血と涙の大陸横断鉄道 そんな大事な鉄道が、ついにカリフォルニアにもやってきます。これも世界史では「大陸横断鉄道が完成しました」の一行で終わってしまうのですが、アメリカ大陸を横断するためには、ロッキー山脈とシエラネバダ山脈を越えなければなりません。大変な難事業でした。
南北戦争開始と同じ頃、その企画は始まりました。企画チームは連邦政府に働きかけ、1862年に「太平洋鉄道法」を成立させ、民間投資資金と連邦政府の予算を使った鉄道の建設が始まりました。東からは、ネブラスカ州オマハを起点にユニオン・パシフィック鉄道が西に向かいます。
西はサクラメントを起点に、セントラル・パシフィック鉄道を東に向かって敷設していきます。サクラメントはサンフランシスコからやや北東方向に位置する現在のカリフォルニアの州都で、当時の金鉱山に近く、幌馬車ルート沿いにあって、北カリフォルニアの陸の流通拠点でした。
ダイナマイトがまだないこの時代、山脈を越える工事に使われたのは、またもや「血の犠牲」でした。東ルートはアイルランド、西は中国からの移民がおもに動員されました。アイルランドでは「じゃがいも飢饉」、中国では「太平天国の乱」で食いつめた人々が、詐欺同然の勧誘でつれてこられたのです。中国からは12000人の労働者がやってきたそうです。ちなみに、日本では生麦事件や新撰組の池田屋事件などをやっている頃で、まだ海外渡航ができず、このえじきにならずに済みました。
ベイエリアからレイク・タホにスキーに行く途中、高速80号線がシエラネバダの峠にさしかかるあたりで、谷を隔てた向かい側の山肌に列車の線路が見え、今もアムトラック鉄道が走っています。雪のついた急峻な山肌に木製の足場でむき出しの枕木とレールが張り付いている状態で、見るだけで怖くなります。これを、当時は人力で架けていったのです。ニトログリセリンは使われたようですが、これも扱いがとても危険です。工事で多くの人命が失われました。
カリフォルニアの小学校歴史教科書には、当時の工事の様子の挿絵が載っています。崖の上からロープでつるされた中国人が手に道具を持って岩壁を掘り、ロープの反対側の端はもう一人の中国人が引っ張って支えているだけです。こんな仕事を一日12時間させられ、一応賃金は払われますが食費は自己負担のため、事実上はただ働きです。辞めようにも、山から自力で降りて国に帰る手段もお金もなく、逃亡不可能な「超ブラック企業」でした。
「太平洋鉄道法」では、1マイル敷設するごとにその両側の土地を10平方マイルもらえることになっていたので、東と西の鉄道会社は建設スピードを競いました。今でいう「ゲーミフィケーション」というやつです。1869年に双方はユタ州プロモントリーというところで出会い、大陸横断鉄道は完成しました。
泥棒男爵の大学
この鉄道を企画したグループの中心人物は、サクラメントで卸売商をしていたレランド・スタンフォードです。もとは東部の弁護士で、ゴールドラッシュに乗ってカリフォルニアにやってきました。
スタンフォードは、政府と癒着して有利な資金や土地払い下げを受けたり、労働者を搾取したり、略奪的価格設定で競争相手を潰したりなどのブラックな手法で巨万の富を得た、「泥棒男爵(robber baron)」とも呼ばれる19世紀後半の大富豪群の一人です。資本主義のきちんとしたルールが整備される前、資本家が好き放題やっていた無法時代の現象で、東部のカーネギーやロックフェラーなどもこれに当たります。日本にもいろいろいますね、こういう人たち。
スタンフォードはまずセントラル・パシフィック鉄道に投資して自ら社長となります。ユタでの東西鉄道をつなぐ式典で「最後の金の釘」を打ち込んだのは彼です。その後も、南カリフォルニアのサザン・パシフィック鉄道を買収したり、当時馬車による輸送を手がけていたウェルズ・ファーゴ(現在は大手銀行)にも関わったりして大儲けし、カリフォルニア知事や連邦上院議員にもなり権力をふるいました。
しかし家族には恵まれず、遅くに生まれたたった一人の息子は若くして亡くなってしまいます。それを「神様の罰だ」と反省したのか、1885年に自らが保有する広大な農場を寄付し、息子の名をつけた大学を設立します。これがスタンフォード大学(正式名称はLeland Stanford Junior University)です。このため、現在でもスタンフォードのニックネームは「The Farm」といい、建物のあるキャンパスの外側では黒い牛が草を食べています。地続きの敷地としては全米の大学で最大の面積を誇っており、泥棒男爵のかつての栄華が偲ばれます。
<続く>
出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、山川日本史総合図録