ベイエリアの歴史(12) – ロサンゼルス産業の夜明け

油田発見 その頃南カリフォルニアでは、20世紀の文明を担うもう一つの大きな動力源が、またもや土の中から掘り出されました。

地面の下にある油田から、地表に石油が滲みでた「タール」の存在は、カリフォルニアではネイティブ・アメリカンの時代から知られていました。1850年代にペンシルバニアで油田が発見されて以降、アメリカ各地で石油の採掘が試みられ、カリフォルニアでも、当時一番人口の多かったサンフランシスコにほど近い、中央平原北部でいくつか少量の油田が発見されていました。

1892年、落ちぶれた金鉱探し屋エドワード・ドヘニーが、当時まだ田舎町だったロサンゼルスのダウンタウンを歩いていたところ、通りかかった荷車の車輪にタールがついていることに気が付きました。彼は、荷車の主にどこでタールがついたのかを聞きだし、そこを掘ってみたところ、大量の原油が出た、というのが「伝説」となっています。(どこまで本当か不明)彼の見つけた油田は現在のドジャー・スタジアム近くでしたが、その後近辺で数多くの採掘が行われるようになり、ロングビーチのシグナル・ヒルや中央平原南部のベイカーズフィールドで、もっと大きな油田が見つかりました。

油とは、ずっと長いこと「照明」が主要な使いみちでした。アメリカ人が東部からはるばるカリフォルニアのランチョまで牛脂を買いにきたのも、日本近海まで鯨を取りに行って開国までさせたのも、照明のための油が欲しかったからでした。その照明が、エジソンの「電灯」へと世代交代し始めた頃、何の関連も脈絡もなく、ほぼ同時期に石油が発見されたというのも面白い「同期性」です。

そして、この石油が「照明」ではなく「自動車」の原動力へと変身していきますが、これはまた後のお話です。その後100年以上たつ現在まで、石油は南カリフォルニアからの最大の輸出品目の一つです。

パワハラ経営者エジソンとハリウッド

ところでエジソンという人は、エキセントリックな性格であったとされ、そのために自分でつくったGE社から追い出され、もとは「エジソン・ゼネラル・エレクトリック」だったのに、「エジソン」という名前まで外されてしまう一方、映画に深く関わっていました。スティーブ・ジョブスは、わざとエジソンの真似をしていたのか、と思うほどです。

エジソンは撮影機「キネトグラフ」を1887年、箱を覗き込んで活動写真を見る「キネトスコープ」を1893年に発明しました。現在のようなスクリーンに投影する仕組みは、フランスのリュミエール兄弟の発明です。1892年、エジソンのつくったGEの本社は、ニューヨーク州北部で州都オールバニーに近いスケネクタディという町に移転していますが、そこからさらに西のナイアガラ滝に向かう途中にロチェスターという町があり、そこにイーストマン・コダック社があります。この当時、北ニューヨークは産業クラスターを形成していたようで、そのご近所のコダックから長尺のフィルムを入手できたことが、エジソンの優位につながったとされています。

エジソンは、映画事業でもおなじみのパワハラ戦略を発動。自分の発明した特許を管理する会社をつくり、映画の撮影と上映のためには、特許管理会社にライセンス料を払うことを強制しました。ビジネスモデルとしては今のクアルコムみたいなもので、それ自体はよいのですが、この時代ですから、ライセンス料支払いを拒否したインディペンデント映画館の上映機を差し押さえたり、フィルムを盗んだり、インディペンデント制作者の建物や機器を破壊したり、ときには人を襲うこともやったようです。

特許会社のライセンス強要が始まる期限は1909年に設定されていたので、その前年にはインディ制作者達が集団で東部を逃げ出し、エジソンの暴力の手がさすがに届かないと思われる、はるか西部のカリフォルニアに落ち延び、ロサンゼルス郊外に新しい映画産業クラスターを作りました。これがハリウッドです。当時の映画撮影には強い光が必要で、撮影用照明がまだない時代に、強い太陽光があり雨もあまり降らないハリウッドは、環境的にもうってつけでした。

法学者ローレンス・レッシグは著書の中で、「現代のハリウッドは、自分がやられてイヤだったことを、今度はネット配信において自分でやっている」と主張しています。それにつけても、何事もやり過ぎはいけません。エジソンは結局、「北風」戦略をやりすぎて、映画産業を「太陽」のハリウッドにとられてしまったのでした。

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、 山川世界史総合図録、Lawrence Lessig "Free Culture"、History of Oil