【ナンデモ歴史49】「くさいネギ」シカゴの誕生

アメリカでは新学期も何も関係ないのですが、本ブログの「ベイエリアの歴史」シリーズは、本日より「ナンデモ歴史」としてリニューアルいたします!というか、もともと脱線しまくりでしたが、もはやまるでベイエリアと関係なくなって意味不明というのが理由です。引き続き、「歴女」の琴線に触れる歴史をナンデモ書いていきます。

先日シカゴに行く機会があり、友人たちが「シカゴ建築の歴史探訪リバークルーズ」というのに連れて行ってくれました。4月とはいえ、川面を渡る風は寒く、持参のユニクロダウンジャケットもむなしくガチガチ震えながらも、ガイドのおじさんが1時間半にわたり船上で滔々と語るシカゴとその建築の歴史は、めちゃくちゃネタが満載で、ちゃんと調べたい意欲がわいてきてしまいました。ということで、本日より数回にわたり、シカゴの歴史を書いていきます。

サンフランシスコと比べて、シカゴは「古い町」だと思い込んでいましたが、遡ると実はそれほど大きな違いはありません。シカゴの周辺にはもともと、アルゴンキン系のネイティブ・アメリカンが住んでおり、そこに最初に接触したヨーロッパ起源の人たちは、カナダのフランス植民地からやってきました。17世紀のことです。

【26】で述べたように、「船で欧州からやってきて、海に面した河口を発見して川を遡り、その流域を自国領と宣言する」というのがこの時代の通常のパターンでしたが、フランス人はカナダから五大湖経由でミシシッピ川を発見して下っていき、河口のニューオーリンズに達するという逆方向の経緯でした。そして広大なミシシッピ川流域をフランス領ルイジアナという「自国領」と宣言したのでしたね。

1673年、ルイ・ジョリエという裕福な毛皮商のフランス系カナダ人と、ジャック・マリエットというイエズス会宣教師の二人が、ミシシッピ川の探検に出発しました。まだカブリエ・ド・ラ・サールがニューオーリンズまで達する前のことです。カナダからミシガン湖をわたり、現在のウィスコンシン州グリーンベイから支流を経てミシシッピ川を下りましたが、途中まで行ったところで、ネイティブの人たちがヨーロッパの品物を持っているのを見かけ、スペイン人と出くわすとマズイと判断して引き返すことにしました。しかし、流れに沿って川を下るのは簡単ですが、漕いで遡るのはとても体力がいります。疲れてきたところ、途中でガイド役のネイティブ人が「湖までの近道を知っている」と言うので、それに従うことにしました。一行は、ミシシッピ川から支流のデスプレイン川にはいり、後に「シカゴ・ポルテージ Chicago Portage」と呼ばれる短い陸路を経てシカゴ川に達し、シカゴ川を下ってミシガン湖に至りました。当時、シカゴ川とデスプレイン川/ミシシッピ川はつながっていませんでした。

陸上輸送が発達していなかったこの時代、水路は圧倒的に効率的な交通手段でしたが、川の通行ではところどころ、滝や急流を避けたり、ある川から別の川に移ったりするため、船と積み荷を人間がかついで歩く「ポルテージ」という手段をとらなければなりませんでした。ジョリエ一行が往路でたどった旅程も、途中にいくつかポルテージが必要でしたが、なんせポルテージは大変なので、復路シカゴルートだと「ポルテージが短くて済む」ということが通商をしたい人にはとても魅力的で、これがシカゴの都市としての優位の原点となります。

シカゴ川がミシガン湖に流れ込む河口部分が現在のシカゴです。この付近には、ガイドのおじさん曰く「くさいネギ」(野生のニンニクとの記述もある)がたくさん自生しており、この植物をネイティブの人たちは「シカグワ」と呼んでいたので、これがフランス語風に「シカゴウ」となったのが町の名前となりました。「シカゴ」という言葉の響きはとてもカッコイイのですが、ガイドのおじさんは「イギリスのステキな町の名前がニューヨークの起源なのに、シカゴはくさいネギなのがくやしい」と、このあと数回にわたって登場する「ニューヨークへの対抗意識」を表明しました。

(シカゴの語源となった「くさいネギ」、現在の英語ではrampと呼ばれるらしい)

ちなみに、シカゴはイリノイ州に属しますが、「Illinois」というつづりは、フランス語をご存知の方なら「イリノワ」と読みたくなると思います。「イリニ族」が住んでいたので、「イリニの」「イリニの人」といった意味のフランス語というわけです。

その後、この地域で欧州各国を巻き込んだアルゴンキン対イロコイ、というネイティブ族同士の大きな争いが発生したため、18世紀の数十年にわたり、ヨーロッパ起源の人は定住することができず、放置されていました。

<続く>

出典: Chicago Architectural Foundation River Cruise Guide, Wikipedia

【ベイエリアの歴史48】今日は「フレッド・コレマツの日」です

本日、アメリカ版グーグルの検索トップページは、こんなイラストになっています。1月30日は、カリフォルニア州の祝日「フレッド・コレマツの日」、戦時中に迫害され、戦後名誉回復のために裁判を戦い抜いた日系アメリカ人、フレッド・コレマツ(日本名:是松豊三郎)さんの誕生日を記念するもので、このイラストは勲章(後述)をつけ桜に囲まれたコレマツさん、彼の背後のグレーのプレハブ小屋は第二次世界大戦中の日系人収容所の建物、彼の前のグレーの杭は収容所を囲う鉄条網の柵をあらわしているようです。

コレマツさんは1919年、カリフォルニア州オークランド(サンフランシスコから湾を隔てた向かい側)で生まれました。当時の日系アメリカ人の常として、学業でも仕事でも、希望がかなわず、断念したり失業したりすることが続きました。

そして1942年、問題の「大統領令9066号」が出されます。(今トランプが乱発しているあの「大統領令」と同じ仕組みのものを、ルーズヴェルトがだしたのでした。詳しくはベイエリアの歴史(18)を参照。)悪名高い日系人収容所の悲劇が始まるのですが、この法律は正確には、「日系人は太平洋岸から160kmまでの除外地域から退去しろ」という内容でしたので、自ら退去すればいい、ということでコレマツさんは身元を隠して東を目指しました。しかし途中で捕まってしまい、留置所に送られます。

ALCU(American Civil Rights Union、このところの入国禁止騒ぎで脚光を浴びている団体)の北カリフォルニア支部長と弁護士の助けを経て、コレマツはアメリカ政府に対して裁判を戦い始めます。いったんは保釈金を払って解放されたのに、また逮捕され、ユタ州にある収容所に送られてしまいました。収容所から裁判を戦い続け、有罪となっても控訴し、最高裁まで行きましたが、1944年に最高裁でも「日本人のスパイ活動は事実であり、戦時下では軍事上必要なことである」との判断により、有罪は覆りませんでした。

戦後は沈黙を守り続けていましたが、1980年にカーター大統領により日系人収容所の調査が始まって見直しが行われ、1988年には議会が強制収容に対する謝罪と補償を決めました。この時代の変化を受けて、1982年にコレマツも、法学者や日系人弁護士などの助けを得て、再審を求めて、再び戦い始めます。

1983年、北カリフォルニア州連邦地裁において、逆転無罪の判決を勝ち取り、コレマツの犯罪歴は抹消されました。法廷でコレマツは、「私は政府にかつての間違いを認めて欲しいのです。そして、人種・宗教・肌の色の関係なく、同じアメリカ人があのような扱いを二度と受けないようにしていただきたいのです」と述べました。そして1998年、クリントン大統領は、「アメリカ市民として人権のために戦った名誉」のしるしとして、コレマツさんにアメリカ文民向け最高位である大統領自由勲章を授けました。コレマツさんはその後、2005年に亡くなり、2010年にカリフォルニア州は1月30日を祝日として制定しました。

収容所内では、コレマツさんは日系人仲間から排斥され孤立していました。アメリカ政府に協力するほうがよいので命令に従う、と考える日系人が多かったため、政府を相手に訴訟するなどけしからん、というわけです。収容所内では、コレマツさんに限らず、立場や考え方の対立で、仲間内どころか、家族の中でも厳しい対立が数多くあり、戦後日系人コミュニティを分断する深い傷を残しました。(ジョージ・タケイによる収容所体験を描いた「Allegiance」というミュージカルでは、このあたりの事情がわかりやすく描かれていました。)トランプ大統領による人権侵害に対する静かな抗議として、グーグルはフレッド・コレマツさんをページトップに掲げています。日本ではほとんど知られていないですが、この機会に、皆様にもコレマツさんの業績についてぜひ知っていただきたいと思います。詳しくは、ウィキペディアなどを参照してください。

 

「売らないドレス屋」に行ってみた

相変わらず、日本でもアメリカでも、大型小売店舗がダメダメという報道をあちこちで見かけます。

かく言う私は、友人に勧められ、昨夏頃から「洋服の定額制オンラインレンタル」というサービスを利用しはじめて以来、お店で服(下着以外)を買うことがほとんどなくなりました。

そして先週、女子会仲間と連れ立って、サンフランシスコに「ファッション・ショッピング」に出かけましたが、行き先はそういうわけで「売らないドレス屋」2店。

ひとつは、Rent the Runwayという、普段着・ドレスの「月額定額レンタルサービス」。手元に3枚まで持っていてよい、という制限があり、何回返してもOKという、NetflixのDVD郵送レンタルと同じ方式です。詳細は、渡辺千賀さんのブログに書いてあるのでこちらを参照のこと。パーティドレスのレンタルから始まって、現在は普段の仕事着やリゾート着などもそろっています。

さて、このレンタルサービス、本拠はニューヨークで、それ以外にも全米いくつかの都市に「ショップ」を持っており、最近サンフランシスコにもオープンしたので、行ってみたわけです。場所は、ユニオンスクエア近くの高級デパート、ニーマンマーカスの一角。ぱっと見普通のブティックのようですが、要するに「試着オンリー」。カウンターで借りているものを返したり、注文済みのものをピックアップしたりもできますが、基本的にレンタルのトランザクションはネットでやらねばなりません。ただ、(たぶん予約しておけば)ドレスなどを「その場で借りる」ということもできるらしいですが。

そういうわけで、置いてある洋服はそれぞれ一枚(つまり一サイズしかない)で、店に在庫はありません。試着といっても、自分のサイズがあるわけではないので、小さすぎるのを無理やり当てたり大きすぎるのをつまんでみたりしながら、想像をはたらかせます。それでも、やはりネット上で見るだけよりは自分に似合うかの感覚はわかる、まさにショールームというわけです。

もうひとつの行き先は、MM Lafleurという、オンライン・ブティック。こちらもニューヨークの会社で、オンラインで自社ブランドの服(仕事着ぽいものが多いが、体にやさしくフィットして着心地がよい)を売っていて、ショールームをあちこちの都市で行脚しており、ときどきサンフランシスコにもやってきます。ここも試着オンリーで、自社ブランドだけなのでチョイスも少ないですが、サイズは大体そろっていて自分のサイズを試着できます。スタイリストさんに希望を言うと、いろいろ見繕って持ってきてくれて、買いたいものがあれば、その場でオンラインオーダーを入れてくれます。基本的には予約が必要ですが、私はこれまで2回とも、友人の予約に付き添いでついていって、それでもついでに試着させてくれます。店では、シャンパンまでふるまってくれる、本当に「サービス」ビジネスという感じです。

こうやって考えて見ると、トラディショナルな小売店というのは、上記のような「サービス」の部分に加えて、在庫を持っていなければならない、という重荷があります。販売のトランザクションの手間ももちろんあります。それがない、「スタイリストが試着だけさせてくれるサービス店」というのは、大幅に小売店のコストを軽減することになります。デパートのパーティドレス売り場では、返品率が異常に高い(パーティで一回着て返品する人がものすごく多い)という話もあり、デパートはパーティドレス売り場はやめたいらしいので、それよりはレンタルのほうが理にかなっています。最近はeコマースの配達部分の人が雇えなくてコストが上がり、困っているので、その問題はありますが、別の部分に課題が移行する感じ。

千賀さんのブログにあるように、このビジネスモデルが果たして長続きするのかどうか、まだわかりません。ただ、「小売業」の役割のうち、かならずしも「陳列・在庫・販売」のセットを全部そろえていなくても、バラして役割を持たせるというモデルも、試されているということになります。私としては、千賀さん同様、レンタル・サービスをありがたく満喫しているので、ぜひなくならないでほしいところです。

2月28日、東京で「働くの未来」について講演します

リクルート・ワークス研究所では、新しい「働く」の姿を模索する研究プロジェクトを実施し、私はコンサルタントとして活動に参加していましたが、このたび、研究成果の発表を東京で行うことになりました。

シリコンバレーでは、ライドシェア・サービスとして有名なUberが、「働き方」に関しても「オンデマンド労働」という新しい仕組みを作り上げました。そのインパクトがいろいろと取りざたされている中、日本でもDeNAが「フリーランス」のウェブサイト・ライターを雇っていたことから、フリーランスについて注目されるようになりました。

そんな中で、「リアル」な実態は何なのか、何がメリットで何が課題なのか、といったところを、シリコンバレーの経験や私自身が長年フリーランスとして働いてきた経験も含めて、実感的にお話したいと思います。

ご興味のある方は、下記からお申し込みください。

http://www.works-i.com/tech/event.php

【ベイエリアの歴史47】1992年、静かなる時代転換(ただしイケメンに限る)

2008年にオバマが流れを断ち切るまで、共和党のブッシュ王朝、民主党のクリントン王朝が交代で大統領になるのかもねー、といった話がありました

その王朝創始者である(?)クリントン夫が大統領選挙に勝ったのは1992年のことでした。その頃私はニューヨークに住んでいましたが、正直いってその時の自分の感想をよく覚えていません。2000年に子ブッシュがゴアに勝ったときは「えー、なんかやだなー」と思った記憶があるのですが、前に書いたように80年代は「共和党でいいんじゃね」と漠然と思っていたし、92年当時それほど共和党がキライではなかったので、どっちでもいいやー、ぐらいだったのかな、と思い返しています。

しかし、これまた前に書いたように、カリフォルニアがガチガチの共和党支持から民主党支持にあっさり鞍替えしたのが1992年で、その後は一度も共和党に戻ることなく、ずーっと民主党が勝っているガチガチのブルーステートになりました。

今ウィキペディアでこのときの経緯を読んでも、現職の強みを吹っ飛ばすほどの、巨大州カリフォルニアの大転換をもたらすほどの、大きな落ち度が父ブッシュにあったようには見えません。一方で、ビル・クリントンは選挙戦の間から女性スキャンダルが出たりして、ヒーコラ言いながら当選にこぎつけたように読めます。

ただ、ブッシュの言っていることが「なんとなくズレている」感じがしたことは覚えています。それは、やはり1989年の「ベルリンの壁崩壊」が原因でしょう。選挙戦中、ブッシュは「外交戦略」の実績を強調していました。実際に、レーガンのときからずっと言ってきた「ソ連打倒、社会主義打倒」を彼のときに成し遂げたワケです。これに対し、クリントンは「格差社会是正」などの国内問題を取り上げていました。

マルクス・レーニン主義も「資本家打倒」的な思想なわけですが、「ナニナニ打倒」というスローガンは長期的にはあまりよくない、と改めて思います。打倒が実現した瞬間に終わりになってしまうからです。共和党も、「ソ連打倒」が終わってしまっておしまい、でした。

当時のビル・クリントンとアル・ゴアの写真を並べると、まぁ、ぶっちゃけ、父ブッシュよりずっと若くて、イケメンであります。長身・イケメンが選挙に勝つことが多い、というのはよく言われることで(もちろん例外もあり、ゴアも子ブッシュに負けました)、オバマも「イケメン」点が加点されたという側面もあります。そして今年の大統領選が「嫌われ者同志の戦い」と言われるのは、実は「どっちもイケメンではないから」がホンネだと思ったりいたします。

とにかく、ベルリンの壁も、クリントン政権の誕生も、なぜか当時の私にはそれほど劇的な記憶として残っていません。ベルリンの壁も「へぇー、そんなことほんとにできるんだ、でもまたこの人達は、プラハの春みたいに弾圧されて、もとに戻っちゃうのではないのかな・・」と思っているうちに、いつの間にか戻らなくなりました。

そしてその後、90年代の間に、共和党の言うことが(私にすればどうでもいいような)ライフスタイル保守に偏っていき、どんどん共和党のイメージが悪くなってしまいました。

本当に大きなコトは、庶民から見れば遠い世界の出来事のようなことで、それがだんだん積み重なり、静かにいつの間にか変わっていくのかもしれません。

「死ぬ気」でやってるヒラリーと普通のオバサンの役割

単なる感想の回です。昨日の大統領ディベートを見終わって、いろいろ考えました。

ヒラリー・クリントンは「健康不安」と言われていますが、実際に病気を持っているいないにかかわらず、68歳です。(トランプはもっと年寄りですが。)私よりも一回りも上です。私はヒラリーに比べればずっと楽ちんな仕事ですが、それでも更年期の時期を過ぎて、がくっと体力が落ちました。同年代の多くの女性よりは体力的に恵まれていると思うし、ずっとスポーツをやってきているし、まさか私が・・と思っていたのに、最近は骨粗鬆症の一歩手前で足の甲を骨折したり、ムリをして疲労のあまり階段から落ちて数週間寝たきりになったりしています。

どんなに健康に気をつけ、いろんなことをヘルプする人が周囲にいたとしても、あんなに厳しい選挙戦を戦っているヒラリーは体力的にはとてもシンドいのではないかと思ってしまいます。今後、アメリカの大統領は世界一の激務で、どの大統領も任期中にボロボロに老化します。本当に、ヒラリーは「死んでも仕方ない」という覚悟でやっているような気がします。

ずっと法律と政治の世界で努力を重ねてきて、子供を育て、たぶんその間はいろんなことを諦めながら、チャンスを伺い、選挙に出て一度は失敗し、さらに巻き返し、そしてようやく巡ってきた最大のチャンスです。彼女自身のメリットは、いまさらお金のためや名誉のためではないでしょう。選挙に出たり、実際に大統領になれば、黙って静かにしていれば決して起こらないいろんなバッシングにさらされます。それでも、やろうという根性は、ある意味では「野心」なのでしょうけれど、いろんなモノを背負って、たとえ死んでも今やらねばならない、という使命感があるのではないかと。(そして、思いつきのぽっと出のトランプごときにこんな目に合わされるのは本当に理不尽と思っていることでしょう。)自分と比べて、ついそんなことを思ってしまいました。

私はといえば、別に何事も成し遂げていないただのオバサンです。昔は、スーパーウーマンに少しでも近づこうと努力しました。それで多少は前進できましたが、まぁせいぜいこんなところです。それでも、56歳のこのトシまで、子供にも恵まれながら、ずっと仕事をして経験を積み重ねてくることができました。私よりも年上のワーキング・ウーマンは、少なくとも身の回りにあまり多くありません。かつて、このトシで働いている方はごく少数の「スーパーウーマン」でした。超絶的な才能や運や体力に恵まれていたり、お金持ちで家庭の管理を人に任せることができたり、子供をもたなかったり。そうではなく、自分で家事も育児もやるミドルクラスの普通の女性が、このトシまで仕事して経験を積む、という例は、日本でもアメリカでも、過去にはあまり多くないと思います。私達が、第一世代ぐらいかもしれません。

歴史に残る業績はヒラリーにまかせて、私は普通のオバサンとして、何かあったとしてもどうせ大したことない「最後の業績」を無理して追い求めるよりも、この後に続く世代の女性たちが「死ぬ思い」をしなくても普通にコツコツと仕事を続けていくモデルになるほうがいいのかもしれない、と思うようになっています。もう階段から落ちないよう、慢性病にもならないよう、あまりムリをせずひどいボロボロにならない程度に、コツコツとやっていこうかと思います。

オリンピックの「オンデマンド放映」とは何か

オリンピックというのは、きわめて多くの種目のスポーツが同時並行して競われ、きわめて多くの国が参加して、きわめて多くの視聴者が世界中にいる、という、究極のビッグデータ的イベントです。

周波数と一日24時間という大きな制約がある地上波テレビでは、その中からごく一部分しか抜き出すことができません。また、地上波テレビは多くの場合(日本ならNHK以外)CMでお金を稼ぎますので、CMが流れる瞬間になるべく多くの人が見ているようにしなければなりません。このため、どうしても「最大公約数的」に、その国の選手が活躍する+テレビ向けのメジャーなスポーツを選んで放映します。

アメリカは1970年代頃からケーブルテレビが普及しだして、何度かの政策的な後押しを経て、現在では全家庭の85%程度が、ケーブルまたはその競合の有料テレビを契約するに至っています。ケーブルでは周波数の制約がないので、きわめて多数のチャンネルを設定することができます。スポーツは地上波・ケーブルのキラーコンテンツでもあり、アメリカのテレビ業界ではスポーツは特別な地位にあります。アメリカでは、4大メジャー局のひとつNBCがオリンピック放映権を持っていますが、NBCは傘下にNBCSN、MSNBC、Bravo、USA、Telemundoなどのケーブル・チャンネルがあり、これらのケーブルチャンネルでも放映しています。それでも、放映される中身はやはりテレビ局が選んで編成しています。

さらに、ネットでのオンデマンド放映もあります。この形態がいつ始まったかはよく覚えていませんが、オリンピックでいうとすでに数回はオンデマンドでやっています。最初のうちは、「オリンピック・オンデマンド・パッケージ」のような形で有料でサインアップしなければならなかったので、全く人気がありませんでしたが、2010年前後から、テレビ業界が「ユーチューブ対策」として「TV everywhere」とよばれる方式を積極的に導入し、ケーブルテレビの契約者がパスワード認証で他の端末(パソコン、スマホなど)で番組を見られるようになり、ケーブル契約のオマケとして、オリンピックのオンデマンドが見られるようになっています。

NBCはこの(1)地上波(2)ケーブル(3)オンデマンド、の3つの方式のミックスでオリンピックを放映しているわけで、それぞれの方式に一長一短があり、それぞれに合わせた中身とビジネスモデルになっています。いずれもCMとケーブル会社から受け取る配信料の組み合わせで、(1)はCMの比重が大きく、(3)は配信料が大きく、(2)はその中間となります。

ここで「ケーブルからの配信料」というのがキーとなります。ケーブル契約者(単純化するためにケーブルと呼びますが、衛星テレビなど他の有料テレビでも同様)は、月に100ドル以上の高い加入料を払っています。NBCなどの地上波チャンネルも、MSNBCなどのケーブル専門チャンネルも、加入者が払う加入料から一部をコンテンツ料金として受け取る仕組みになっています。地上波主要局とESPN・ディズニー・ディスカバリーなどといったケーブル専門の主要チャンネルは、「ベーシック・パッケージ」という基本サービスに含まれており、それ以外の例えばHBOなどのプレミアム・チャンネルは個別に契約することになります。

地上波テレビは、日本と同様アメリカでも、CM収入が下がりつつあり(それでも多いですが)、これを補うために、地上波各局は配信料を引き上げるようケーブル会社と交渉(時には決裂して、チャンネルがブラックアウトしてしまうことも)したり、ケーブル専用チャンネルを買収してチャンネル数を増やしたりしており、「オンデマンド」の展開もこの努力の一つです。オンデマンドで視聴する加入者は、ケーブル契約者であり、ユーザー名でトラックすることもできるので、その分の配信料受け取りを増やすことに加え、ユーザー・プロファイルに合わせた広告を配信(テレビと同じような番組埋め込みCM)することも可能です。(やっているかどうかわかりませんが)

オンデマンドの場合は、NBCのサイトでスポーツ種目や選手名からサイト内サーチをかけることができます。例えば「Kei Nishikori」でサーチすると、錦織の出ている試合でオンデマンド配信されている過去の動画がずらっと出てきます。そのうち見たいものをクリックすると、ケーブル会社のアカウント情報(ユーザー名とパスワード)入力を求められ、ログインなしでも初回は「お試し30分」だけ見られますが、それ以上はログインする必要があります。動画は、見慣れた試合中継のようなアナウンサーも解説者もおらず、試合の映像と場内の音声が淡々と流れるだけです。(ただ、映像は通常のスポーツ中継と全く同じで、点数をとった選手をアップにしたり、水泳では水の中からの映像がはいったりなど、画面が切り替わってわかりやすく見せるようにはしています。)

NBCのサイトは必ずしもインターフェースが使いやすいとはいえませんが、それでも「日本選手を見たい」とか、「マイナースポーツを見たい」という人にはとてもありがたい仕組みです。これだけ大量の動画を短期間に多数の視聴者が集中する環境で、認証して配信するというのはかなりの技術が必要で、つい職業病でそちらの心配をしてしまいますが、今やビッグデータ技術の進展のおかげで、このような配信方法が可能となっているわけです。アメリカでも、最初の頃はもっと見づらくて大変でしたが、技術面でもどんどん進歩しているのがわかります。

一つ、重要なポイントとしては、オンデマンド配信が始まってから、テレビの視聴者はかえって増えているということが一般に言われています。今回のリオも、(例えばロシアがドーピングでやられてその分アメリカがメダル独占状態という点もありますが)過去最高の視聴者数になると見込まれていますし、例えばアメリカン・フットボールなどでも同様の結果が出ているので、テレビ各局は積極的にオンデマンド技術に投資するようになっています。

アメリカでビジネス的にこれが成り立つのは、上記のように「ケーブル契約が高くて、配信料としてコンテンツ各社にもたくさん流すだけの原資がある」という特殊事情があります。また、2007年の「脚本家組合スト」をきっかけとして、コンテンツ会社が受け取ったコンテンツ料を、俳優・監督・脚本家から各種スタッフに至るまで、どれだけの配分をするかという仕組みも整備されているため、テレビを作る人たちも、こうしてオンデマンドからの配信料が増えると自分たちも潤うというインセンティブがあります。

私は最近の日本のオンデマンド放映事情をあまり詳しく知らないのですが、Newspicksのコメントを見る限り、まだそれほど進んでいないように見えます。その背景事情はとりあえず置いておき、日本でも今後、「CMではない加入料を誰が入り口で十分な額徴収するか(お金の入り口の多様化)」という点と、「コンテンツ配信料をどう配分するか」という点を、アメリカとは背景が違うので、日本式のやり方で整備する必要があると思っています。絶対ダメな理由がいくらでも出てくることを覚悟でいうと、私は、NHK料金徴収の仕組みを使い、NHKが子会社を作って「配信インフラ」と「料金回収」のプラットフォームになり、民放のオンデマンド配信を代行するのがいいのでは、と思ったりしています。

アメリカの場合、ケーブル料金が高いというのは継続的に批判を浴びている点ではありますが、そのおかげで、上記のように試行錯誤したり、制作方式や配信方式に先行投資したりする原資ともなっているワケです。そして、こういう大手のユーザーがあるために、アメリカではビッグデータのスタートアップがどんどん生まれてくるというエコシステムも形成されています。

日本のブロードバンドや映像配信サービスはアメリカと比べてあまりにも遅れていて、いわば「ビジネスモデルのトリクルダウンの一番トップ」にあるべき映像サービスの遅れが、日本のIT競争力をさらに弱めてしまうと懸念しています。ちょうど、東京オリンピックもあることですし、テレビ局の及び腰の元凶と言われてきた某芸能事務所も弱体化の様子を見せていることですし、ここで頑張って、日本でもテレビのオンデマンドを本格的に拡大する努力を、テレビ側の人たちがすべき、と私は考えています。

一橋大での悲しい事件、問題は3段階ある

わが母校一橋大学において、ゲイの学生が、好きだと告白した相手が当人ゲイであることをバラされたことで自殺した、という悲しい事件がありました。

私にとって一橋大は、リベラルな雰囲気の居心地の良いところで、今私が住んでいる北カリフォルニアのように、LGBTなどに対してもダイバーシティ受け入れが進んでいるように勝手な印象を持っていたので、このような事件が起きたことが信じられません。それでも、起こってしまったことは事実であり、とても悲しく思います。

この事件へのコメントを見ていると、3つの段階の話が混じっているのですが、これは分けて考えたほうがよいでしょう。

(1)LGBTそのものに対する考え方・感じ方: LGBTに対して「キモイ」という反応をするのは悲しいことですが、今の世の中ではそう思ってしまう人が大多数です。これはこれとして戦っていかなければなりませんが、長い時間のあいだにこれが浸透しているいることを考えると、「キモイ」と思った学生の反応を一概に責められないとも思いますし、この風潮を変えるには長い時間がかかるでしょう。

(2)LGBTを「ネタ扱い」する風潮: ただ、こうした個人的な反応を「LINEでバラす」という行為は、LGBTをタブー視する文化背景とは別に、それを「ネタ扱いしてもOK」という、メディアで作られた空気に押されたのではないかと思います。LGBTに対してどう思うか、感じるかは個人の自由ですので、「自分にはとても受け入れられない」と思ってもよいのですが、それを「バラす」という行為は、社会的に許されないことである、という規範を作り、これをメディアなどでも推奨するべきと思います。昔は横行していた「セクハラ」が、現在でははっきりと「許されないこと」という規範となってきたのと同じことです。別な言い方をすれば、LGBTの「ネタ扱い」も、広い意味での「セクハラ」の一つと言えると思います。一般的なセクハラよりも、「タブー視」の度合いが強いLGBTでは、同じ「告られたことをバラして嘲笑する」ということであっても、男女間で起こる場合よりもダメージが大きいことは重視すべきです。

(3)大学当局の対応、専門家の対応: もう一つは、このゲイの学生があちこちに相談していたのに、結局最悪結果となってしまったことです。大学の対応がずれていたこともそうですが、専門家にも相談していたのに・・というのが悲しいです。大学当局の理解を進め、必要に応じて事情をよく知っている専門家と連携することと同時に、専門家自身も、このようなケースへの対応でなんとかもっと効果的な方法をマジメに考える、ということも必要なのかもしれません。

卒業生として、まずは大学関係者および卒業生の皆様、特に目の前の課題として、(2)と(3)について多くの方に知っていただきたく、私のご意見として申し上げたいと思います。

【ベイエリアの歴史46】レーガンの時代から諸行無常へ

古い時代はいざしらず、少なくとも20世紀以降ぐらいのスパンで、共和党が最も強かったのは、1980年代のロナルド・レーガンの時代です。そして、レーガンがあまりに強かったせいで、彼の政策や思想が現在に至る共和党の枠組みとなり、それが時代に合わなくなって、今の共和党の混乱を引き起こしています。まさに祇園精舎の鐘の声、諸行無常・盛者必衰であります。

現在から振り返ると、1960年代というのはアメリカが強かった古き良き時代、とつい思ってしまいますが、政治的には44/45で書いたように、暗殺と謀略が相次いだ混乱の時代でした。これに続く1970年代は、本格的にアメリカ経済が斜陽に向かう時代となり、2度の石油ショックで「化石燃料ベース」の大繁栄エコシステムが崩れてインフレがひどくなりました。従来型「謀略」政治手法のニクソン(共和党)がウォーターゲート事件で失脚、その次のカーター(民主党)は、日本国の私と同じ苗字のかつての某首相のように、「素人だからクリーンぽい」ということで大統領になっちゃった人で、進行するインフレとイラン人質事件に対して右往左往するばかりでした。

そのカーターを大統領選で完膚なきまでに叩きのめして颯爽と登場したのが、ハリウッドのカウボーイ、レーガンでした。

レーガンが俳優出身というのはよく知られていますが、俳優としてはそれほど実績がなく、それよりも「俳優組合」(Screen Actors Guild, SAG)のトップとして、戦後の「赤狩り」の時代を乗り切ったことが、その後の彼の政治キャリアにつながっています。「組合」ですから、SAGも赤狩りの時代には「狩りの対象」でありました。この頃レーガンは民主党支持だったそうですが、彼はSAGから「社会主義的な思想を抜く」よう努力し、「社会主義への憎悪」が強くなって、保守派・共和党へとコンバートしました。そして例の1964年共和党大会でのバリー・ゴールドウォーター支持演説で注目され、本格的に共和党の政治家となっていきます。

その後レーガンは、我らがカリフォルニア州知事を2期勤めました。1970年代といえば、UCバークレーを中心に学生運動が最盛期の頃でした。ヒッピーや学生運動はそういうわけでサンフランシスコ/北カリフォルニアがメッカでしたが、一方で一般庶民の間では反感が強く、レーガンは州兵まで動員して運動を抑圧しました。

そして2度の予備選敗退を経て、1980年についに大統領選に勝ちます。レーガンの政治思想は「アンチ社会主義、小さな政府、州への権限委譲」であり、共和党の中でも保守派寄り、「東部エスタブリッシュメントではない、西部新興州を地盤とする、アウトサイダー的な右派」という意味で、ゴールドウォーターの進化形のようなものです。下記いろいろ考えると、突き詰めればやはり「社会主義打倒」が彼の根本思想であった、と思います。

レーガン時代は、対ソ連軍拡を強化したことに加えて、「サプライサイド経済学」政策を特徴としています。これは「供給側=企業活動を促進すると経済が成長する」ということを優先しており、それまで主流だった「需要側=ケインズ経済学=公共投資で雇用を創出して需要を作り出す」のアンチテーゼとして登場したものです。政策的には、「限界税率(今よりも収入が増えた場合にそれに伴って税率がどれだけ上がるか)を抑制すると、人々は収入を増やす努力をするのでよく働くようになる(その結果、税収の絶対額はかえって増える)=税の累進性を緩める、最高所得税率を下げる」と「企業への投資を促進するため、キャピタルゲイン税率を下げる」ということをやりました。実際にレーガン時代に経済は成長し、政府の税収も上がりましたが、減税の効果はあったとしてもわずかで、実は代替として他の税金を引き上げた分、特にFICA、すなわち給与雇用者とその雇用主が負担する税で、メディケア(低所得層向け保険)やソーシャルセキュリティ(老齢年金)に使われる分の引き上げが効いているとされています。そして、軍事費が増大する一方、低所得向けのセーフティ・ネットをどんどん削減してしまいました。それでも、お金持ちがより儲かり経済が成長すれば、末端まで恩恵が「トリクルダウン」するとされました。こうして、バーニー・サンダースが攻撃する、「金持ち優遇、庶民冷遇」の仕組みが出来上がったわけです。

その時点でこの考え方が正しいと証明された事例はなく、当時から現在に至るまでメジャーな経済学者はこの考えを支持しておらず、やはりそんなうまい話はなかったという結果になっていますが、とにかく「社会主義国がやってること」の真逆をいく仕組みであり、要するに「アンチソ連、社会主義打倒」という当時の時代の空気に合っていたから支持されたということなのかな、と思います。

さらにこの時代、「社会主義打倒、小さな政府、ビジネス優遇」という政治思想とは直接の関係がない、「ライフスタイル保守」の人々が共和党と深く結びつきます。具体的には、「保守キリスト教」「堕胎反対」「銃規制反対」といった団体です。当初南部の保守派キリスト教団体は、南部ジョージアを地盤とするカーターを支持していたけれど、あまりにカーターがダメだったので見捨てて、共和党に鞍替えしてしまった、という記述があります。また、レーガンはカリフォルニア州知事時代に条件つきで堕胎を規制緩和する州法に署名しましたが、その後の結果を見てこれを深く悔やんでプロ・ライフ(堕胎反対)に鞍替えし、また自ら全米ライフル協会(NRA)に加盟してNRAが初めて正式支持した共和党大統領候補となりました。

私がアメリカに来たのは1987年、レーガン政権の最後部分にあたります。今なら「リベラル」の雰囲気の強いスタンフォード大学でも、当時ビジネススクールではやはり「ビジネス優遇」の共和党支持の人が多かったように思います。私自身も、アメリカ市民ではないし特に政治信条はなかったですが、周りに影響されて漠然と「共和党でいいんじゃね」と思っていました。諸行無常であります。

<写真>ロナルド・レーガン By This media is available in the holdings of the National Archives and Records Administration, cataloged under the ARC Identifier (National Archives Identifier) 198600.This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information.

<出典>Wikipedia

 

みんなでお手々つないで貧乏になった「非格差社会日本」

さて、前回の「格差社会」の続きの話です。

よく取り沙汰されるこの「トップ1%が超金持ちになっている」というアメリカのグラフに相当するものが日本でもないかと調べてみたところ、区切り方が違うのですが、上位20%と下位20%の所得水準推移というグラフが出てきました。(研究者本川裕さんという方のサイトから引用しました。政府の家計調査をもとにした個人の研究のようで、ソースの数字検証まではしていませんが、長期にわたって研究されていることや説明がきちんとされていることなどから、信用に足ると判断しました。)

これによると、上位も下位も、仲良く一緒に所得が下がっている(そして、最近ではむしろ格差が縮小している)ということがわかります。その理由として、作成者の本川氏は、「景気循環と所得のビヘイビア」と「年齢層の推移」の2つを主な要因として挙げています。前者は、2000年以降の長期停滞期に、高所得層の所得低下が起こった一方で、低所得層ではそれ以上は下げられないから停滞という現象です。ただし、ソースに単身世帯が含まれていないので、ニート・フリーターや独居老人が除外されており、これらも含めれば多少異なる数字となるかもしれません。

一方、後者のほうが、日本における年齢層と所得の相関関係を要因としているので、話としては面白いです。年功序列の中では、一般に高年齢層のほうが所得が高くなります。この図でいえば90年代の格差拡大時に、高所得層は50歳代が一番多い比率を占めていました。しかし、2000年代以降は、高所得層に占める50歳代が減少する傾向にあるそうです。年功といっても、60歳代以上は年金生活者が増えるので、より低い所得層に移行する人が多くなります。つまり、2000年代なかば以降の格差縮小は、本来なら年功序列で給与が最大になるはずだった50台の人たちがそんなに貰えなくなっている、年功序列が崩壊している、ということを表しています。

一方、「格差社会」のアメリカではどうかというと、オバマ政権の間、前回お話した「所得上位者」のほうは手をつけず、もっぱら「最低層の底上げ」に注力していた、というのが私の印象です。リーマン・ショックで傷ついた金融セクターを「救済する」ということでいろいろ批判があり、もうひとつの金持ち製造装置であるシリコンバレーについては、ITを使っていろいろな課題を解決しようという方向(例えば、電子カルテ化や電力スマートメーター導入のための補助金、ロボット研究開発のための大学への拠出金など)で間接的に支援しました。最低賃金は、連邦の最低賃金は変わっていませんが、主要な州で2014年に広範な引き上げが行われ、シアトルは先頭を切って時給15ドルに向けての段階的な引き上げが始まっています。

これに対し、バーニー・サンダースが強力に主張し、選挙戦で粘ってついに今週の民主党大会での綱領とヒラリーの政策に入れさせたのが、「金持ち」対策です。「お金持ちになる」のはいいけれど、いったん金持ちになったら、「フェア」な税金を払ってね、ということです。(さすがに「お金持ちになっちゃいけない」と足を引っ張ると、イノベーションと産業成長を阻害する、極めてアンチ・アメリカンなことですので。)他にも、公立大学の無料化や金融セクターの規制強化など、直接お金持ちからお金を奪うわけではないけれど、現在お金持ちでないより広い範囲の人にチャンスを与えようという政策を掲げています。

今週木曜日の民主党大会の最終日、ヒラリー・クリントンの指名受諾演説では、これらの政策を取り入れることを明言、特に「お金持ちにフェアな負担を」という点を強調していたのが印象的でした。ヒラリーが大統領になったら、いよいよ「キャピタルゲイン税の引き上げ」ということになるかもしれません。

<出典> 社会実情データ図録(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/)<写真>民主党大会でのクリントン指名受諾演説、Getty Images>