武士の農法 日系アメリカ人は数が少ないため、アメリカでも日本でも全体の歴史の中ではほとんど語られることがありません。少ないとはいえ、ハワイとカリフォルニアに固まっているので、カリフォルニアでは日系人はそれなりの存在感があります。私も何も知らずにカリフォルニアに来ましたが、そんな日系アメリカ人の歴史を知る機会に接して、先達たちが苦難の中で築き上げてきた業績に、深い尊敬と誇りを覚えるようになりました。
どうやら古くから、日系農家の多くは「サクセスフルだった」と広く認識されているようだ、ということもわかってきました。考えてみれば、アメリカだけでなく、ブラジル移民でも、戦前の台湾やサイパンの植民地経営でも、同じような話を聞きます。
1870年代といえば、鉄道建設が終わって失業した中国人労働者がどっとサンフランシスコに流入し、低賃金の職につくようになって、アジア人に対するひどい人種差別が表面化した頃です。同じような顔をした日本人移住者たちにもその逆風が吹き付けていたのに、ただでさえ数が少なく政治的な力もないのに、一体彼らはなぜ成功できたのでしょうか?
ここから先は全くの私の推測ですが、それは「武士の存在」だったのではないか、と考えています。若松コロニーは失敗しましたが、リーダーの桜井松之介は、その後に勤めたビアカンプ農場の経営に手腕を発揮したという情報があります。また、小学校のカリフォルニア歴史教科書には、中央平原でヤマト・コロニーを作り、日系人向けの新聞社を始めた我孫子久太郎という人の成功例が書かれています。出自は調べてもあまり詳しく出てきませんでしたが、この人はキリスト教の人で、明治初期の日本のキリスト教者の多くは新島襄のような下級武士出身者が多かったので、彼もそんな家の出ではないかと想像できます。
武士といえば刀を振り回して戦う人のようなイメージがありますが、江戸時代の武士の「本業(日々の糧を得るための仕事)」は、実は農地経営でした。殿様の領地や自分が拝領している領地の農作業や蔵を管理する、というのが日々の仕事であり、そのための種々の教育もしっかり受けていました。中国やアイルランドからは肉体労働者ばかりがやってきたのに対し、日本には、戊辰戦争で負けたり、廃藩置県で失業したりした武士がたくさんいたので、移民の中にかなりの武士階級が混じっていたはずです。アメリカの気候や土地の特性さえわかってくれば、農地経営の経験と培ってきた教養を活かして、アメリカでも農業経営者として成功できたのではないでしょうか。「武士の商法」はよくなかったけど、「武士の農法」はよかったのかと考えると、なかなか楽しいものがあります。
日本人でも、労働者としてアメリカに渡り、貧困のうちに一生を終えた典型的な労働移民もいました。一方、イギリスの農業植民地などでも「指導者・経営者」層がセットでやってきたはずです。それにしても、同じ人達が「農地経営者」と「戦士」を兼業している武士というのはユニークでもあり、その後の日系人の振る舞いを見ると、どうも彼らは「武士的」であるような気がしてしまいます。
なお現代において、日本からアメリカという新市場にやってきて、全く今までやったことのない事業をやろうとして盛大にコケる例を見るにつけ、ここはやはり先達たちに習い、新市場だからこそ「慣れたこと、エキスパティーズのあること」をやったほうがいいんじゃないかねー、と余計な心配をする今日このごろです。
サンフランシスコには本当にケーブルカーがあった
ここまでは「武士がアメリカ人になる」話でしたが、「アメリカ人が武士になる」というお話を映画にしたのが「ラスト・サムライ」でした。架空のお話ながら、「南北戦争と明治維新の同期性」というのを最初に気づかせてくれたのはこの映画でした。
冒頭、トム・クルーズ演じる元米国軍人は、南北戦争のPTSDでアル中になり、当時治安最悪で「野蛮人の海岸」とあだ名されたサンフランシスコに流れ着いて、そこで「日本に行って軍事教官にならないか」と誘われます。高級レストランでの就職面接が終わって外に出ると、そこは高い丘の上で、眼下には海が広がり、背後ではケーブルカーが今と全く同じ「カランカラン」という鐘を鳴らして急な坂をおりていきます。ありゃーきっと、マーク・ホプキンス・ホテルだな、とか思いつつ、「このとき、もうケーブルカーがあったのか!」というのが驚きだったので、その場面をやたら鮮明に覚えています。
調べてみると、サンフランシスコでケーブルカーができたのは若松コロニーが倒産したのと同じ1871年、映画のモデルとなった西南戦争が始まったのは1877年なので、時代的にはぴったり合っています。サンフランシスコの急坂で、馬と荷車が転げ落ちる事故を目撃して心を痛めたスコットランド人技師アンドリュー・ハリディが、より人道的で清潔な交通手段として作ったのがケーブルカーです。坂の頂上の巻取り機から坂下まで、地面のすぐ下にケーブルを通し、車両にはそのケーブルをグリップする機構があります。運転手がレバーを引くとそのケーブルにひっかかり、常時動いているケーブルで引き上げまたは引き下ろしがされるというわけです。
ケーブルカーは最盛期には8路線まで拡大しましたが、その後地震によって多くが破壊され、現在は3路線だけが残っています。今や市民の足というよりは観光名所で、車両を人力で回すターンテーブルの周囲はいつも観光客でいっぱいです。
<続く>
出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、 観光案内書「サンフランシスコ」(日本語版)BONECHI刊、山川日本史総合図録