アメリカでは新学期も何も関係ないのですが、本ブログの「ベイエリアの歴史」シリーズは、本日より「ナンデモ歴史」としてリニューアルいたします!というか、もともと脱線しまくりでしたが、もはやまるでベイエリアと関係なくなって意味不明というのが理由です。引き続き、「歴女」の琴線に触れる歴史をナンデモ書いていきます。
先日シカゴに行く機会があり、友人たちが「シカゴ建築の歴史探訪リバークルーズ」というのに連れて行ってくれました。4月とはいえ、川面を渡る風は寒く、持参のユニクロダウンジャケットもむなしくガチガチ震えながらも、ガイドのおじさんが1時間半にわたり船上で滔々と語るシカゴとその建築の歴史は、めちゃくちゃネタが満載で、ちゃんと調べたい意欲がわいてきてしまいました。ということで、本日より数回にわたり、シカゴの歴史を書いていきます。
サンフランシスコと比べて、シカゴは「古い町」だと思い込んでいましたが、遡ると実はそれほど大きな違いはありません。シカゴの周辺にはもともと、アルゴンキン系のネイティブ・アメリカンが住んでおり、そこに最初に接触したヨーロッパ起源の人たちは、カナダのフランス植民地からやってきました。17世紀のことです。
【26】で述べたように、「船で欧州からやってきて、海に面した河口を発見して川を遡り、その流域を自国領と宣言する」というのがこの時代の通常のパターンでしたが、フランス人はカナダから五大湖経由でミシシッピ川を発見して下っていき、河口のニューオーリンズに達するという逆方向の経緯でした。そして広大なミシシッピ川流域をフランス領ルイジアナという「自国領」と宣言したのでしたね。
1673年、ルイ・ジョリエという裕福な毛皮商のフランス系カナダ人と、ジャック・マリエットというイエズス会宣教師の二人が、ミシシッピ川の探検に出発しました。まだカブリエ・ド・ラ・サールがニューオーリンズまで達する前のことです。カナダからミシガン湖をわたり、現在のウィスコンシン州グリーンベイから支流を経てミシシッピ川を下りましたが、途中まで行ったところで、ネイティブの人たちがヨーロッパの品物を持っているのを見かけ、スペイン人と出くわすとマズイと判断して引き返すことにしました。しかし、流れに沿って川を下るのは簡単ですが、漕いで遡るのはとても体力がいります。疲れてきたところ、途中でガイド役のネイティブ人が「湖までの近道を知っている」と言うので、それに従うことにしました。一行は、ミシシッピ川から支流のデスプレイン川にはいり、後に「シカゴ・ポルテージ Chicago Portage」と呼ばれる短い陸路を経てシカゴ川に達し、シカゴ川を下ってミシガン湖に至りました。当時、シカゴ川とデスプレイン川/ミシシッピ川はつながっていませんでした。
陸上輸送が発達していなかったこの時代、水路は圧倒的に効率的な交通手段でしたが、川の通行ではところどころ、滝や急流を避けたり、ある川から別の川に移ったりするため、船と積み荷を人間がかついで歩く「ポルテージ」という手段をとらなければなりませんでした。ジョリエ一行が往路でたどった旅程も、途中にいくつかポルテージが必要でしたが、なんせポルテージは大変なので、復路シカゴルートだと「ポルテージが短くて済む」ということが通商をしたい人にはとても魅力的で、これがシカゴの都市としての優位の原点となります。
シカゴ川がミシガン湖に流れ込む河口部分が現在のシカゴです。この付近には、ガイドのおじさん曰く「くさいネギ」(野生のニンニクとの記述もある)がたくさん自生しており、この植物をネイティブの人たちは「シカグワ」と呼んでいたので、これがフランス語風に「シカゴウ」となったのが町の名前となりました。「シカゴ」という言葉の響きはとてもカッコイイのですが、ガイドのおじさんは「イギリスのステキな町の名前がニューヨークの起源なのに、シカゴはくさいネギなのがくやしい」と、このあと数回にわたって登場する「ニューヨークへの対抗意識」を表明しました。
(シカゴの語源となった「くさいネギ」、現在の英語ではrampと呼ばれるらしい)
ちなみに、シカゴはイリノイ州に属しますが、「Illinois」というつづりは、フランス語をご存知の方なら「イリノワ」と読みたくなると思います。「イリニ族」が住んでいたので、「イリニの」「イリニの人」といった意味のフランス語というわけです。
その後、この地域で欧州各国を巻き込んだアルゴンキン対イロコイ、というネイティブ族同士の大きな争いが発生したため、18世紀の数十年にわたり、ヨーロッパ起源の人は定住することができず、放置されていました。
<続く>
出典: Chicago Architectural Foundation River Cruise Guide, Wikipedia