を立てて領有宣言します。が、ユグノー戦争で忙しくて70年ほどほったらかし、ようやく戦争が終わってから当時の国王アンリ4世が、イギリスに対抗心を燃やして海外進出に興味を持ち始め、1603年にシャンプランがセントローレンス川(現在のカナダ・アメリカ国境)を探検。ちょうどオランダ人がハドソン川で毛皮を見つけて領有宣言したのと同じ経緯を経て、ケベックでの植民がはじまります。毛皮取引のアービトラージ経済ですから、ビーバーが住んでいて、さらに当時の唯一の物流手段である「船」の通れる「川」がポイントとなっています。といっても、寒冷で厳しい自然と強力なネイティブ・アメリカンに阻まれ、その後15年たってもせいぜい数百人ぐらいしか、植民地に住んでいなかったようです。

1664年にイギリスがオランダを追い出し、東部海岸沿いががっちりイギリスの支配下にはいった頃、カナダから五大湖を渡り、フランス人が川にそって南下しはじめます。内陸はまだヨーロパ人は誰もおらず、まだ幻の「アジアへの近道」が諦められなかったのでした。最初に西へと向かうオハイオ川からアジアへの道を探し始めた探検家カブリエ・ド・ラ・サールは、この川はミシシッピ川に流れ込み、西ではなく南へ向かうことを発見し、1682年にメキシコ湾に注ぎ込む河口、現在のニューオーリンズまで達します。ミシシッピ川は、それまでの川探検と違い、上流から下流へと入って海に達したわけです。その後フランス人たちがミシシッピ川とその大きな支流をあちこち探検し、流域を国王ルイ14世からとってルイジアナと名付け、領土宣言しました。つまり、広大なミシシッピ川流域のおかげで、フランスの領土は広大になったというわけです。

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ミシシッピ川と支流の流域

しかし領有宣言はしたものの、本国からの「投資」が続きません。イギリスが民間資本主導の一攫千金土地投機でぼんぼん投資したのと異なり、王様の持ち物であるルイジアナに投資する国家予算の余裕が、当時のフランス王家にはなく、港湾・運河・道路などのインフラがまったく整備されず、寒くない代わりに疫病が多く、生活は困難でした。イギリス人であるジョン・ローがフランス政府に進言し、イギリス風の「ミシシッピ会社」という開拓会社を作りましたが、フランス国家の負債を肩代わりする詐欺的なスキームで実質的な開拓は全くやらず、歴史上「3大バブル」の一つとして汚名を残しただけでした。

またフランス政府は、植民地ではカトリック以外禁止としたので、ユグノーたちはルイジアナへは向かわず、むしろイギリス領のプロテスタント支配地域へと行ってしまいました。そのため、18世紀の間にルイジアナへ移民したヨーロッパ人は7000人ほどと言われ、イギリス植民地の100分の一に過ぎませんでした。これだけ広大な土地を、わずかな人数とわずかな投資で維持するのは、どだい無理な話です。

フランス領のうち、イギリスのヴァージニア植民地と同様の「売れる作物を作るプランテーション」というマネタイズが成功したのは、北米本土ではなく西インド諸島、特に現在のハイチであり、作物は砂糖でした。ここで、砂糖・黒人奴隷・ラム酒という有名な「三角貿易」のビジネスモデルができます。これに関わる北米の物流拠点として1718年にニューオーリンズ(=新オルレアン)が建設され、ルイジアナの首都となります。

しかし、人口希薄で防衛も不十分なフランス植民地に、貿易権益と境界をめぐる諍いが起こり、イギリスが攻め込みます。北米ではフレンチ・インディアン戦争、それが欧州にも飛び火して7年戦争となり、負けたフランスは、1763年にミシシッピ以東をイギリスへ割譲、ミシシッピの西はスペイン領となり、仏領ルイジアナはいったん消滅してしまいます。

その後、ナポレオン戦争の時代に、カネに困ったスペインがフランスにルイジアナを返すという密約(サンイルデフォンソ条約)が1800年に成立しますが、わずか3年後に、今度はカネに困ったナポレオンがアメリカ合衆国に売却してしまって、完全に植民地は消滅します。

しかし、こうして見てみると、毛皮取引は北のほうでやっているし、奴隷はフランス北米植民地での自前の需要があったわけでもなく、人口も希薄ということで、北米からフランスに輸出する素材も、フランス商品の「市場」もどちらもなく、ミシシッピ流域物流拠点である魅力的な街ニューオーリンズですら、ビジネスモデルがありません。ナポレオンが「いらんわー!」と売り飛ばしてしまったのも、なんとなく理解できます。

結局フランスは、豊穣な農業経済である本国の「土地領有」の感覚で領土を獲得しながら、オランダ式のアービトラージ貿易経済というビジネスモデルをきちんと構築できず、イギリス式の「投資と人」を大量につぎこむ土地投機・面展開ビジネスモデルもできず、それでもオランダよりは長くがんばったのに、やっぱりちぐはぐで影が薄いまま、120年ほどで仏領ルイジアナは消滅したということになります。

繰り返しになりますが、アメリカという国は、「土地投機」によってできた、ということを改めて思います。

出典: Wikipedia、National Park Service, U.S. Dept. of Interior

ベイエリアの歴史(25)- オランダ、うたかたの夢

ドイツ語のデマの話を前にしましたが、もし英語以外のアメリカ公用語があったとしたら、オランダ語が一番可能性が高かったのでは、と私は思っています。 アメリカ大陸発見から植民地が始まるまでの「北米空白の100年」の間に、欧州で大ブレークしていた新興国がオランダでした。その頃まで、(1G経済である伝統的農業以外の)欧州の富の源泉は、突き詰めると「アジアの香辛料を安く買ってヨーロッパに持ってきて高く売る」というアービトラージの2G経済であり、そのための最適な流通の仕組みを持っている人が勝ちでした。それで、ルネサンスの頃はイタリア都市国家が栄えたわけですが、これらは大西洋航路ができて衰退、西に向かって真っ先に飛び出したスペインは南米大陸のお宝掘りというあさっての方角に行ってしまい、その間隙をぬって王道のアフリカ周り航路で香辛料貿易の権益を築いたのが、「東インド会社」コンビのイギリスとオランダだったわけです。

この頃、すなわち16世紀といえば、欧州では宗教改革と反宗教改革が入り乱れた時代です。領主+農民という「農業ベースの1G経済」の時代を脱し、毛織り物など手工業を営む「中間層」が形成され始めた中で、プロテスタントを歓迎したのはこうした「中間層」の人たちでした。宗教改革とはつまり「階級闘争」だったと考えられます。

オランダもそういった人たちがカルヴァン派のプロテスタントに改宗しました。当時、オランダはハプスブルク家(=神聖ローマ帝国=カトリックの守護者)の支配下でしたが、そういうわけで独立戦争を経て1581年に独立を宣言します。オランダはインドネシアのジャワを植民地としましたが、その役割は「船と物流の中継地」としての性格が強かったようです。そこから運び込まれた品物をさばくために、アムステルダムにはモノと資金が集積されて、初期の「金融市場」が形成されて繁栄し、アジアではジャワから日本にまでやってきました。

船があって、新興国の勢いのあるオランダ人たちは、まだ「アジアへの近道航路」をあきらめきれずに、北米を探検します。ヴァージニア植民地開始と同じ1609年、オランダ東インド会社に雇われたイギリス人ヘンリー・ハドソンが探検にやってきて、現在のハドソン川を遡ってオールバニーまで達し、その流域をオランダ領と宣言しました。アジア航路は見つかりませんでしたが、ハドソン川上流地域では、ネイティブ・アメリカとの取引でビーバーの毛皮が入手できることがわかりました。2G経済ですから、香辛料も金銀もないなら、何かほかにヨーロッパで高く売れるモノをアメリカで見つけて安く入手する必要があったのです。毛皮を積み出す河口の港町はニューアムステルダムとなり、この地域とその周辺のニュージャージー、コネチカット、デラウェアに植民地が建設されてニューネーデルラントとなり、オランダから移民がやってきました。

しかし、この時期のオランダ人の北米支配スタイルは、ジャワと同じ物流拠点としての「点」としての性格が強く、ヴァージニア植民地のように、そこに資金と大量の人を投入して開拓し、「面」として支配するものではありませんでした。統治は総督が派遣されていましたが、最後の総督であったピーター・ストイフェサントは、宗教の自由を抑圧しようとしたため住民からそっぽを向かれ、1664年に侵攻してきたイギリス軍にあっさり降伏し、ニューアムステルダムはニューヨークとなります。その後、再度オランダが取り返したりしましたが、三次にわたる英蘭戦争を経て、ニューネーデルラントは完全にイギリス領となります。

もしオランダが初期の勢いをもっと長く維持していれば、今のカナダのように、英語とオランダ語が両方とも公用語という事態がありえたかも、と想像するとなかなか面白いです。

ニューネーデルラントには最盛時6000人ほどの住民がいたと言われており、人口としては大したことはありません。毛皮取引程度では、あまり大きな人口を養うことはできませんでした。しかし、現在でもニューヨークやニュージャージーには、オランダ語起源の地名がたくさん残っています。また厳格なニューイングランドとは違う、文化的多様性に寛容なニューヨークの気質はオランダ人に由来すると言われています。

わずか50年ほどで、新大陸での利権を失ってしまったオランダは、本国でも英蘭戦争で負けたあと、あっというまに衰退してしまいます。しかし、日本ではオランダは最盛期のときにはいりこみ、その後の鎖国中欧州の国として唯一取引を許され、オランダ最盛期の世界認識がその後200年も凍結したままでした。考えてみれば、宣教師を送り込んで悪気も容赦もなく住民を奴隷化するスペインと、民間投資による「面」展開を武力でプッシュするイギリスを追い出し、「点」支配スタイルで寛容なオランダだけを残してあげた徳川幕府のセンスは、案外悪くなかったのかもしれません。

NEWNEDERLAND

1614年のニューネデルラント地図

出典:在日米国大使館、Wikipedia

ベイエリアの歴史(24)- 始まりは「白人奴隷」

まだベイエリアにはたどり着きませんが、一応アメリカに話が戻ります。でも、時代はまた昔に戻り、アメリカ大陸が発見された後のことです。相変わらず読者のことなど考えず自分の好きなことだけ書いております。 本当は、日系移民のことを調べようと思っていろいろ読んでいるうちに、19世紀のドイツに引き込まれてしまったのですが、日系移民の話の前に、まずは他の移民について調べてみます。

300px-MayflowerHarbor(メイフラワー号)

スペインに雇われたイタリア(ジェノヴァ)人であるコロンブスが西インド諸島に到達した5年後の1497年、今度はイギリスに雇われたイタリア(ヴェネツィア)人であるジョン・カボットがニューファンドランド島に到達、その後のイギリスの北米領有の根拠となりますが、この航海は単発で終わり。次の本格的な北米探検は、フランスに雇われたイタリア(フィレンツェ)人のジョヴァンニ・ダ・ヴェラッツァーノが、1524年にノースカロライナに上陸してニューヨークまで北上したもので、現在もニューヨークのブルックリンとスタテン島を結ぶヴェラザノ橋として名前が残っていますね。相変わらず、イタリア人がパシリに使われています。

この間、中南米征服に熱心だったスペインは、フロリダ以外の北米には食指をほとんど動かしていません。おかげで、ビーバーの毛皮や魚を取りにフランス人やオランダ人がパラパラ来た程度であったわけですが、なぜスペイン人が北米を放っておいたのかというと、ずばり「金銀財宝が出なかったから」であります。グランドキャニオンやカンザスあたりまで探検したのに何も出なかったせいで、メンドクセー、メキシコやペルーで銀を掘り出してればいいや、ということになったようです。

さて、その頃まだまだ新興国であったイギリスは、そんな財宝を積んだスペインの船を途中のカリブ海で襲う「海賊」という、せこい商売をしていました。1585年にウォルター・ローリーによるノースカロライナ植民計画が失敗したあと、ようやくイギリスによる本格的な植民が始まるのは1607年、ジョン・カボットから数えても100年以上あとのことでした。

この最初の植民地は、誰でも知っている「メイフラワー号」ではありません。この辺、私も全然わかっていなかったのですが、イギリス国王から「ここを開発していいよ」という勅許状を得たロンドン商人の一団が、「ヴァージニア会社」を設立して「エンジェル投資家」から資金を集め、ヴァージニアに移民を送り込んだのが最初のイギリスによる植民地で、要するに、一攫千金を狙ったベンチャーです。

メイフラワーがプリマス(現在のロードアイランド州)にやってくるのは、これよりさらに後年、1620年のことです。こちらは、ご存知のようにイギリスで迫害を受けたピューリタンが新天地を求めたものですが、北米地域の開発はヴァージニア会社が権利を持っていたので、ヴァージニア会社と交渉して、その辺境の地を開拓することを請け負って出発、でも実は全然ヴァージニアに行く気はなく、はるか北のニューイングランドに到着しました。

ピューリタンたちは文字通り背水の陣であったので、自分たちが自活するための農業をその地で始めますが、ヴァージニアのほうは、相変わらず金銀財宝を探すのが株主たちの主な目論見でした。困難な航海・生活環境やネイティブ・アメリカンたちとの戦いという高いコストを払っても、ぜんぜん金銀が見つからないので会社は行き詰まり、結局この地の権利は王家一族のものとなってしまいます。しばらく試行錯誤でピボットを続けるうちに、この地では「タバコ」を作って輸出するというビジネスモデルがようやく確立し、その後プランテーションが成立していきます。結局、目的は自給自足ではないのです。

つまりヴァージニアでは、株主やビジネスオーナーたちは、自分たちで新大陸まで行く気はなく、従業員を送り込んで「良きにはからえ」という態度でありました。従業員といっても、「年季奉公人」という実質的な「奴隷」であり、だからやる気がなく、なかなか開拓が進まなかったようです。

そういうわけで、私などはイギリスからアメリカへの初期の移民は「勤勉なピューリタン」だと思っていたのはさにあらず、特に南部では実は白人の「奴隷」が大半を占めていたということだそうです。その後、イギリス本土で議会ができたりして人権意識が高まるにつれ、白人奴隷はメンドくさくて高コストなので、もっと安い黒人奴隷をアフリカから連れてこようとなっていきます。

そして、この最初の一歩から、その後南北戦争につながる「北」と「南」の経済・社会の構造の違いが、すでに芽生えていたのでした。

出典:在日米国大使館北米イギリス植民地帝国史

(ベイエリアの)歴史(23)- 「権力の空白」の恐怖

ますますベイエリアと関係なくなってきたので、ついにカッコがついてしまいました。(-。-; 昨日の続きで、お局様たちにハブられて孤立したドイツ(ジャイアン)の唯一の味方は、かつての名門だが力のないオーストリア(スネ夫)だけでした。スネ夫がジャイアンの力を頼りにバルカンに介入して、セルビア人テロリストに皇太子を殺されてしまったサライェヴォ事件をきっかけに第一次世界大戦が始まります。

これまた、それでなんでドイツがフランスとドンパチ始めるのか、風が吹けば桶屋が儲かるですか、みたいな説明しか世界史の教科書には載っていなかった記憶があります。その複雑怪奇な背景はようやく今回の歴史講義オーディオブックで理解できたのですが、ここでは省略、また機会があれば後日に。

サラエボ

バルカニゼーション(バルカン化)という定番言い回しがあるほどのこの地域は、歴史の長い長い間、オーストリア(神聖ローマ)帝国とオスマントルコ帝国の係争地でした。改めて歴史年表を遡ると、神聖ローマ帝国の成立は962年(日本は平安時代)、ハプスブルク家が王朝を始めたところに限っても1438年(室町時代)であり、またオスマントルコの成立も1299年(鎌倉時代)という、それぞれ実に長い伝統をもっています。問題の19世紀後半、技術爆発により、軍事技術も社会制度も急激に変化したのですが、この両老大国は、その変化についていくことができず、ずるずると支配力を失っていきました。

トルコは数次に渡ってウィーンを攻略しており、一時はハンガリーまで版図に入れていましたが、17世紀終わりころから徐々にヨーロッパ側の領土を失って衰退していきます。一方、ドイツ統一の少し前に、イタリアではピエモンテ(サルディーニャ王国)を中心とした「イタリア統一運動(リソルジメント)」があり、1861年にイタリア王国ができますが、その大きな動機は「オーストリアから北イタリアをとりもどす」ということでした。セルビアは、これに倣って自らが「ピエモンテ」になり、バルカン半島をオーストリアから取り戻して統一国をつくろうと目論んでオーストリアともめていたワケです。

残念ながらセルビアの目論見は実現せず、結局トルコもオーストリアも去ったバルカン半島には、一時はソ連が進出していましたが、ソ連崩壊後またもや「権力の空白地帯」となり、経済的に苦しい小国がお互いに紛争を繰り返す状態が続いています。トルコが去ったあとに、イギリスがちょっかいを出して現在の火種となってしまったパレスチナも、その意味では似たような空白状態です。そんな中で、シリアやその周辺から、難民がバルカン経由で欧州に向かって流入する難民問題が深刻化しています。

直接のきっかけはクルド人迫害やイスラミックステート(IS)で、アメリカのちょっかいも悪かったらしいですが、ちきりんさんのブログによると、アフリカや中近東の多くの国で、人々はちょっとお金が手に入るとクルマや家電を買うのではなく欧州へ移民しようとする傾向があって、「経済がよくなれば難民が減る」という仕組みになっていない、という問題もあるそうで、不安定な権力の空白地帯ではこうした事態が発生しやすい、ということも言えます。短期的対処はさておき、長期的に権力の空白をなくしていく戦略としてよいのは、一体なんだろう、と考え込んでしまいます。

いまどき帝国主義時代のように、遠くの外国が植民地として支配することはありえないでしょうから、理想的には域内の有力勢力が面倒をみる形で、ある程度の大きさのまとまりに統一するという「プロシア/ピエモンテ方式」がよさそうな気がしますが、ちゃんとした政治のできる「域内の有力勢力」がなかなか出てきません。友人のレバノン系米国人がこの件に関して、「ドイツやアメリカに押し付けるな、サウジアラビアとかの金持ちイスラム教国はなにやってんだ」(ちなみにレバノンは小国なのに相当数の難民の面倒をみているようです)とフェースブックに書いていたのが目から鱗で、本来ならそういうことなのかもしれません。「スンニー派だシーア派だと、イスラム教どうしで内輪もめしちょったらいかんぜよ」(バルカン事情も代入可)というメタな視点のある域内リーダー国が出てきてほしいものです。

出典: The Great Courses, New York Times, 山川世界史総合図録、木村正人ブログちきりんブログ

ベイエリアの歴史(22)- 19世紀のドイツ

サインコサインは女子には教える必要ないという人があるようですが、それを言ったら縄文・弥生時代の歴史の知識なんぞ、男子も女子もおよそ実社会で使うことはありません。逆に、本来であれば「実用向け」として現代人がぜひ知っておくべき「近代史」について、日本の学校では時間切れになってろくに授業で教えず、まったくダメダメだと思います。せめて高校では、日本も世界も一緒にした19世紀後半から現代までの「近代史」という授業を1年かけてやるべきだ、とつくづく思います。というわけで、はるか昔に戻って、まためちゃくちゃな横道にそれますが、本日はちょっと19世紀のドイツ、この方のつくった国のお話です。ビスマルク (ちなみに、カリフォルニアのウチの学区では、アメリカ史も世界史も、ばーっと通史でやるのではなく「中世から近世まで」「南北戦争まで」「帝国主義から現代まで」など、テーマ的に分類して教えています。)

かく言う私も、歴女を自称するわりに、近代史については知らないことが多く、この歴史ブログシリーズを書いていて改めて「19世紀後半の日本とアメリカの同期性」について興味をもったわけですが、その「4G経済」のもう一人の同期生であるドイツについては、実はあまりよく知らないのです。それで、「Long 19th Century:  European History from 1789 to 1917」という歴史講義をオーディオブックで聴いています。講師のロバート・ワイナー教授はアメリカ人ですが、「欧州」を起点として世界を見ると、この時期「アメリカ」と「日本」が、「欧州外の新勢力」として、ほぼ必ず一緒にあちこちで言及されるのは面白いです。日本視点だと、「欧米列強」がいっしょくたで、日本は「遅れてる」としか見えないのですがねぇ。ワイナー先生は「日本の影響を軽く見るべきではない」などとおっしゃっています。

欧州の中でも辺境の地であったドイツは、数多くの諸侯国が割拠しており、ナポレオンが弱いところをつぶしたおかげで統合が進み、さらにそこからプロシアが勝ち抜いて他をロールアップしていきます。そして「入れ替え戦」ともいうべき1870年の普仏戦争に勝ってドイツ帝国となり、ついに欧州メジャーリーグにはいりました。このシリーズ(7)で述べたように、アメリカの南北戦争(1864)、日本の明治維新(1868)、ドイツの統一(1871)は時期的に近く、技術の爆発的進化の時代を背景に、「細分化していた地域を統一して、大きな国内市場を作って経済的に飛躍した」という意味で似ています。先行していたイギリスやフランスも、統一市場にはなっていたわけですが、この後のドイツの爆発的な進化に比べ、技術爆発への対応がいまいちめざましくなかった理由は、この歴史講義だけでははっきりわかりません。要するに、明治維新後の日本と同じで、「新体制」のおかげで既得権益をバリバリと踏み潰し、必死で追いつき追い越せで頑張ったのではないか、と考えておきます。

アメリカはこの前後に、「親」ともいえるイギリスを経済規模で追い抜き、世界一の経済大国となりますが、若い国であるので、図体はでかいが「厨二病」の様相を呈しています。「経験不足で舞い上がっちゃった」のは、日清・日露戦争で浮かれた日本も同じ。そしてドイツも、「お局様」がぎっしりひしめく欧州の中で、ビスマルクの権謀術策でなんとかバランスを維持していたのに、ビスマルク引退後に舞い上がってしまいました。お局様たちのプレッシャーが強かった分、ドイツは日米よりも早く爆発して暴走してしまい、第一次世界大戦へと突入するわけです。(それにしても、ビスマルクというのは本当にすごい人だったのですね・・)

なお、アメリカでは「アメリカ独立のとき、実はドイツ人のほうが多かったので、本当ならアメリカの公式言語はドイツ語になる可能性があった」という俗説があるようなのですが、こうやって考えるとあきらかにデマですね。アメリカが独立した18世紀に、個人でアメリカに移住したドイツ人はいたでしょうが、ドイツはまだ海外領土をもつ力はなく、イギリスやその前のスペインのような組織的な入植が行われたわけでもなく、そんなにたくさんドイツ人がいたとはとても思えません。

: The Great Courses、Wikipedia